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舌破り  作者: 東 吉乃


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問われる覚悟


 ……あれ?

 ごしごし。目を擦り、もう一度幸は目の前の光景に目を凝らした。


 …………おかしいな?

 ごしごしごし。今度は強めに、両手で両目を擦る。



「どうした?」

 背中から氷室が尋ねてくる。

 答える前に瞬きを三回重ね、やっぱり変化のない視界に首を捻りつつ、幸は答えた。

「なんか……良く分かんないんですけど、見えてるような気がするような」

「……守り人たちが、か?」

 氷室の声は半信半疑だ。当たり前だ、当の本人である幸自身が半分どころか十割疑っている。

「た、ぶん?」

 急に賑やかになった世界に戸惑うのに忙しくて、幸の返事は疎かになった。

 そういう特殊能力には恵まれていないはずだ。何がどうしてこうなった。もしかして頭がおかしくなったのか。そんな疑問を抱く程度に、広がる光景はファンタスティックだ。


 慶次と颯真の向こう、一際大きな黒い毛むくじゃらの塊が立ちはだかっている。ちょっとした小山のようだが、良く見れば牙が生えて四つ足で、あれは確かに猪だと分かる。

 その周りを取り巻く三つの影がいる。

 一定の距離を保ちながらも低く構える油断のなさは、良く訓練された猟犬のようだ。事実、三頭の姿形はシェパードを彷彿とさせる。ただし色は煌めく赤銅。シェパードどころか明らかにこの世のものではない。

 慶次の背中、というか頭上にはミドリが見える。

 前情報どおり綺麗な深緑色の羽を広げ、長い尾羽――本当に長くて、四、五メートルはある――で、ゆるりと慶次を守るように幾重にも包んでいる。

 同じように颯真のすぐ傍に、白い龍のアオがとぐろを巻いている。

 こちら、尻尾の先で申し訳程度に颯真をくるりと覆っているが、ミドリのそれと違いやっつけ感が半端ない。なんせ颯真の横で、それ以上に長いその胴体が三重にとぐろを巻いて尚余り気味なのだ。

 それだけ長けりゃもののついでくらいの気持ちになるのだろうか。

 もう少し巻けば色といい艶といい、巨大ソフトクリームにしか見えない。

 そして、昨晩解説された軽量級と重量級について、ここにきて幸は納得した。見た目の大きさ比、アオを十で見るとミドリは一より少ないくらいか。対峙している猪はアオより一回り小さいくらい、量的に八と換算して良いところだろうか。


 陣営は明らかに分かれている。

 そしてどう見ても臨戦態勢、総員第一種戦闘配備だ。だが氷室は見えない目であるが故、この景色が正しいのかどうか答え合わせは望めない。


「何が見える?」

 背中から幸を抱き込みつつ、氷室が尋ねてきた。

 この恥ずかしい体勢に慌てふためきつつ、幸は目に映る色鮮やかな彼らを説明した。黒い猪、赤い犬、緑の鳥、白い蛇。言いながら「自分の頭と目がおかしくなったのか」という疑問は拭い去れない。

