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舌破り  作者: 東 吉乃


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押されて押されて押しくら饅頭

 翌日は梅雨らしく朝から雨がしとしと降っていた。

 勢いはないが、五分も外に居れば濡れ鼠になるだろう。幸はホテルの窓ガラスからデコを剥がして、部屋の中を振り返った。

「慶次さん……は、やっぱりその格好なんですね」

「ん?」

 身支度を整えていた慶次が振り返る。

 戦う神主は今日もその正装であるところの狩衣で、色合いは雨に溶け込みそうな濃紺だ。

 一体何着持っていて、その内何着を持ち歩いているのだろう。衣装持ちとはこのことだ。

「濡れたら勿体ないとか思ってる?」

 なんと、思考を読まれている。

「庶民なもので、はい」

「濡れたくらいじゃどうってことないから大丈夫。さっちゃんもさ、最初は落ち着かないかもしれないけど、ぼちぼち慣れていかないとね」

 たかがこれくらいで驚いてたら、心臓いくつあっても足りないよ、と。慶次は昨日駄目にした狩衣を包む風呂敷を指差して笑う。

 だが幸は笑えない。


 慣れるってなんで、どうして。

 この関係がこれからも続くみたいな、日常茶飯事になるとでも言いたげな、そんなまさか。


 いや、クビにされた場合は別として、一応は氷室相談所を止める予定はない。が、その場合でも付き合いが続くのは相談所長の氷室であって、戦う神主の氷室ではない。たまに手伝うとは聞いているが、たまにしか手伝わない家業をそう頻繁に目にする機会があるとも思えない。

 狼狽えて幸が絶句していると、別方向から追い討ちがかかった。

「でも兄嫁さんって、普通に考えたらこんな感じになるんじゃないですか? 狩衣なんて滅多やたらと触る機会もないのが普通だし、そう考えればしっくりくる反応ですけど」

 狩衣とは正反対、颯真はTシャツとジーンズという至極簡単ないでたちだ。兄たち二人と比べてこのどことなく幼く甘い顔立ちの彼が、その実大変に獰猛な式を使役するというのだから、本当に人は見かけによらない。

 そんな、今この場でどうでもいい情報を反芻するほど、幸の脳内は思考を放棄したがっている。


 今なんて。


 口に出せないのはそうしたが最後、泥沼にはまりそうな気がするからだ。

 しかし黙り込んだ幸を他所に、「そうか?」「そうです」などと兄弟の会話はさくさく進む。幸か不幸か、長兄は一足先に車を取りに行っておりこの場にはいない。

 と、颯真が彼のボストンバッグと慶次のスーツケースを手に取った。

「それじゃ、先に荷物積んでますね。チェックアウトだけお願いします。忘れ物、しないで下さいね」

 まだ和室に散らかったままの慶次の服やら何やらを指差して、颯真が先に部屋を出て行った。清算は先に車を取りに行った氷室が済ませているから、後は颯真の注意通り忘れ物がないように部屋を改めて、鍵をフロントに返せば出発できる。

 はいはい、と軽い返事をしながら慶次が荷物を纏める横で、幸は洗面台から鏡台、窓側のテーブルなど、忘れ物をしそうな場所を見て回った。うっかり洗面台に携帯を置きっぱなしにしていて冷や汗をかいたのは内緒だ。

 額を拭いながら洗面所から出ると、白と紺のドラムバッグを肩にかけた慶次が待っていた。

「さっちゃん、おっけー?」

「あ、はい。大丈夫です」

「よし。んじゃ行こうか」

 言いながら慶次がドアを押さえてお先にどうぞ、とエスコートしてくれる。自分の小さなバッグ一つと部屋の鍵しか持っていないのに申し訳ないが、これはこの人の厚意であることが分かっているので素直に頭を下げる。

 慶次が挟まらないように完全に廊下に出たのを確認してから、幸は歩き出した。

 朝の少し遅い時間のせいかエレベータはすぐに着いた。フロントにいるのもホテルの従業員だけで、にこやかな彼らはすぐに幸に対応してくれた。

 鍵を渡すとフロントの男性は「確認させて頂きます」と言って、部屋番号を呟きつつ背中を向けた。小さな小箱が沢山並んでいて、鍵が置かれているものや紙が刺さっているものなど様々だ。

