白い誓願
その朝は綺麗に晴れていた。
早めに目が覚めた幸が部屋のカーテンを開けると、薄明の空が静かに広がっている。中天はまだ深い群青色だが、町内会の家々の屋根に近い空は、淡い紫から橙に変わろうとしている。
梅雨が明けたのかと思うくらい、抜けるように雲一つない空だ。
この部屋からの景色もしばらくの間は見納めとなる。今日の結婚式が終わった後は、相応の期間、氷室のマンションで生活することになっているからだ。
最初は辞退した。結婚式を挙げてもらった上、転がり込むなど迷惑をかけるにも程がある。あまり深くは考えていなかったが、氷室相談所の給料は破格なのでどこかの安アパートでも借りるか、もし氷室が許可してくれるのなら給料を減らしてもらって、事務所の二階に住み込みという選択肢を氷室に伺い出た。
しかしその二案は秒速で却下されたのだ。
娘夫婦のところに一度も遊びに来ない親がいると思うか。経験に裏打ちされた氷室の問いに「絶対に大丈夫です」とは返せず、幸はぐっと黙り込むしかなかった。
結局、氷室の問いに対しての最も安全かつ現実的な対応策は、幸が氷室のマンションで暮らすことだった。見かけ上の新婚生活は勿論のこと、実利面として幸は余計な出費がかからないし、氷室は氷室で結の食事という難関を乗り越えられるメリットがある。そう言われてはもはや突っ張る意地もなく、幸は恐縮しきりで頭を下げた。
当面の生活に必要な最低限の身の回りのものは、この数日であらかた運び込んでいる。忘れ物があれば取りに戻ることもあろうが、それでもこの家での寝泊まりは当面ない。
いつか戻ってくるのだろうが、そのいつかが来なければいいのに。
小さくそんなことを思いながら、幸は一人首を横に振って考えるのをやめた。
時計を見ると五時少し手前だった。まだ両親は寝ているだろうが、喉が渇いたこともあり、幸はそっと部屋を出た。
が、階下に降りると既に両親は起きていた。
「もう起きたのか? おはよう、早いな」
「お父さんこそ……おはよ」
ダイニングテーブルについて新聞をめくっていた雄三が目を丸くしている。だが驚いているのは幸も同じだ。互いの起床時間に感嘆し合うなど、予想もしていなかった。
「あらおはよう。ほんと、早いわねえ」
はいどうぞ、と恵美子がコーヒーカップを雄三の目の前に置く。
「幸も飲む?」
「お母さんたち、朝ご飯食べたの?」
「まだよ」
「だったらご飯食べてからにする」
「じゃあ少し早いけど準備しましょうか」
嬉しそうに笑い、恵美子はいそいそとキッチンに戻った。
それを横目で見ながら、幸はダイニングテーブルの椅子を引く。座る場所は変わらないが、およそ半年ぶりに雄三がいる景色は懐かしくもあり、どこか切なくもあった。
少し前までは当たり前だった、何の変哲もない日常。
幸が起きてくるまで、雄三は新聞を読んでいる。その横で恵美子が朝食を作る。テレビはいつもお決まりのチャンネルで、少し抑えられた音量でアナウンサーがニュースを伝えてくる。
幸が起きる頃には朝食は出来上がっていて、三人で食卓を囲む。
そう、今のように。
恵美子がお盆を持ってご飯、味噌汁、焼いた塩鯖の皿を次々と食卓に並べていく。その横で電気ポットにスイッチを入れつつ、幸は三人分の湯呑みをスタンバイさせた。
お浸しなどの軽い小鉢が三種類並んだところで、「いただきます」の声が揃った。
「豪勢だなあ」
嬉しそうに雄三が箸を伸ばすと、恵美子がうふふ、と満足げに笑った。
「だって嬉しいことが沢山ありすぎて。あなたは帰ってきてくれましたし、幸はあんな立派な人と結婚してくれますし」
「稜君か。そうだな、本当に彼はしっかりしているからなあ。安心して幸を任せられるよ」
「幸が小さい頃は『結婚なんて絶対に許さん』とか言ってたのに、変わるものですね」
「今でもその気持ちは変わらんよ。怪しい男だったら病室から叩きだしたさ」
「まあ」