 しかし氷室は特に笑い飛ばすこともなく、少しの間を置いて言った。

「……てられたな」

 意味が分からず幸が振り返ると、一度目を合わせた後で氷室は前方に視線を投げた。

 そして氷室は「ドーピングみたいなものだ」と前置きをして、幸に向き直った。

「氷室の直系が二人、全力で、それもこの至近距離で戦っている。力の余波を受けて、一時的に見えてしまっているんだろう」

「そんなのアリなんですか? 余波って、うっそー……」

「まあ本当に見えない奴はドーピングも効かないから、お前には少しばかり才能があったみたいだな」

「才能と言われれば嬉しいは嬉しいんですけど……いやでも、うそでしょー……」

 一目でいいからとかつて望んだ世界だ。

 偶然の産物とはいえ不意に垣間見ることができて、感慨深くはある。だがそれ以上に俄かには信じ難くて、語尾が消えがちになる。

「心配しなくていい。どうせ少し経てば自然と見えなくなるものだ。待てなければ、慶次にフィルタをかけさせる」

「は? フィルタですか?」

 サングラスとかではなくて? というのは幸の疑問だ。

 違う、と氷室が首を横に振ったので、またしても斜め四十五度だったらしい。

「そういう物理的な話じゃない。お前の目が干渉を受けないように、逆に力をかける」

「なんていうか、なんでもできるんですねえ……」

「慶次はまあ、そうだな。歴代当主の中でも芸が多い方だろう」

「芸ってそんな、犬や猿じゃないんですから」

 ところで話題に上がっている弟その一は、現在進行形で猪の懐に入り込みがっぷり組み合っている。

 すごい。

 普通の人間にしてみれば普通の猪でも手に負えないというのに、特大版を相手に互角の勝負だ。そろそろあの弟御も人外認定を受けて良さそうだがどうだろう。


 颯真が助っ人に来てくれたお陰か、相手と体格差があれども慶次には安定感がある。

 用心の為に幸と氷室は彼らから距離を取っているが、しかし先ほど受けた大軍の急襲から比べると、慶次も颯真も落ち着いている。


 猪の背には赤犬の一頭が思いっきり齧り付いている。赤犬はミドリと同じくらいの大きさだが、怯むことなく勇猛果敢だ。残りの二頭も勇ましく吠えたてながら、猪の四つ足にこれでもかと牙を立てる。

 どう見ても熊狩り。

 但し動きは現実離れしている。

 赤犬たちはひらりひらりと身軽に動き回る。数メートルの単位で。それも途中で消えたり現れたり、神出鬼没という言葉が相応しい。

 猪はそんな彼らの動きに気を取られるようで、不満気に唸り声を上げる。

 巨体に相応しく地響きのような太さだ。

 至近距離での咆哮に耳が痛いのか、慶次が顔を顰めながらも振り返る。その口が「颯真」と叫んだ。


 呼ばれた末弟は、右手でゆるりと宙を撫でた。


 いつもの幸ならそう見えたはずだ。

 だが今は違う。その手が何に触れたのかが克明に分かる。若く引き締まったその手は、長く美しい巨躯を撫でた。

 白く輝く美しい組み紐が解かれる。それと同時、三つの赤い光が散る。

 ふわりと広がった白い龍の身体は、次の瞬間、黒い猪をぐるっぐるの簀巻きにしていた。


 猪がもがくが、龍はそれを許さない。

 龍はその長躯を活かして、真正面から猪を見据える。金色の瞳が煌めく。僅かに開けた口には鋭い牙が居並び、まるで逃げられないことを笑うようだった。



「慶次兄さん、いつでもいいですよ!」

「よしきた送るぞ!」

 言うが早いか慶次が猪を持ち上げた。白い龍――アオ付きのまま。

 ピッチャー、振りかぶる。

「飛んでけおらああ!」

 戦う神主は気合の叫び通り、猪と龍をぶん投げた。

 訂正したい。

 ピッチャーどころか野球ではなく、砲丸投げでした。

 

*     *     *     *


 豪快すぎた砲丸投げの後、一行は会話もそこそこに青森空港へと急いだ。

 レンタカー返却、空港チェックインから荷物預け、手荷物検査まで三兄弟が手分けしてテキパキと進めてくれたお陰で、幸は何一つ出番なく終わった。

 搭乗まであと十分ほどだ。

 この時間を利用して氷室は実家と檀に電話をかけている。前者には「自分達が戻るまで神社の敷地から一歩も出ないこと」を、後者には「あと一両日の見守りを頼む」と簡潔に述べる。

 その横でそういえばと思い幸は目を凝らしたが、氷室の守り人であるはずのシロとキンは影も形も見えなかった。


 あれ、なんで?


 怪訝な顔で首を捻る幸に、気付いた慶次が話しかけてきたので、幸は先ほど仕入れたドーピングの話を振ってみた。

 慶次は幸が見えたことに対して手を打って笑った。曰く、「兄貴より才能あるとか面白すぎ」だそうだ。ただやはりドーピングはドーピングなので、慶次や颯真が傍でそういう力を使っていない限り、すぐにその効果は無くなってしまうという見解を得た。

 余韻も残らないのは多少寂しい。

 だが偶然とはいえあちらの世界を垣間見ることができたのは貴重な体験だった。

 もののついでに幸はもう一つ不思議に思ったことを訊いてみた。氷室の言った「てられた」という現象、凡庸な幸ごときがその影響を受けられるのであれば、氷室にも同じ事象が起こってもおかしくはなさそうだがどうなのだろう。