「清算はお済みですね。ありがとうございました」

 さして時間もかからず、フロントマンはにこやかにお辞儀をしてくれた。

 同じく幸も「ありがとうございました」とお礼を言って、ロビーに向き直った時のことだった。


 鬼気迫る表情をした颯真が、外から駆け込んできた。


*     *     *     *


「慶次兄さん! やばいです!」

 控えめながら颯真が叫んだ。

 幸を待つ間、ロビーのソファに腰かけていた慶次がすわ何事かと立ち上がる。

「どうした!?」

 一方こちらは平常運航の大きな声だ。

 折角颯真が憚って声を押さえたというのに、冷や汗をかきつつ幸が振り返ると、フロントに入っている従業員三名が軒並み目を見開いてびっくりした顔になっている。

 ただでさえ慶次は神主スタイルで大変に目立っている。

 同じくフロントに身体を向けている颯真にもその状況は見て取れたのか、彼は慌てて人差し指を口元に立てた。状況に思い至ったか、やべ、という顔で慶次が肩を竦める。

 こりゃいかん。

 思った瞬間、幸は振り返って叫んでいた。

「あ、ありがとうございました!」

 反射的に、フロントマンたちは一斉に頭を下げた。良く教育されている。ホテルマンの鑑のような人たちだ。もう一度幸が正面玄関に向き直ると、既に颯真が慶次の手を引いてダッシュで出ていくところだった。

 速い。

 さすがだ。

 慌てて幸もその後を追い、少し離れた場所にある駐車場まで全力ダッシュと相成った。十数メートル先で、「さっちゃんナイス!」と親指を立ててくれる慶次がいる。

 我ながら絶妙な連携プレーだったと思いつつ、幸は置いて行かれないよう必死に走った。



 駐車場に着くと、すぐ道路に発進できる位置に車が止まっていた。

 ご丁寧にトランクが開けられ、助手席と後部座席のドアも開けられ、氷室が運転席に収まっている。走りながら、颯真が「後ろに乗ってください!」と指示をくれたので、幸は良く分からないながらも急いで座席に転がり込んだ。

 次いで、颯真が助手席に滑り込む。

 後ろでバン、とトランクの閉まる音がしたとほぼ同時、慶次が幸の隣に身体を押し込んできた。

 開け放たれていた四枚のドアが閉じられたことを確認するや否や、氷室が車を急発進させた。ぐ、と背中がシートに押し付けられる。ち、と舌打ちが聞こえて、「市内だと加速に気を遣うな」などという恐ろしい呟きが聞こえてきた。

 なんでエコカー全盛の時代に、羽がついててかつマニュアルの車なんだろうと疑問には思っていた。氷室は運転が好きなようだから、まあその延長かなとか思っていた。

 でも違った。

 こういう事態を予測してのスポーツカー選定だったなんて、誰が想像できるというのか。

「手伝って下さい、慶次兄さん!」

 後ろを振り返りもせず、颯真の鋭い声が飛ぶ。

「んん!? ……おお、こりゃ確かにまずいな!」

「だからさっきからそう言ってるじゃないですか!」

 ばん!

 颯真が助手席の窓に両手を叩きつけて、斜め後ろを見遣る。

「幸、歯を食いしばれ! 舌噛むぞ!」

「えええ!?」

 それどんなカーチェイス!

 氷室の怒号という珍しさも吹っ飛び、慌てて幸はシートベルトを確認する。その瞬間、赤になりかけていた交差点にほぼ減速無しで氷室は突っ込んだ。

 悲鳴のようなタイヤの音が響く。明らかに車の尻が横滑りしている。このまま行ったら確実にコースアウトだが、悲鳴を上げる前に氷室の手が動いた。

 曲がる方向と反対方向にハンドルを切る。カウンターを当てる、というやつだ。ついでにシフトチェンジ。エンジンが唸って、横滑りが止まった。というか、車線に対して斜めの状態で僅か進んで、次に車体が持ち直しながらぐんと加速した。駐車場から出た時の比ではないGがかかる。

 走り屋も真っ青だ。

 むしろ昔は走り屋だったんじゃないのか。

 くだらないことを考えていたら、幸は頭を窓ガラスに強打した。目から火花が出た。

 隣にいる慶次はシートベルトをする以前の問題で、身体ごと後ろに向き直っている。そんなにガン見したらさぞ後続車が恥ずかしいだろうと思ったが、ほぼ赤信号を突っ切ってきたので、その心配は杞憂に終わった。

「っしゃ、一匹仕留めた!」

 神主、ガッツポーズ。

 しかしそれも束の間、

「慶次兄さん、横!」

「ん、おお!?」

 がん!

 慶次側のドアが何者かに叩かれ、同時に慶次の身体が一瞬揺れた。

「痛ってえなこの野郎!」

 神主、左手を振りかぶる。

 ごん!

 借り物の車に、それは見事な左ストレートが決まった。修理代金の請求が心配なレベルで。

「おとといきやがれ! おい颯真、そっちは!」

「あと五匹、いえ、三匹に減りました!」

「一号だけで始末つけろ、こっちに二号と三号寄越せ!」

「ちょっ、人遣い荒すぎますよ!」

「四の五の言うな!!」

 運良く前後に車がいない状況で、兄弟の怒号を消さんばかりにエンジンが唸りを上げる。


 ここ一般道なんですけど!