穏やかな会話の中に、溢れんばかりの喜びを表してくれる両親を見て、幸の胸が痛んだ。
安心して任せられる。
父からの言葉があまりに重い。確かに氷室はどこの誰に合わせても恥ずかしくない、立派な人だ。これが偽装ではなく本当の結婚だったら手放しで頷けるが、実態はそうではない。適切な相槌を探せず、幸は味噌汁に口をつけてその場をごまかした。
喜んでいる両親の会話はゆったりと、しかし途切れることなく続く。
そのほとんどに口を差し挟めずにいると、ふと恵美子が箸を置いて幸の名を呼んできた。
「幸」
「ん? なあに?」
「緊張してる?」
「ううん、そんなことないよ」
「じゃあ少し心配? それとも不安?」
さすがは母親だ。幸の口数が少ないことに気付いていたらしい。
だが本当の理由など言えようはずもない。幸は曖昧に笑って、首を傾げてみせた。
「そう見える? 自分では普通のつもりなんだけど、やっぱり緊張してるのかな。早く目も覚めちゃったし」
「一生に一度のことだものね」
言い終わるか否かで、恵美子の目尻から涙が零れた。
「お母さん?」
「幸がね、そういう困った顔をする時は、いつも必ず何かを我慢したり堪えたりしてるのよ。あなたは絶対に言わなかったけど」
「え、……そうかな」
「そうよ。だからつい心配になったけど、でもきっと初めてのことで緊張しているのね」
「……うん、そうだよ。緊張してるだけだよ」
「今日からは、困ったことでも何でも稜さんに相談するのよ。お父さんとお母さんを頼るなとは言わないけれど、新しい家庭を持つのだから、出来る限り二人で頑張りなさいね」
「……はい」
「稜さんは幸を大切にしてくれるでしょうけど、幸も稜さんを大切になさいね」
「はい」
「幸せになるのよ」
「……はい」
言葉を詰まらせて涙を拭う恵美子を、向かいに座る雄三が目を細めて見つめていた。
いつ言おうかと迷い、ずっと温めていた言葉がある。
言えず仕舞いになるのは論外だが、しかしどんな前置きから始めればよいのか分からなかった。今なら前後の繋がりなど気にせず言える。幸は膝の上で両手を握りしめて、顔を上げた。
「お父さん、お母さん」
両親は既に箸を置いている。
幸が視線を投げると、恵美子は涙を拭いながらも真っ直ぐな、雄三はこれまで見たことがないほど優しい、そんな視線を返してくれた。
「私は、少し地味だったけど自分の名前が好きだったよ。稜さんは、私の名前を褒めてくれたの。良い名前だ、名は体を表してるって。私はそういう優しい稜さんが好きだし、尊敬してるよ。だから心配しないで、絶対に幸せになるから」
この誓いだけは必ず言葉に残しておきたかった。
きっと自分は大丈夫、と。
幼く頼りない部分も多分にあるだろうが、それでも巣立つ姿を見せたい、ただその一心で。
「私、お父さんとお母さんの娘で良かった。今まで育ててくれて、本当にありがとうございました」
どうしても語尾が震えてしまう。だが涙は堪えきった。
とうとう涙腺が決壊した恵美子を見て、雄三が苦笑しながら立ち上がる。隣の空いた椅子に腰かけて、父は母を愛おしげに抱きしめた。
二人で生きていくというのはきっと、こういうことだ。
本番を迎える前だが知っている。
病める時も、健やかなる時も、死が二人を別つまで。それはたとえ、別れの日が近く来ると分かっていたとしても、最後まで寄り添い続ける覚悟のことだ。
幸は心に固く誓う。
式が終わるまでは、笑顔を絶やさずにいるのだ。絶対に。
たとえどこかで涙を零したとしても、それは新しい門出を喜び、幸せを噛みしめているからだ。辛いことなど何一つない。
ただ父の記憶に、「幸せになる娘」を焼き付けることができたのなら、他にもう何もいらない。
* * * *
緩やかに流れた朝の時間から一変、氷室が迎えに来てくれてからはあっという間だった。