 単純な疑問はしかし、「ムリムリ」とあっさり否定されてしまった。


 ただでさえ「見る」才能が薄いところに、強力過ぎる守り人がついている限り、その手の干渉は排除されてしまうから、らしい。

 てられないように守られているとも言えるわけだ。


 なるほどそれなら仕方ない。


 妙に納得させられたところで、搭乗のアナウンスが流れてきた。

 丁度電話を終えた氷室が戻ってきて、四人は揃ってボーディングパスを通った。






 東京に戻ると天気は曇りだった。

 有難さに思わず幸は息を吐いた。これから山に入るというのに、雨だと色々と具合が悪い。

 慶次の判断で、氷室の車に颯真が同乗することになった。ここまで来たら聞かなくても分かる、つまりボディーガード役だ。

「ついていける程度で頼むぜ、兄貴」

 車に乗り込む時に慶次が言う。

 これも今なら聞かなくても分かる、つまり急ぐにしてもぶっちぎらない程度に宜しく、という意味だ。それほどに氷室の運転技術は飛び抜けている。

 軽く手を上げて応えた氷室は、果たして了解したのかどうか甚だ怪しかった。

 幸が手に汗を握る程度に、そして車を降りた慶次が開口一番抗議をする程度に、エンジンは唸っていた。



 氷室の実家に滑り込んだのは、昼を回った頃合いだった。

 二台連なって裏門から入った音が聞こえたか、荷物を降ろしていると志乃と結が迎えに出てきてくれた。

「おかえりなさい、大変だったわねえ」

 状況はそれなりに切羽詰まっているのだが、志乃にかかると空気が緩む。

「お袋、山はどうなってる?」

 飛びついて来た結を抱き上げながら、氷室が訊いた。

 青森から転送した猪の件だ。

 計画では青森でふんじばった猪を一足先に白金山に送り、幸たちが戻るまで山の主であるところのシロとキンに抑え込んでもらうことになっていた。

 逃げられていないか、何か不測の事態は起こっていないか。

 氷室の声音はそれらを心配している。

 とても良く見える目を持つという三兄弟の母は、その年齢より随分と幼い笑顔を見せた。

「大暴れしてるわよー。元気あり余ってるって感じね」

 のんびりした口調と言ってる内容がかけ離れすぎている。

 大暴れしているとは穏やかでない。

 だが受けた方の三兄弟はそれぞれ上から順に「まあそうだろうな」、「んなとこだろうと思った」、「でしょうね」と大変に冷静な相槌を打っている。


 この動じなさ。

 事だ。


 小心者の幸としては見習いたい所存だが、この場で一人狼狽えている時点で修行の道は険しく遠い。

 そんな幸の内心はつゆ知らず、そうそう、と志乃が手を叩いた。

「準備してますよ。三人分」

「え、僕もですか?」

 素っ頓狂な声を上げたのは颯真だ。

「だって稜さんがそう言ったもの。ねえ?」

 含み笑いをしつつ、志乃が首を傾げて長男を見遣る。

 受けた氷室は至極真面目な顔で、颯真に向き直った。

「失敗は許されない。万全を期す」

「稜兄さんが言ったら冗談じゃなくなるんですよ? ああーもう、こうやってなし崩し的に家業に引きずりこまれるんですね……」

 颯真の眉が八の字に下がった。

「諦めろ。長男様には逆らえない運命だ」

「とかなんとか言ってどうせ小間使いにする気満々でしょう、慶次兄さんは」

「んんー、火犬ひけん使いの弟は戦力として申し分ないからねえ」

「いつでも呼べるわけじゃありませんよ。何度も言ってますけど」

 家に向かってさっさと歩き出した長男を追いつつ、次男と三男があれこれ言い合う。その様子を眺める志乃の目尻が優しくて、幸は少しだけその柔らかな雰囲気に見惚れていた。



 志乃が準備していたものは、二十畳ほどもありそうな広い座敷に広げられていた。

 三色の狩衣が、三つの衣桁いこうにそれぞれかけられている。部屋の外からその様子を確認した三兄弟は、そのまま潔斎をしてくるということでこの場にはいない。

「もしかしてこれ、大樹の君がしてくれるっていう斎衣、ですか?」

 庭に面している廊下の雨戸は全て開け放たれ、吹き込む風が優しく衣を揺らしている。

 小間物を確認する手は休めないものの、志乃がにっこり笑って頷いてくれた。

「お清めはもう終わって、上げてきた衣ね。今日はご機嫌みたいで早かったわ」

 ふわり。

 相槌のように狩衣の裾が翻る。さながら涼やかに笑うようだ。

 ふと志乃が立ち上がり、幸の傍に立った。

「大丈夫よ」

 温かい手が幸の手を包んだ。

「あなたの名前には、願いと想いが込められている。あなたの未来はいつも温かくて幸せが溢れて、必ず笑顔になる」

「私、単純なので……そう言われたら信じちゃいます」

 唐突に始まったかに見える会話は、これから始まる大事に向けた励ましだ。

 とりたてて捻りも何もない、普通の名前だった。それでも両親の気持ちが篭められた名前を幸は愛していて、だからたった一言であっても志乃の言葉は嬉しかった。

 知っている。

 その場しのぎで口当たりの良いことだけを言う人ではない。

 きっとそれは色々なものが鮮やかに見えすぎるからだろうと思う。一度、幸も息が詰まるほど辛い現実を突きつけられた。だがその事実があるからこそ、その言葉に嘘はないと信じられる。


