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舌破り  作者: 東 吉乃


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前夜祭


 空港での一幕は、結局のところ挨拶もそこそこに引き上げて終わりとなった。理由は至極単純だ。

 周囲の注目を集めすぎた。

 平均的な日本人なら分かることだが、近場に頭一つ二つ飛び抜けて背の高い人間がいると、自然とそちらに目が向くあの習性。氷室と慶次の背が高いのでまず初手から通行人が注意を寄越してくる。そして通り過ぎようとする彼らは十中八九、驚いた顔でこちらを二度見してくる。そこに揃っている兄弟の顔がバラエティに富みつつ整っているからだ。猛者に至っては立ち止まって凝視してきたり、通り過ぎてからも何度も振り返ってくる。

 氷室本人はあまり気にしない、というか全ての耳目を華麗にスルーしていた。が、颯真が居心地悪そうにしていたのを慶次が気付き、「さっさと行こうぜ」の一言で四人は車に戻った。



 そして、時間も時間だったのでホテルには戻らず、そのまま夕食を摂ることになった。

 やはり氷室の運転で市内へ戻る間、慶次が慣れた口調でどこぞに電話をかけ、「予約完了」とOKサインをしてみせる。そうして四人揃って辿り着いたのは綺麗な和食処だった。

 地元の海産物と農産物をふんだんに使った懐石仕立てが評判だそうで、慶次の伝手だ。

 門構えの暖簾をくぐると、飛び石の小道が奥にしっとりと伸びている。足元には適度な間隔で小さな燈籠が置かれ、闇の只中にあっても危なげなく歩くことができた。

 小道の両脇には整然と刈り込まれた植木が並ぶ。

 涼月や氷室の実家ほど大きくはないが、それでも漂う風情は本物だ。ただ、雪深いこの北国に於いては冬囲いが大変そうでもある。きっと、丁寧に面倒を見る庭師か誰かがいるに違いない。

 こんなところを知っているなんて、どんな上流階級の知り合いなのだろう。

 景色に見惚れながら歩いているとすぐに本玄関に着き、そこにはうぐいす色の美しい着物の女将が立っていた。口元の薄紅色、上品な化粧がその着物に良く映える。年の頃は還暦を越えたあたりか。

「いらっしゃいませ、お待ちしておりました」

 第一声もしっとりと落ち着いている。

 最年長の氷室が「お世話になります」と頭を下げた。

「急なお願いで申し訳ありません。それも我儘ばかりで」

「いいえ。丁度どなたもいらっしゃらない日でしたから、なんとなく、そんな気がしていましたわ」

 朗らかに笑って、女将は「こちらへどうぞ」と歩き出す。

 さほど歩かず通されたのは、十畳ほどもある個室だった。

 床の間に立派な生け花が飾られており、奥の壁には書の掛け軸がかかっている。部屋の真ん中にある塗りの座卓は顔が映るほど磨かれていて、指紋一つ付いていない。その上に、四人分の卓が既に準備されていた。

 一度女将が下がり、料理を待つ間、幸は窓から望める庭を楽しんだ。



 その違いに幸が気付いたのは、所謂焼き物が運ばれてきた時だった。

「慶次さんって、魚苦手でしたっけ?」

 疑問を口にしてから違和感を覚える。

 そんな筈はない。

 氷室の実家にお邪魔した時、彼自身が釣った鯵を食べていた。翌日も自家製干物に変身した鯵が朝食に出てそれもまた美味しそうに頬張っていた。

 今、卓に供されたのは鮎の塩焼きだ。

 しかし慶次の前にだけ、違う皿が置かれている。察するに野菜の天ぷらのように見えるのだが、果たして。

「大好きなんだけどね。明日に備えて気合入れなきゃいかんからさ」

「あ……ええと、斎食、ですか?」

「そうそう。良く覚えてたね」

 祭祀の時は精進潔斎をするのが彼ら神職の仕事でもあると習ったのはつい昨日のことで、記憶に新しい。

 言われて思い起こせば、確かに慶次はこちらに来てからというもの、肉や魚といった類を口にしてはいなかった。これが焼肉屋などであれば不自然さにもっと早く注目できていただろうが、食事場所を選んでいたのが氷室だったこともあり、スマートすぎてまったく気付いていなかった。