教会に入ってすぐ、幸だけが別室に案内された。一瞬面食らい幸が戸惑うと、若い修道女はそっと手を握って「大丈夫ですよ、花嫁の準備をするのです」と優しく微笑んでくれた。
聞けば、神父の懇意にしている他所の修道院から、今日の為に来てくれたという。
平日で手が空いているからと笑う彼女に、別室に到着するまでの石造りの回廊を歩きながら、幸は何度もお礼を重ねた。
やがて花嫁だけが入ることを許されるという部屋に着いた。
若い修道女が古い木の扉をゆっくりと押し開く。部屋の中は朝の光が満ちていて、眩しさに最初は何も見えなかった。促されるままに一歩足を踏み入れるとそこは赤い絨毯張りの小部屋で、左手に古い鏡台が設えられている。反対の右手側には壁に姿見があった。南向きなのだろうか、窓は扉の反対側一面に大きく取られていて、そこから光がたっぷりと差し込んでいる。
その中に、あのウェディングドレスが準備されていた。
光を受けて首元から胸、腕にかけてあしらわれたレースがきらきらと輝いている。その横に、年配のふくよかな修道女がそっと控えていた。
慌てて幸が頭を下げると、彼女は「あらまあ」と目を丸くする。そして続けて「この佳き日に、何も憂うことなどありませんよ」と穏やかな言葉をかけてくれたのだった。
簡素な修道服に身を包んで尚、彼女たちからは溢れる慈愛と気品が感じられる。
神に仕えるこの人たちほど清廉には生きられないかもしれない。けれどせめてかけてくれた言葉に恥じないよう、幸は背筋を伸ばした。
支度は手際よく進められた。
まずは髪を上げて纏める。豪華に広げるのではなく編み込みをタイトに集めるその形は、あくまでも誓願を立てる儀式に挑むからだ。華美であることは重要ではない。
あっという間に髪が出来上がり、次いで紅を乗せて化粧が仕上がった後は、ドレスへの着替えだった。
あの日、氷室と一緒に選んだドレスに袖を通す。胸元までは純白の生地があるが、首元から手首までは優雅なレースに覆われている。白いヒールを履いて姿見の前に立つと、本物の花嫁が立っていた。
「まあ。このヴェール、白百合だわ」
嬉しそうな声はヴェールを手に持つ若い修道女だった。
氷室が選んでくれたロングのヴェールは、確かに縁取りに清楚な白百合の模様があしらわれている。
「マリアさまのお花ですね。今日のこの日に、これ以上相応しい花があるでしょうか」
年配の修道女が目を細めながらヴェールを受け取る。そして彼女は、鏡越しに幸に話しかけてきた。
「これは巷で『マリアヴェール』と呼ばれているもので、よくある普通の結婚式では、こうやって……」
ふわり、ヴェールが宙を舞った。
「……ね。こんな風にマリアさまのヴェールのように顔を見せるようにつけるから、そう呼ばれているのです。ご存じ?」
「はい、一応は。衣装合わせの時にそう聞きました」
幸が応えると、年配の彼女は目尻に優しい皺を作った。
「もしあなたが良かったら、なのだけれど。少しつけ方を変えて、こんな風にヴェールダウンしてはどうかしら」
言われながら、幸の視界が薄白く変わった。
丁度、へそのあたりに白百合の模様がある。肘にかかる手前で、ブーケを持つ手の邪魔にはならない長さだ。背中を振り返ってみると、前に少し取った分だけヴェールは短くなったがそれでもドレスのトレーンよりは長く、十二分に釣り合っている。
別に構わないが、なぜ。
そんな疑問を抱いてやはり鏡越しに幸が目線で尋ねると、その答えはやはり清廉だった。
「一生に一度ですもの。マリアさまの御加護があるなら、やっぱり花嫁を守ってもらいたいわ」
ただ美しいから、そうするのではない。全てに意味がありそれを守るからこそ、儀式は儀式として成立する。
ヴェールは花嫁に忍び寄る邪悪を跳ね返すとされている。
静かに説明されて、幸は深く頷き同意した。偽物の式だとしても、出来るところだけでも真摯に挑みたい。そんな気持ちが出た。
全ての身支度が終わった後、幸は小さな小部屋に移された。
