惨劇
抽斗を開けると、魅惑的に光り輝く赤い宝石が姿を現した。
――模造品だわ。
手に取るまでもなくミアにはそれが分かった。溜息をついて抽斗を閉じる。ドレッサーには期待できそうにないと判断し、クローゼットに歩み寄って扉を開けた。しかしこちらにも、価値のありそうな代物はおさまっていなかった。手早く物色したが、貴重品と呼べそうなものはコートのポケットからこぼれ落ちたと思しきコインが数枚だけ。パン一つの代金にも足りない。
――せっかくうまく入り込めたのに。
不満が湧き上がってきた。だがそもそもミアにも容易く入り込むことができたという時点で、たいした財産のない家だと予測できたのかもしれないと思い直す。盗まれるものなど何もない家なら、たしかに防犯になどあまり気を配らないだろう。窓の鍵が壊れていたとしても、特に問題はないと放置していて不思議はない。しかしこれぐらいではミアは諦めきれなかった。最悪、金銭なんかなくていい。自分に必要なものは、この寒さをしのぐための防寒具と食糧だけだ。それさえ手に入れられれば、他には何もいらない。そして民家なら、必ずそのどちらもあるはずだとみなして、忍び込んだのだから。
――このコート、あったかそう。
ふと手を触れた一着のコートをクローゼットから引っ張り出してみた。毛皮のコートだった。手触りだけでミアにもフェイクの毛皮と分かる代物だったが、サイズが大きく身体の小さな自分には充分に毛布として実用に耐えるように見える。
このコートがあれば、凍えることはないように思えた。ミアはそう判断すると、クローゼットのなかからその毛皮のコートを引き出す。それを抱えて踵を返した。寝室を出て、忍び足に廊下を歩いていく。家のなかは無人だが、住人がいつ戻ってくるか正確に分からない以上、あまり大きな音を立てることは避けねばならない。無人の建物であっても常日頃から気配を殺すことを習慣づけておけば、いざという時に隠れやすく逃げる時間も稼ぎやすいはずだ。
防寒具は手に入ったのだから、次は食糧を探さねばならない。ミアは食糧を求めて廊下をキッチンへと向かった。辺りは暗闇に包まれていたが、窓辺からは僅かに月明かりが射し込んでいるため、ミアには手に取るように行く手の様子が分かる。廊下をまっすぐに歩いて左へ曲がると、すぐに磨り硝子を入れた扉があった。そこを開けるとリビングルームらしき部屋で、リビングはダイニングルームと直結している。ダイニングルームはさらにキッチンとも繋がっているようだった。ダイニングとリビングにはたいしたものがない。それでミアは迷わずキッチンに足を踏み入れた。
キッチンは簡素で、そして狭かった。調理器具や調理用の家電、調味料などでごたごたとしているということはない。ここの主はかなり長期間に亘って家を空ける予定で出て行ったのだろう。冷蔵庫はほぼ空に近い上にプラグが抜かれていた。旅行にでも出ているのだろうかと思ったが、そうでなくてもあまり料理を楽しむという習慣のある人物が住んでいる家ではないのかもしれない。食器棚も小さく、あまり食器が入っていないからだ。ほとんど最低限の数ではないかと思われるほど僅かなカップと皿があるだけで、これだけの量で毎日きちんと料理を作って食べていたとは、ミアにも信じられない。
そんな有様だったから、案の定、キッチンに食糧などはほとんどなかった。かろうじて見つけられたのは塩と砂糖の入った容器と、茶葉を詰めた缶だけで、落胆が込み上げてくる。危険を冒して他人の家に侵入して、得られた収穫がたったこれだけでは泣きたくなってきた。仕方なしに容器に入ったままの角砂糖を食して空腹を紛らわせたものの、いっこうに腹が満たされた感じがしない。本当にこれ以上は何もないのかと、諦めきれずに物色を続けていると、急に光が走った。咄嗟にミアは食器棚の陰に隠れる。
――明かり?今頃に戻ってきたの?
驚きと緊張に息を殺しながら、ミアは全身に意識を向けて周囲の状況を探った。しかし室内から物音は響いてこない。どうやら住人が戻ってきたわけではないようだと悟って思わず安堵の息を吐いた。隣家で誰かが起きただけだったらしい。光はキッチンの扉から入り込んできている。先ほど、自分が入ってきたのとは反対側にある扉だ。位置的に、あの扉の向こうは裏庭のはずで、住人がそこから帰宅してくるとも考えにくい。
それでもミアは息を殺してその場に隠れ潜み、扉のほうを注視した。警戒心も否応なしに高まっていく。ないとは思うが、万一にも隣家の住人がこちらの存在に気づくようなことがあったら、すぐに逃げねばならない。
――こんな夜中に何をしてるの?
