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舌破り  作者: 東 吉乃


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その一線を越えた先は


 その瞬間を見たのは幸だけだった。


 とてつもなく重い何かを振り払うような動きで、伏していた猪が猛然と起き上がる。一筋の白い風が後ろに吹き飛ばされ、社にぶつかり四散した。

「シロ!?」

 確証はない。

 姿をしかと捉えたわけではなかった。ただ、一度は見たことがある白い風が消えたことで、胸騒ぎが収まらない。

 幸の悲鳴に、三兄弟の視線が一方向に鋭く刺さる。

 一呼吸の内に慶次が踏み込もうと膝に力を込めるが、反撃に転じることはできなかった。

「兄さん、駄目だ!」

 颯真の制止と同時、狛犬然と座っていたはずの火犬ひけんが慶次と猪の間に割って入った。

 一頭が体当たりで慶次を押し退ける。空いた場所に間髪入れず、黒く太い前肢が叩きつけられる。そこに素早くもう一頭が噛みつく。しかし横なぎに払われ、その身体は火が消えるように空中で解けた。

 慶次を突き飛ばした一頭が、くるり、身体を翻す。

 地を蹴り高く飛んだ彼は、真正面から猪の鼻面に食らいついた。

 猪が暴れる。

 赤銅に輝く身体が大きく円を描く。遠心力で宙を振り回されているにも関わらず、その一頭は負けじと唸り声を上げる。

 そこに、幸の隣にいたはずの最後の一頭が加わった。速い。怯むことなく一直線に駆け、大きく飛び、猪の目の下に牙を立てる。だがそれも束の間、猪が左右に激しく頭を振ると、二頭とも宙に放り出され消えてしまった。

 颯真ががくりと膝を折る。

 その姿を猪の赤い目が捉えた。

 両者の間に、今度は体勢を立て直した慶次が立ちはだかる。巨体の突進を全身で受け止めるが、重さ負けしているのか踵が後ろ滑りする。慶次の気合の声と共にそれは止まったが、組み合ったまま両者一歩も動かない。