 縁側から絶えず吹き込む風が優しい。

 それからしばらくを互いに無言でいながら、過ぎていく風に身を任せていた。


 やがて話し声と共に、三兄弟が戻ってきた。

 三人とも真っ白な和装だ。言われなくても分かっているのか、三人は迷うことなくそれぞれの衣桁に真っ直ぐ向かった。

 氷室が手にしたのは、深い夕闇のような紺藍こんあいの狩衣だった。同じように慶次は常盤色ときわいろ、颯真は山吹やまぶきの鮮やかな狩衣に手を通す。

 あっという間に三人の若き神主が仕立て上がった。

「気を付けるのよ」

 穏やかな母の声に、息子たちは力強く頷いた。


*     *     *     *


 青森の山とは違い、白金山には整えられた山道があった。氷室神社に繋がる参道のような石造りではないものの、斜面は杭で区切られて階段状になっており、上るのはそれほど苦ではない。

 周囲の森は静謐だった。

 空気が涼しくて胸の内が洗われる感覚だ。広葉樹の高い梢の先から、そこかしこに差し降りてくる午後の光が美しい。

 大自然の中、慶次を先頭に野の階段を駆け上る。三兄弟の背中を追うと、まるで平安時代に迷い込んだような錯覚に陥った。


 開けた場所に辿り着いたのは、肩で息をして、太ももが悲鳴を上げ始めた頃合いだった。


 山に入る時と同じ鳥居が階段の終わりに立っている。美しい朱だ。その向こうに町内会の盆踊りくらいはできそうな広場があり、最奥には小さな社が佇んでいた。

 それまで急いでいた足を慶次が緩める。

 広場の中ほど、大きく光の輪が地面を照らしている場所で、その歩みが止まった。

「さすが総本山。がっちり押さえこんでるわ」

 ひゅう、と慶次が口笛を吹く。

 え、どこに。

 思わず幸が目を凝らすと同時、社の前に大きな影が盛り上がった。急な存在感に目を瞠る。それは青森で目にした、あの大きな猪に違いなかった。

 目が赤く光る。

 真昼間だというのに恐ろしくて、幸は全身が総毛立った。

 低い唸り声が轟く。今にも飛びかかられそうだがしかし、黒い巨躯は何故か地面にべたりと倒れたままだ。何か重たいものが背中に圧し掛かっているように見えるが、姿は見えない。

「兄貴、さっちゃん宜しく」

 ずい、と慶次が一歩前に進む。

「ああ」

 返事と合わせ、氷室が肩を抱いてくる。

 密度の濃い空気がふわり、触れる。優しい風が幸に集まる。

「抜かるなよ、颯真」

「後ろは任せて下さい。慶次兄さんは心置きなくどうぞ」

 颯真が指を鳴らすと同時、赤い影が一つ二つ三つ、順に姿を現した。

 一頭が鼻先を幸の右手に寄せてくる。見た目は炎さながらに煌めいているのに、熱さは全く感じない。それが不思議だ。驚きながらも首筋を撫でてやると、太いしっぽがゆらゆら揺れた。