だがそうして光を見ていると、ふいに訝しく思えてきた。闇を利用して窃盗をしている自分が疑問に思うことではないかもしれないが、それにしても今時分に何をしているのだろうと思うような明かりだったからだ。時刻はもう日付が変わろうとしている。当たり前の人間は、まだ寝ている時刻だ。ミルク配達の人間だって、まだ起き出したりはしていないだろう。
しかし勿論、隣家の事情などミアに分かるはずもない。ミアにできることはただ静かに息を殺して隣家の様子を窺うことだけだ。隣家の住人が、こちらに気づくことなくこの家を退去するためにはどうすればいいか、素早く考えを巡らせていく。
隣家の様子は、扉を通してもよく見えていた。こちら側が闇に包まれているせいで、かえって硝子の向こうの明るい光景はよく見える。キッチンの扉には硝子が嵌まり、隣家との間には狭くても裏庭があり、隣家の窓にも硝子が嵌まっているだろうに、まるで何も遮るものがないかのように何もかも鮮明だった。電灯の点っている部屋には、カーテンなどは取り付けられていないのだろうか。あるいは取り付けていても、閉めるのを忘れていたのかもしれない。
光のなかには大きくて黒光りする物体が据え置かれていた。ピアノのように見える。その後ろの白い壁にはどこかの風景を描いた絵がかけられていた。家具らしきものは、その絵の傍にある書棚だけで、書棚には何やら薄めの本がぎっしりと詰め込まれている。さほどに広い部屋のようには見えず、リビングのようにも見えなかった。ピアノ練習室なのだろうかとふいに思い、そう思ったところで悲鳴が聞こえてきた。咄嗟に身を強張らせてしまったが、すぐに音源は隣家のほうにあるのだと気づいた。悲鳴は硝子の向こう、隣家のほうから聞こえてくる。
――な、なに?どうしたの?
突然の悲鳴に、ミアは動揺した。反射的に逃げようと足を動かし、ふいに視界のなかに現れてきた一人の少女に目を瞠る。明るい光のなかに一人の少女が倒れこむようにして姿を現してきた。一瞬だったが、まだ年端もいかない女の子であることだけは分かる。たぶん自分と同じか、少し年下ぐらいの女の子だ。その少女が突然、硝子のなかに現れ、床を這うようにしてピアノのほうに手を伸ばそうとしているのだ。
ミアは息を呑んだ。女の子は血にまみれていた。まるで誰かに襲われでもしたかのような有様で、突然の襲撃者から必死で逃げようとしているように見える。しかし女の子はほとんど逃げられなかった。すぐに彼女の背後に人影が現れたからだ。屈強な体格の大男で、手に何やら大きな刃物を掲げている。凄惨な色合いをした禍々しい光沢を放つそれを、男は勢いよく女の子めがけて振り下ろした。
その瞬間、ミアは自らの思考を止めてしまった。自分の見ているものが信じられなかった。
しばらくそのままなす術もなく呆然としていると、やがて明かりは消えた。いつの間にか、悲鳴は聞えなくなっていた。どのくらいの間、光が点っていたのかは分からない。短いようでもあり、長いようでもあった。混乱した気配は長く伝わっていたような気がするが、一瞬だったような気もする。自分でも時間の感覚がよく分からなくなっていた。
ミアは息を吐いた。束の間とはいえ、眩いほどの光源を見たことで、視界はいっそう暗くなったように感じられる。
――早くしないと、たぶん、すぐに警察が来てしまうわね。
ミアは静かに身を翻した。もはやたいした財産もないこの家に長居は無用だと思った。一刻も早く、ここを立ち去ったほうがいい。
隣家で起きたことは間違いなく殺人事件だ。それならばすぐに警察が駆けつけてくるだろう。ひょっとしたら、すでに誰かの通報を受けて、こちらに向かっているかもしれない。それならばぐずぐずしているわけにはいかなかった。その前に早くこの家を出なければならない。この近所一帯に、検問でも敷かれてしまえば、逃げるに逃げられなくなる。
ミアはそう思いながらキッチンの外へと足を踏み出していった。脳裏には、まだ先ほどまでの眩いばかりの光源と、そのなかに僅かに見えた、凄惨な光景が焼きついていた。