 青森でやったように放り投げるのかと思いきや、焦るその表情から力不足であると見受けられる。

「く、この……っ、火事場のクソ力かよ……!」

 悪態をつくも形勢は変わらない。それどころかじりじりと慶次の足がまた滑り始めた。

 ミドリは反撃はおろか慶次を守るのに精一杯のようだ。

 慶次の草履と土が擦れ、ずず、と音が鳴る。土俵際の粘り腰もかくやの堪えっぷりだが、慶次の気力体力は無尽蔵ではない。早晩限界は訪れて、その時はどうなるのだろう。

 怖い。

 颯真はしばらく立ち上がれなさそうだ。慶次も辛そうにしている。戦える彼ら二人が負けてしまったら、見えない氷室とゼロ感の幸だけでは対抗手段がない。

 三十六計逃げるに如かずと昔の人は言うが、そんな余裕があるのか。走り屋さながらの運転でも追手はかかっていたというのに。

 本当にどうなってしまうのだろう。

 未知の領域すぎて想像も及ばない。だがあまり愉快な顛末にはならないだろうことも想像に難くない。

 幸の全身に鳥肌が立つ。

 うわ、と思って半袖の腕を見遣ると、二の腕まではっきりと総毛立っていた。と、眺めていた肩に手がかかる。指先から手の甲、そして腕へと辿ると、それは氷室だった。

「何が見えている?」

 声が切迫している。

「え、と、慶次さんが黒い大きな猪と組み合ってて、でもなんだか潰されちゃいそうで」

「さっき『シロ』と言ったな。狼っぽいのが見えたか」

「いえ、見えたのは一瞬で白い影だけでした。猪が振り払うみたいに身体を震わせたら、あのお社の方に飛ばされて」

 飛ばされたと思ったら颯真が膝をついた。

 氷室が背中を振り返り、未だに肩で息をしている末弟を見る。

「……それは多分シロじゃない、アオだ」

「分かるんですか?」

「シロが吹っ飛ばされたなら、俺がああなってる」

 親指で颯真を指し示しながら、氷室が眉を顰めた。

 そして、

「幸。お前、俺の目になれ」

 咄嗟に言われたことの意味を図りかねた。

 かろうじて言えたのは、途切れ途切れの疑問だった。

「目ってそんな、どうやって?」

「まずは猪の位置を。動きがあればそれを追って教えてくれ」

「位置と動き? それ実況中継ってことですよね? 無理です、やったことないし、上手くできる気がしません」

「大丈夫だ、できる」

 氷室の声は確信に満ちていた。

「この三ヶ月、どれだけ一緒にいたと思っている。言葉足らずだったとしてもお前が何を言いたいかくらい分かる」

 俺を信じろ。

 言いながら、氷室の手が頬に延びてきた。右の耳をなぞり、頬に触れられる。大きくて武骨な手はいつも通りに温かくて、落ち着き払っている様子は事務所にいるのかと錯覚する。

 大丈夫。

 氷室が言うのなら、本当にそんな気がしてくるから不思議だ。しかし素直に頷きかけたのも束の間、幸はもう一つの懸念を表した。

「稜さんは、でも、積極的に相手にどうこうはできないんじゃ」

 守る為の力のはずだ。誰かに仇なす力ではない。

「それともぶん投げたりとかだけは限定でできるとか?」

「そうできれば話は早いんだがな」

「え、じゃあ殴ったりもできないのにどうやって」

「やりようはいくらでもある。それより頼んだぞ」

 それ以上の問答を打ち切るように、氷室の手が頬からするりと離れていった。


*     *     *     *


 氷室がおもむろに手に取ったのは、山裾に生えている熊笹だった。

 何が始まるのだろう。首を捻った幸を氷室は振り返り、目線で「猪はどこか」と問うてくる。慌てて幸が目を転じると、今にも膝を折りそうになりながら、未だ慶次が組み合っていた。

 真正面から慶次と組み合っている、そう伝えると、氷室は一つ頷いて駆けた。

 慶次の背面に回る。

 そのまま持っていた熊笹を無造作に猪に投げつけ、その熊笹に空中で手をかざした瞬間だった。


 どぉん!


「……っえぇ!?」

 大きな衝撃音に幸の身体が竦む。

 目の前には右手を突き出したまま佇む氷室、尻もちをついた慶次、そして社側に大きく横倒しに飛ばされた猪と、三者三様だ。

 倒れた猪に横目で注意を払いながら氷室が慶次に手を貸す。起き上がった慶次は顔を顰めながら頭を二度三度振った。しかし眩暈を起こしているのか立ち上がることはできず、片手で頭を押さえている。

 猪の四肢が動く。

 慶次とは対照的に腹を見せて横たわっていた割には、猪はすぐに起き上がった。

「稜さん後ろ! 猪来てます、速い!」

 幸の叫びにも顔色を変えず、氷室はもう一度足元から熊笹を一枚千切った。

 掌に重ねるようにそれを宙に掲げる。まばたきの後もう一度先ほどと同じ轟音が響き、猪が後退した。

 氷室は社前の広場を注視している。

 何をどうして今の大技が繰り出されたのかは分からないが、それでも見えていないのはやはり確からしく、猪が横に動いたのを目で追うことはなかった。

「右に行きました! 颯真さんの方です!」

「ああ、上出来だ」

 あくまでも冷静な声のまま、氷室が地を蹴る。

「真っ直ぐ、あと五メートルくらい!?」

 距離は目測なので自信はない。だが氷室には十分なガイドになったようで、猪が突っ込んでくると同時にまたしても突進を防いだ。颯真は背中に庇われた格好だ。

 猪が咆哮を上げる。

 しかし今度はその動きを止めて、氷室の出方を窺っているようだ。突進を二度も阻まれた不思議な力を警戒していることは想像に難くない。

 氷室もまた自分からは飛び込まない。何かを待っているようだ。


 何を待っているのだろう。

 逃げた方が多分、簡単であるのに。


 そんな疑問が幸に浮かんだ時、慶次がようやく立ち上がった。それを見て、氷室が頬を緩める。待っていたのは慶次の回復だったのだ。合点がいって、次にもう一つの疑問が幸に浮かぶ。