 そのまま一頭は幸の傍に陣取った。

 一方、残りの二頭は狛犬のように幸の前に腰を据える。


 どうなるのだろう。

 幸の手に汗が滲んだ。


 猪は地面に這いつくばったまま唸り声をあげるばかりで、動く素振りはない。志乃が言っていた「大暴れだった」が本当なのか、疑わしいほどに静かだ。

 慶次が振り返る。

「さっちゃんはどうしたい?」

「え?」

「お父さんの病気もお母さんの事故も、間違いなくこいつが元凶だ。やろうと思えば跡形もなく塵に還すこともできるけど?」

 唐突に尋ねられた決意の程は、即答できなかった。

 こうなってしまった元凶。

 確かにそうなのかもしれなくて、関わり合いになっていなければ違う未来がきっとあった。それは氷室に出逢えていなければ知り得なかった事実でもある。

 慶次の言葉は親しみやすく軽い。だが内容は容赦がない。

「塵……以外の選択肢ってありますか?」

「もちろん。すり潰すでも木端微塵でもお望みどおりに」

「……つまり結論は同じ、なんですね」

 反論はなかった。

 慶次はただ、笑顔で肩を竦めた。笑っているはずなのに迫力がある。いつもの剛毅ながら屈託のないそれと比べてみると、その目が笑っていないことに気付いた。

 そんな顔をされて、どんな顔を返せばいいのか分からなかった。

「それだけのことをされた。越えてはいけない一線だった。情状酌量の余地はない、そういうことだ」

 頭上からの声に、幸は後ろを仰ぎ見た。

 狩衣の氷室が真っ直ぐに猪を見ている。つられて幸も猪を一度見たが、真意を問う為に氷室に視線を戻した。

 そこで目が合う。

 氷室は笑っていない。真剣な顔だ。だがこれまで見たどの真剣な顔とも違う。何が違うのだろう、少し考えて思い至る。

 怒っているのだ。

 表情が消える程に。けれど反対に極力抑えられている声が、静かな怒りを浮き彫りにする。

 張り詰めた空気にどうしたら良いか分からなくなって、幸は颯真を見た。人当り良い柔和な物腰の彼ならば、もう少し穏便な反応を見せてくれるのではと期待して。

 だが期待は外れた。

 末弟もまた、兄たち二人と同じように頬を引き締めて首を横に振った。


 彼らの態度が物語る。

 原因が分かったとしても、もう元には戻れないことを。


 だから彼らはこれほどまでに怒りを露わにしてくれる。


 これが氷室という家の本当の姿なのだろう。

 苦しむ誰かが助けを求める度に、その手を差し伸べる。そして憤る。怒る。責める。弾劾する。

 寄り添う。

 痛かったのだから、これ以上我慢しなくていい。苦しかったのだから、楽になっていい。如何なる理由が相手にあろうとも。そうやって、怒りをぶつける許しをくれている。


 けれど、本当にそれでいいのだろうか。


 単純ながら強い疑念が幸の胸にせり上がった。

 簡単なことだと思う。殴られたら殴り返せばいい。その理論はシンプルかつ明快で、特にやり返す側は躊躇う必要もない。

 雄三は現代医学を以ってしても、取り返しのつかないところまで来てしまった。恵美子も一歩間違えればこのまま目を覚まさないかもしれない。間違いなく状況は差し迫っている。

 あとは幸が頷けばいい。

 宜しくお願いしますと頼んで、始末をつけてもらえば終わりだ。

 それでも幸は、そのたった一言を口に出せず立ち尽くした。


 初めて目の当たりにした隣の世界は、鮮やかに色づいているからだ。

 その住人は「生きている」という感覚は正しくないのかもしれないが、彼らは彼らとして確かに存在している。


 すぐに決断できない自分を、人は親不孝者だと罵るだろうか。親の仇を取らないのか、と。

 そうしたくないわけではない。他者を害した罰は受けるべきだと思うし、多分、一生許せはしないのだと思う。気持ちは溢れてくる、それでも声が出ない。

 どうあれ、目の前に対峙する相手に「さっさと消えてしまえ」と吐き捨てられるほど、幸の心は強くはなかった。



「……どうしても、すり潰さなきゃ駄目ですか?」

「許してやるのか」

 まさか、と言いたげに氷室が目を瞠る。

 そういうことじゃなくて、と幸は首を横に振った。

「許しても、許さなくても」

 幸の喉が詰まった。

「どっちを選んでもお父さんは治らないんだって。そう思ったら何も言いたくなくて、どうしたいのかも」

 視界がじわりと滲んだ。

 元凶を目の当たりにした所為で、逆に二の足を踏んでいる。知らなければ、その世界を目に映しさえしなければ、迷うことなく頷いただろう。

 勝手な話だ。

 自分の目に見えない世界の話ならばどうなっても良くて、認識できる世界だと目の当たりにするのが怖いなど。だが覚悟しなければならないのだ。そうでなければ父の雄三だけが辛い。


 氷室の手が伸びてきて、幸の髪をゆっくりと梳いた。視界の隅に見える慶次と颯真は、神妙な面持ちで待ってくれている。

 三人は神職の衣をまとっている。

 それは彼らの決意と覚悟の表れに他ならない。

 彼らはそして沢山のことをしてくれた。無駄にしてはいけない。何の為に遠く青森まで足を運んだのか。その意味を考えなければ。

 涙を拭って、幸は顔を上げた。


 だが決心した「お願いします」という言葉は言えなかった。

 息を呑んでしまったから。


 慶次の背中で、黒い猪が膨れ上がっていた。



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