 叫びたいが鬼気迫る三兄弟はそれどころではない。後続の何かをぶっちぎるのに本気な長兄、すごい気迫で次から次へと指示を出す次兄、色々と抗議を上げつつも必至に応戦する末の弟。

 どう考えても宜しくない相手に猛追されている。

「兄貴! どっか人のいない場所で止めてくれ!」

 鋭く叫んだかと思った次の瞬間、

「くらえ!」

 鮮やかな右ストレートが神速で繰り出された。借り物の車に。

 ごいん!

 窓が一瞬、たわんだ気がした。

「よぉし、あと四匹!」

 野太い宣言と同時、車は土煙を上げながら、砂利を敷かれた広い空地にケツを振りながら滑り込んだ。

 完全に静止する前に、さっさと慶次が飛び出していく。車から数メートル離れたかと思うと、そこで石を拾う。どうするのだろうと訝る前に、メジャーリーグの投手よろしくそれをとある方向に連続で投げつけた。

 一つ、二つ、三つ、四つ。

 少し間が開いて、五つ。

 しばらく石を投げた方向を見つめてから、納得したように慶次が踵を返して車に戻ってきた。颯真が窓を開ける。上から覗き込む形で、慶次が深いため息を吐いた。

「いやあ……焦ったな……」

「それはこっちの台詞ですよ……よくこんなの、一人で相手しようと思いましたね……」

 げんなりした顔で颯真が言う。

「一人ったってお前、まさかこんなんだとは思わなかったんだっつーの」

 いくら俺でも分かってたらもうちょっと考えたわ。憮然とした表情で慶次が返すと、颯真も疲れ切ったようなため息を吐いた。兄弟なせいか、仕草が似ている。

 二人の様子に当面の危機は去ったと判断したか、氷室がエンジンをかけたままながらも、シートベルトを外して車から降りた。

「親玉か?」

 幸と同じく見えない目を持つ氷室が尋ねる。何を相手に戦っていたのか説明を求めているのだ。幸としても非常に気になるところで、思わず窓を開けた。

 慶次がゆるゆると首を横に振る。

「そっちはもうちょっとしたら到着する。今までのは偵察部隊みたいなもん」

 まさかあちらさんから来てくれるなんてねえ、予想外だったわあ、と遠い目で慶次が言う。

「颯真がいなかったら危なかったわ。一号二号三号が大暴れで助かった」

 聞くと、最初は大小合わせて三十匹ほどの大軍が押し寄せてきていたらしい。外に出ていた颯真が先に気付き、その時点で五匹ほどは片付けたが多勢に無勢、慌てて慶次を呼びに来たという寸法だ。

 シロとキンは強いが、積極的攻勢には打って出られない。己の守り人を意のままに動かす、氷室にはそういう力が無いからだ。

 二匹は氷室本人に危害が加えられそうになればそれを排除する。

 しかしあくまでも排除するだけ、深追いはしない。

 そして敵もさるもの、不用意に飛び込んでいった二匹ほどがあっという間に蹴散らされたのを見て、氷室には手出しをしなくなった。慶次に余裕があれば二匹の力を借りることもできるが、今回はそんな余裕はなかったらしい。


 結果として何が起こるかというと、本来の標的である幸に攻撃が集中するのである。


 そりゃそうだ。

 極悪な用心棒が控えている氷室に手出しするより、殴る気満々の慶次や颯真を相手にするより、何の力も持たない幸を狙った方が手っ取り早い。

 結局、前後左右上下から寄って集って幸を引っ張ろうとする二十匹あまりを、慶次と颯真で千切っては投げ千切っては投げ今に至るのだという。

「まあね、あっちに行く手間が省けて良かったってとこかな」

「まさかここでやるつもりですか、慶次兄さん」

 ぎょっとしたように颯真が言う。

 言われた慶次は片目を瞑ってみせた。しかしラグビー選手に匹敵する体格故、チャーミングとは言い難い。

「空港にも近いし、物陰はあるし、丁度いいだろ」

 慶次が指差す先には、古く錆びた昔ながらの鉄工所があった。

 空き地だとばかり思っていたが、どうやら砂利を敷かれている範囲はその鉄工所の敷地内らしい。古い倉庫が幾つか並んでいるので、車をその陰にさえ入れてしまえば、道を通る車に見咎められる心配はない。

 鉄工所は随分前に畳まれたようで、がらんとしている。

 ほぼ廃屋とはいっても明らかに不法侵入だが、ここは緊急避難ということでこっそり幸たちは車を見えない場所に移動させた。土地の所有者が現れた場合は、ひたすら土下座するしかない。そんな残念な事態にならないよう祈るのみだ。

 そうこうする内に、慶次と颯真が同時にとある一点に視線を投げた。

「ほら、真打ちご登場だ」

 真面目な顔で慶次が隣にある本物の空き地を見遣る。


 ざあ。


 背丈ほども伸びた草薮が、風もないのに大きく揺れた。

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