 どうして慶次を待つのだろう。

 それは「絶対に退く気はない」という決意でもある。

 逃げないのは何故だろう。

 一銭にもならずまして危険なこの化け物退治を請け負ってくれるのは、何故なのだろう。一つ一つを順番に考えていくと、胸が苦しくなる。


 その先に、いつか言われた「愛している」という言葉があるような気がして。






 立ち上がった慶次が両手で頬を叩いた。気合が漲る乾いた音が森に響く。その足元に、白い風が円を描いた。

 あ、と。

 幸が目を瞠った時、白い風は厚みを増して黒い猪に躍りかかった。慶次も合わせて前に踏み込む。風が巨体を包み込むかと思われたがしかし、寸でのところでそれは叶わなかった。

 黒い影が白の間隙を縫って大きく飛んだ。


 動きがコマ送りになる。


 黒い影に、赤い一対の瞳。目の前で膨らんでいく。それはきっと、近付いているからだ。

 その後ろ、白い風がうねる。

 慶次の顔が驚いている。

 黒い影はゆっくりと口を開けていく。大きな牙が四本、迫る。

 間に合わない。

 どこに逃げてもきっとあの牙に捕まってしまう。足が竦んで動かない。怖い。だが瞬きもできない。


 凍りついた視界。


 不意にそれを満たしたのは紺藍の、美しい夕闇の色だった。

 力強い腕が幸の身体を抱く。視界が大きく横に倒れていく。衝撃が全身にくる。だが不思議と痛みは感じなかった。緩衝に柔らかい何かが入ってくれたような気がした。

 紺藍の背中から、金色の筋がするりと出でる。

 音もなく広がった光は意志あるように動き集まり、猪に匹敵する大きさの四つ足――幸の知っている言葉で言えば、狐――を形作った。

 一瞬だけ金色の狐が振り返る。

 煌めく瞳は貴石さながらの透明な紫だった。ふかふかの毛皮に、尻尾が何本あるか分からないほど生えている。居並ぶ牙は物々しいが、開いた口元は笑ったように見えた。


 氷室の肩口から幸は見た。


 金狐が黒い猪のうなじに噛みつく。毛並みの良い、僅かにつま先が白い四肢でしっかりと大地を踏みしめ、大きく首を振る。猪の巨体がぬいぐるみのように宙に放り投げられた。

 そこに白い風が巻く。

 狼だった。

 白い体躯、毛先は僅かに銀色に光っている。金狐より一回りほど小さいだろうか。しかし、真っ赤な口を大きく開き猪の喉笛に食らいついた一連の動きは、怒りが全面に出ている。大きさも相まって獰猛さの迫力は火犬の倍以上だ。