花嫁が最後の祈りを捧げる部屋らしい。案内してくれた若い修道女は「時間になったら呼びに来ます」と言い置いて、木の扉を閉めた。
部屋の中ほどには簡素な木の椅子が置かれている。この部屋も同じく南向きのようで、窓からは豊かな光が射し入ってきている。その椅子に腰かけ、幸は静かに目を瞑った。
最後の祈り。
この信仰を抱いてもいない自分は、一体何を祈るのだろう。
光の中で、幸は自然と両手を組んだ。そして目を閉じる。
脳裏に浮かんだのは、氷室に「本当にいいか」と念を押された日のことだった。
近いはずなのに、随分と遠く感じられる。最初は、本当に好きな人と結婚する時に夢や憧れはとっておけばいいと思った。これはあくまでもお芝居みたいなもので、だからカウントには入らないものだと単純に考えていた。
それが今はどうしてだろう。
芝居であることがこんなにも苦しい。これが本物の結婚式であったならと願う自分がいる。打ち明けられた気持ちを同時に忘れるよう言われたことを思えば、そんな希望は叶うはずもないのに。
本当に好きな人はこんなに傍にいるのに、この手は届かない。
届かないことに、何を祈るのだろう。
重ねて自分の胸に問う。
届かないのなら、せめてその幸せを祈りたかった。
好きな人がこれから歩む人生に、悲しいことや痛いことがどうかありませんようにと。
自然と組んでいた指に、力が篭もった。
* * * *
開かれた扉の向こうに、焦がれたその人の姿が見えた。
足元から祭壇へと真っ直ぐに伸びるのは、真紅のヴァージンロードだ。広い聖堂の中を、パイプオルガンの音が満たす。身体に響き渡る荘厳な音を受けながら、一歩、また一歩と足を進める。
手を引いてくれているのは父の雄三だ。
そっと回す腕が、随分と細くなった。不意に気付いた事実に苦しくなって、まるで縋るように幸の手に力が入った。すると半歩先を往く雄三が僅か振り返り、頬を緩めた。幸が緊張している時に、いつも「大丈夫だよ」といってくれる時の顔だ。
幸も少しだけ笑った。
そして左手に持っている小さなすずらんのブーケを握りしめた。
やがてその道も終わりを迎える。
辿り着いた祭壇には、穏やかな顔をした氷室が待っていた。
雄三が先に礼を取る。氷室は一つ頷いてから同じように礼を取り、幸の手を取った。
「……綺麗だ」
小さく、けれど確かな声に、幸は思わず視線を上げた。
目が合う。
長躯の氷室が、高い位置から眩しそうに幸を見ている。
「綺麗だ」
同じ台詞をもう一度、今度ははっきりと言って、氷室は幸を祭壇へとエスコートした。
司祭の挨拶から始まる開祭の儀は、聖歌と初めの祈り、そして聖書と福音の朗読と恙なく進められた。
次いで、最も重要な誓約の儀に入る。
氷室と二人で何度も練習した。台詞は定型だ。新郎である氷室が先に宣誓をするから、幸は同じように答えればいい。何も戸惑うことなどない。決められた流れに沿って、用意された言葉を言うだけだ。
心の中で言い聞かせてみるも、否応なく緊張は高まった。
神父が氷室に視線を移す。そして彼はあの穏やかな声で、氷室の決意を尋ねた。
「汝、氷室 稜。あなたは佐藤 幸を妻とすることを望みますか」
「はい、望みます」
決然と言われた意思に、幸は横を向くことができなかった。
少しの間を置き、神父が微笑む。
「汝、氷室 稜は佐藤 幸を妻とし、いついかなる時も――喜びの時も悲しみの時も、健やかなる時も病める時も、富める時も貧しき時も、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、死が二人を分かつまで、夫としてその命ある限り、妻を想い妻のみに添うことを誓いますか」
「はい、誓います」
間髪入れず、堂々とした誓いだった。
下を向きそうになる顔を、幸は必死に上げた。神父と目が合う。彼は穏やかに微笑んで、一つ頷いてくれた。
