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舌破り  作者: 東 吉乃
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かけるべき言葉をどう見つけるか

 幸が氷室相談所に雇われてから、早一ヶ月。

 世間はゴールデンウィークに突入し、どことなく慌ただしい空気が漂っている。テレビでは毎日どこそこの行列特集やら渋滞情報やらを取り上げている。しかし浮足立っている俗世間を横目に見つつ、国民の祝日である今日も幸は働かせてもらっていた。

 誤解を恐れずに言えば、本当にこの雇い主は色々なことに頓着しない人だ。

 通常の土日は事務所というか幸は休みになるが、祝祭日は休みたければ休んでよくて、働きたければ働いていいという摩訶不思議な勤務形態がここ氷室悩み相談所では認められている。祝祭日に出ても手当はつかないが、いつも通りのバイト代はきっちり出るので至れり尽くせりなのである。

 怒涛の勢いで過ぎ去った最初の一週間。

 あれっきり相談者という名の客は一人も来なかった。氷室が言っていた四、五日に一人というのはあながち冗談でもないらしい。それも紹介制と言っていたから、新規顧客は勝手にどんどん飛び込んでくるようなものでもない。

 毎日氷室と二人っきり。

 さして身のある会話をするでもなく。

 雇い主はさもそれが仕事だとでも言いたげに本を読みふけるばかりで、無駄口一つ叩かない。

 ここまでくると不思議になるのが、この事務所の経営状態だ。

 ある日を境に客足はぱたりと途切れ、しかし経営者はまるで焦りも見せず、バイトを破格の条件で雇い続ける。さして仕事らしい仕事はないというのに、だ。

 幸の本分である掃除でもすればいいではないかという突っ込みが聞こえてきそうだが、しかし残念なことにこの事務所でこれ以上掃除が必要な場所は残っていない。雇われ早々につい本気を出しすぎてしまった故、今となっては毎日の掃除時間はおよそ一時間程度あれば充分事足りてしまう。ついでにいうと今日は昼ご飯の下ごしらえもとっくの昔に終わっていて、後は頃合いを見て炊飯器のスイッチを押すだけとなっている。

 そう。

 実はバイト二日目のしょうもない買い出し顛末の翌日以降、氷室は幸が作る昼ご飯を大人しく食べている。

 傍目には体型の変化などあまり見られないが、それでも中身の方は多少はましになっただろう。身体は極力大事にすべきだという信念が幸にはあるが故、押しつけがましいだろうと思いつつ文句を言われるわけでもないので、まあ良しとしている。

 話が逸れた。

 いずれにせよ、暇だからというだけの理由ではなくそういう背景もあって、幸としては改めてこの雇い主の素性が気になるのである。

「俺の顔に何かついているのか」

 おっと、バレていた。

 言いながら氷室は読んでいた本を閉じた。休憩にするらしい。

「整ったお顔がついてます」

「そうか。お茶淹れてくれ」

 あっさりにしても程があんだろ。

 間髪入れずに突っ込むが、そこはあくまでも幸の胸の内だ。そこまで当たり前の顔で流されると、この人は本当にそのテの褒め言葉を耳が腐るほど言われてきたんだなあなんて、妙な所で一般市民の幸は感心してしまう。

「緑茶でいいですか?」

「ああ」

「ほんっと、一番似合いそうなコーヒー飲めないとか不思議ですよねー」

「飲めないわけじゃないと何度言えば分かる」

「息止めたら飲めるんでしたっけ」

「いいから働け」

「はーい」

 鬱陶しそうに氷室から手を払われつつ、ようやく与えられた仕事に幸は足取り軽く給湯室へ向かった。

 そう、バイト初日に疑問に思った日本茶ばかりの給湯室には、こちらはこちらでしっかり理由があった。あの苦いだけの飲み物が氷室には理解できないらしい。たまに目で人を射殺せそうなほど物騒な顔つきになることもある雇い主だが、意外な嗜好をお持ちなのだ。

 人は見かけに寄らないとは良く言ったものである。



 さて、休憩がてら濃いめのお茶を二人で啜りつつ。

「氷室さん」

「なんだ」

「このまま年が明けるまでお客さん来ないとか、あり得ますか?」

「大丈夫だ、それはない」

 説教されるかと恐る恐るだったが、意外にも即答だった。

「そろそろ来る頃だ」

「お客さんが?」

「ああ」

「でも予約って」

 言いかけた幸を遮るようにして、電子音が鳴り響いた。着メロではない至極単純な呼び出し音だ。氷室が胸ポケットに手を伸ばす。画面を一瞥した後、特に訝しむ様子もなく四回目のコールで氷室が応対に出た。

 最初に名乗り。次いで短い相槌を三回。最後に「では午後に」とだけ言って、氷室は二分も経たない内に電話を切った。

 一部始終を見ていた幸に、氷室が意味深に視線を寄越してくる。

「……え、まさか予約ですか?」

 幸の問いに、氷室が無言で頷いた。

「西園寺が来る」

「あのお母さん?」

「いや、娘だけだ」

「綾乃さん……でしたっけ」

 幸の脳裏に、消え入りそうだった両肩が浮かんだ。

 今年の冬から就職活動と言っていた。つまり彼女は幸と同い年になる。けれど幸とは違い、この国で誰もが羨む最高学府に通う優秀な彼女は、傍目には爪の先ほども幸せそうには見えなかった。