 美しいサファイアを彷彿とさせる青い目が、怒りに眇められる。

 次の瞬間、捕えた猪を大地に叩き落す。

 くるりと空中で一回転して、白銀の狼は前肢で猪の上に飛び降りた。猪の巨躯がびくりと震える。縫いとめられるようだ。

 遠吠えが響く。

 不思議な音色だ。深く優しく、何かをいざなうように余韻を残す。


 そして黒い猪は大地に溶けた。


*     *     *     *


 あまりに現実離れしていた光景に、幸はただただ目を奪われていた。

「……」

 口を開けたまま呆けてしまう。

 最後に姿が見えた、あれは多分――シロとキン。美しいとしか形容できないその姿が、強く焼き付いている。

 四肢で大地を踏みしめたままのシロに、キンが近寄り頬を寄せた。無数の尾が集まりふわふわの尾がゆらゆらと揺れる。その度に金箔が散るように空気が煌めいた。

 お疲れさん、そう言いたげなキンに、溜飲が下がりきっていなさそうなシロがそれでも尻尾を一度振り返した。

 見えたのはそこまでだ。

 二頭はすぐに白い風と金の光となって四散した。



「……大丈夫か」

 左の耳元で声が響く。

 はたと気付いて首を傾けると、氷室の顔が間近にあった。

「だい、じょうぶ、なんですけど、えっと」

 我に返ってみると、幸は完全に氷室に押し倒されていた。ただし背中には氷室の腕が回っていて痛くはない。

 咄嗟のことで認識できていなかったが、あの時視界を覆った紺藍は氷室の狩衣だったのだと今更ながらに合点がいく。動けなかった幸をまさにその身を盾にして守ってくれたのだ。

 衝撃が柔らかかったのも、頭を打たずに済んだのも、全て氷室のお陰だ。

 お陰なのだが、しかし。

「あの、ちか、ちかいと思うんです、けど」

 堅く厚い胸板に、頬が熱くなる。

 抱きしめられる腕の力強さが、逃げられないそのきつさが、心拍数を上げる。

「何もされていないか」

 現在進行形でされてますとはまさか言えない。

「俺は見えない。だからお前を守りきれたかどうか不安だ」

 いつもよりほんの少しだけ沈んだ声に気付いて、幸は背けていた顔を戻した。

 端正な顔、その頬に赤い線が一筋走っていた。

 代わりに請け負われた傷だ。幸の鼻の奥が痛くなって、視界が滲んだ。

「っおい、どこか痛むのか。背中か、足か?」

「鼻、が」

「……鼻?」

 動揺の声から一転、怪訝な返しが来る。

「悪い、倒れこんだ時に潰したか?」

「いえ痛いわけじゃなくて、涙のせいで」

「痛くないのに泣いているのか。まあ、そうだな。驚かせたとは思う。すまん」

「いえそうじゃなくて、いやびっくりしたはしたんですけど、だから泣いてるわけじゃなくてですね」

 氷室が目を瞬いた。では一体何が理由で。その目はそう問うてきている。

 幸は手を伸ばして、そっと氷室の頬の傷に触れた。

「これ、ごめんなさい」

 口に出すと、涙がまた溢れた。

 仰向けになっているせいで、目尻から零れた雫はこめかみを濡らしていく。だが氷室は「何を言っているのか」と言いたげに首を傾げて怪訝な顔をするばかりだ。

 一から十まで説明しなければ分からないのだろうか。

 容姿も才能も恵まれているこの人はしかし、女心を読むのは得意ではないらしい。

「私のせいでごめんなさい。でも嬉しいんです。私は、稜さんに逢えて本当に良かった」

「……何を急に。冗談は」

「嘘。冗談じゃないって、本気だって、稜さんが一番分かってるはずです」

 氷室自信が誰よりずっと忌避してきたその力。

 考え方を変えればいい。

 心を覗くのではない。言葉では伝えきれない気持ちを汲み取ってもらえるのだとしたら、言葉だけの関係より遥かに深く分かり合えるということになりはしないだろうか。

 嘘を吐かなければいいだけだ。

 誠実に生きていけば何を恐れることがあるだろう。誰かに寄り添うのなら、本当は誰もがそう在るべきなのに。


 伝われ。


 何も持たない平凡な自分であるけれど、だからこそ真摯に向き合いたいと願っている。自分が誰かにできることは多くない。だからせめて、傍に居続けられたらと思う。

 理由などいらない。

「……よせ」

 抱きしめられる腕に力が込められた。

 幸は泣きながら首を横に振った。何度も何度も振った。


 一生、自分がこの人を好きでいたのなら。


 そうすればいつかこの人の中に、痛い思い出より優しい記憶が溢れてくれるだろうか。


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