そして、幸の誓いが始まる。
「汝、佐藤 幸。あなたは氷室 稜を夫とすることを望みますか」
「はい、望みます」
「汝、佐藤 幸は氷室 稜を夫とし、いついかなる時も――喜びの時も悲しみの時も、健やかなる時も病める時も、富める時も貧しき時も、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、死が二人を分かつまで、妻としてその命ある限り、夫を想い夫のみに添うことを誓いますか」
「……はい、誓います」
「宜しいでしょう。しかと聞き届けました」
神父が一度目を瞑り、深く息を吐いた。
「私は、お二人の結婚が成立したことを宣言します。お二人が、たった今一同の前で交わされた誓約を神が固めてくださり、祝福で満たしてくださいますように」
祝福の祈りが授けられ、その終わりと共に幸は氷室と向かい合った。
薄白い視界の向こう、手を伸ばせば触れられる位置に氷室が立っている。
一歩、彼が歩み寄る。長く端正な指がヴェールに触れた時、氷室の喉が動いた。
「幸」
「……?」
「傍にいてくれ。ずっと、俺の傍に」
幸の息が止まった。
こんな台詞、練習した式次第にはなかった。先ほどの「綺麗だ」という台詞もそうだ。流れに沿って定型文を答えていくだけで良かったはずだ。一昨日、最後の打ち合わせでも確認したのだ、幸ならまだしも氷室が間違えるはずがない。
一体、なぜ。
せり上がった疑問はしかし、とうとう言葉には出来なかった。
氷室は真っ直ぐに幸を見つめている。
幸は目を逸らせない。だが声も出ない。
戸惑っている内に、ゆっくりと氷室の手がヴェールにかかった。丁寧な仕草で、持ち上げたヴェールを幸の背中に流す。完全に視界がクリアになり氷室を目の当たりにした瞬間、幸の目から涙が零れた。
氷室の目が僅か瞠られる。
隠そうとして幸は顔を背けたが、それは氷室の大きな手に遮られた。
「……愛している」
耳元への囁きの後、唇に触れるか触れないかのキスが落とされた。幸の頬を、また涙が伝った。唇が離れた後、氷室は幸の目尻にも口付けた。それはまるで、涙を拭うようだった。
噛みしめかけた唇を、必死に幸は微笑みの形に保つよう意識した。どんなに涙が零れても構わない、そうと決めたのだから。
そして幸は自分自身に言い聞かせる。
笑って、幸。
どうか両親に伝わるように。その目に焼き付くように。
幸せになる、どうかその未来を信じて、何の憂いもなくなるように。
笑って。
唇が離れていったのを感じて、幸はゆっくりと目を開けた。
また涙が頬を伝った。
けれどそれには構わず、両親を、父を見た。目が合う。幸は微笑んだ。父が目頭を押さえた。それは初めて見る父の涙だった。
* * * *
そしてその瞬間は、指輪交換も結婚証書への署名も済んだ後、最後の締めくくりである聖歌が流れる中に訪れた。
響くパイプオルガンとコーラスの中で、ゆっくりと雄三が倒れていった。
堅い木のベンチに座り込むように、だが身体はそのまま横に力なく投げ出された。聖歌が途切れる。数瞬の後、恵美子の悲鳴が空間を切り裂いた。
氷室の父――真が駆け寄る。救急車だ、と間髪入れず張り上げられた指示に、聖堂の隅で聖歌を歌ってくれていた年配の修道女がすぐに反応して駆けだした。
恵美子が雄三に取りすがる。
檀は修道女を追って聖堂を飛び出していった。志乃が結を抱きしめる。慶次が「車を!」と叫び、颯真がそれを受けて走った。
真と慶次が交互に雄三に呼びかける。
だが雄三の意識は戻ることなくやがて救急隊が到着し、雄三は担架に乗せられてあっという間に搬送されていった。
お父さん。
叫んだ幸は、しかし雄三を追うことはできなかった。
長いドレスのトレーンとヒールで足がもつれ、転んでしまった。涙で滲む視界に映ったのは、救急隊の後ろ姿とそれを追う恵美子たちだった。
もうそれ以上、笑顔ではいられなかった。