 言いたいことが沢山あるだろうに、飲み込み続ける。

 そんな彼女にどんな言葉をかけてあげれば良いのか、幸には少しも思い浮かばなかった。

「氷室さんだったら、何て言うんですか」

 湯呑みに視線を落したまま、幸は聞いてみた。

 一瞬間が空く。

「私は、……言葉が見つかりません。語彙が少ない上に頭が鈍いだけかもしれないんですけど、こういう時……誰かが凄く悲しそうにしてる時って、何を言えばいいんですか。どんなことを言うべきなんですか」

 分かっている。

 あくまでも綾乃の相手をするのは所長である氷室だ。幸にはカウンセラーの資格も何もない。出番などないことは十二分に理解している。

 それでも考えてしまうのだ。何をそれほど悲しむのだろうかと。その心を軽くしてはあげられないかと。一人で抱え込むのはきっと辛いはずだ。

 ふと顔を上げると、氷室が黙って幸を見ていた。

 静かな瞳だ。感情が見えない。こちらの心を見透かすような、真っ直ぐな目。やがて開かれた口からは、予想とはかけ離れた不明瞭な回答が出てきた。

「一概にこう、とは言えん」

「でも、氷室さんは色んな人の悩みを聞いてきたんですよね?」

 やっぱりそうですかと素直には頷けなかった。

 食い下がったのには理由がある。食い下がれば、期待した答えが引き出せるかもしれないと期待するからだ。心の靄を払うような、目の前がぱっと開かれるような、何かがあればいいと。

 幸に比べれば、多方面に経験が豊富であろう氷室。年齢も、おそらく幸より五つ以上は上に見える。そうであればこそ、その豊富な経験値でもってこういう時にはこう、というようなガイドライン的なものを持っているのではないかと考える。

 が、当の氷室は顔色一つ変えずに言い放った。

「数の多寡は関係ない。似たような悩みを抱える奴はいるが、完全に一致する悩みを持つ奴はいない。例えば悲しいという感情一つとってみても、濃淡は様々だ」

 幸は言葉に詰まった。

「万人が幸せになる魔法の言葉なんぞない。無難な言葉なら幾らでもあるが」

 氷室の言葉は鋭利だった。

 その代わりのように、声が酷く優しかった。ただ柔らかい。顔はいつも無表情か眉間に皺を寄せているかのどちらかが多いが、この人は声に感情が良く滲む。

「そうですよね……」

「別に落ち込む必要はない」

「なんか、ごめんなさい」

「何を謝る?」

「私が何かできるわけじゃないのに、って」

 思わず幸の口から苦笑が漏れた。

「どうしてでしょうね。同い年だからこんなに気になるのかな」

「……どうだかな」

 言った後、氷室がお茶を飲み干した。湯呑みを机上に置き、流れで立ち上がる。そのまま幸の横を通り過ぎる時に、氷室が予想外の行動に出た。

 二回。

 それも凄く優しく。

 ぽんぽん、と音が聞こえそうなほど丁寧に、氷室は幸の頭に触れてきた。

「見直した」

「……!?」

「少し出てくる。昼までには戻る」

 そして何事も無かったかのように氷室はあっさりと外出していった。

 


 取り残された幸は、何が何だか訳が分からなかった。雇い主が出ていった扉を見やりながら、しばし幸は茫然としていた。

 舌破り。

 ややあってから、そんな造語が幸の頭に浮かんできた。

 反論は許さないとばかり、こちらの舌を破り捨てるように厳しいことを言う。かと思えば、声を上げることさえ躊躇わせるような無駄に優しい声と、おまけにそんな流れではなかったはずなのに慰めるようなその動き。いずれにせよ口を封じられたことに変わりはない。

 わざとなのだろうか。だとすれば性質たちが悪い。でもその理由が分からない。あのレベルの容姿であれば遊び相手も本気の恋人も存分に選べるはずで、どう贔屓目に見ても幸ごとき門前払いを食らって終わりだ。

 毎日二人っきりで同じ空間に一緒にいるが、何をどう間違ってもそういう関係にはなり得ない。そんな状況、想像もつかんわと声を大にして叫びたい。あんな見目麗しいの相手に、いくらなんでもそこまで自分の頭はめでたくない。逆もまた然りで、氷室が幸に何を以ってして本気になるのか皆目見当もつかないし、遊び相手ならだから他に可愛いのや綺麗なのを選び放題だろう、そう思って堂々巡りだ。

 それともまさか、無意識か。

 いやそんなまさか。でもそのまさかがまさか本当にそうだったとして、だからそれが一体何を意味しているのか、それ以上幸は考えられなかった。

 雇い主のことが本格的に理解不能だ。

 何なんですか、とも言えなかった自分の小心っぷりが改めて恥ずかしい。答えの出ない疑問に悶絶しつつ、幸は茶のお代わりをしようととりあえず給湯室へと向かった。

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