 それと同時、幸の目線は他の兄弟に向く。

 どちらも幸と同じ鮎が並んでいて、幸は混乱した。

「どうして稜さんと颯真さんはいいんですか?」

 そういう力、使うんですよね、と。

 本来確認するまでもない質問だ。そうでなければわざわざ颯真を本州最北端まで呼び出したりしない。

「よっぽど極悪な鬼神みたいなのを相手にするなら全員やるけどね。今回は司令塔の俺だけで充分なの」

 司令塔こと慶次がにこりと笑う。

「そもそも本業は俺だけだしね」

「あ、そっか。稜さんはそういえば兼業か」

「そうそう。しかも兄貴は守る専任だから、やることはいつもとほぼ変わんないワケ」

 確かに氷室が「緑の手」を使うにあたって、精進潔斎をやっているところは見たことがない。相談所の平常運航時も、昼ご飯のメインは大抵魚だ。

「……すごいですね。兄さんたちに違和感なく完全に馴染んでますね」

 颯真が丁寧に驚きを見せた。幸にしてみればただの雑談のつもりだったので、その驚きがどこから来たのか分かりかねる。

 拾ったのは慶次だった。

「だろ? アオがじゃれついたのも納得の自然体」

「そうですね。最初は何事かと思いましたよ」

 へー、ほー、と下の二人はふむふむ頷き合う。一方で長兄は聞いてるのか聞いてないのか会話は任せっぱなしで、相変わらず綺麗な箸捌きで鮎をほぐしている。

 じゃれつかれた件については、実は既に説明を受けていた。

 空港で、幸がいきなり後ろに向かって倒れこんだ時のことだ。どうやらアオと呼ばれるあちらの世界の某が勢いよくじゃれついた結果、幸が素っ頓狂な悲鳴を上げる羽目になったらしい。無論そのテが見えない幸は、ただ風に煽られたような感覚でしかなかったのだが。

「よっぽど気に入ったんでしょうね。抱き付いて……というか、とぐろ巻いちゃってますし」

 ちょっと待って。

 丁寧な言葉遣いの中に、間違い探しがあった。とぐろって何さ、と幸の頬が引きつる。

 とぐろの何たるかは知っている。長い生き物、特に蛇などがその身体をくるくると巻いて収まっている様子を指す。

 幸の聞き間違いでなければ、アオと呼ばれる正体不明の何かが巻くとぐろの中心に、自分が据えられているような気がする。気のせいかとして流すほど、読解力がないわけではない。

 駄目だ。

 気になりすぎて幸の箸が止まる。スルー検定一級への道は果てしなく遠い。

「質問です。ミドリとかアオとか呼ばれている皆さんは、シロさんやキンさんのお仲間なのでしょうか」

「さん付けとはこれまた斬新ですね」

 先ほどと同じように、颯真が目を丸くした。

 そして、

「見えてないのですよね?」

 小首を傾げて問うてくる。この弟御は氷室家最年少とはいえ幸より三つ年上なのだが、こうやって丁寧な姿勢を崩さない。お手本にしたいくらいの穏やかさは、兄姉とは一線を画している。

 自然、背筋が伸びつつ幸の眉は八の字を描く。

「残念ながら凡人なので、見えませんし聞こえませんし感じません」

「ですよねえ」

 自分で確かめたことながら、最初から答えは分かっていた風で颯真が頷く。

「見えていないのにさん付けできるということは、姿形に惑わされない人なんですね。んー、だからその範疇に稜兄さんも入ったのか。なるほど、面白いですね」

 何故か勝手に話が進んでいく。

 姿形に惑わされないかどうかと氷室との関係性は微妙だ。わざわざ弁明するものでもないが、とりあえずその端正な顔立ちに何も思わないかと言えばそんなことはないのである。

 皆がいればそうでもないが、二人っきりになると未だに恥ずかしくて顔を直視できない。

 これを口にすること自体が罰ゲーム並に恥ずかしいので言えた試しはないが、言ったら氷室はどんな顔をするだろうか。見慣れたあの調子で呆れるだろうか。

 つらつら考えていると、颯真が一度箸を置いた。

「そうですね、ミドリもアオもおっしゃる通り、背中の守り人です。まあ姿は人外ですけど」

 解説員その二の颯真の説明に、幸の内心は二つの言葉で満たされた。

 すなわち、「やっぱり」そして「次から次へと」。

 微妙な心境をどう表現したものか途方に暮れ、結果「そんな気がしてました」と毒にも薬にもならない絶妙にどうでもいい返しが口から出ていた。

「稜さんにシロさんキンさんがついてるなら、慶次さんや颯真さんにいてもそりゃおかしくはないですよね、ええそうだと思ってましたはい」

「さっちゃん順応の仕方がやけくそだなー」

 からからと慶次が笑う。

「だって私にはどう頑張っても見えないんだから、そんなもんなんだって信じるしかないじゃないですか」

「そこで迷いなく信じる側になってくれるあたり、ちょっと心配になるくらい素直だわ。詐欺師にとっちゃ鴨がネギ背負って歩いてるようなもんだぜ。よーく注意して歩いてね、頼むよほんと」

 でも、ありがとう。

 ぽつりと慶次が言った。

 成人式も終わった人間を掴まえてそんな、小学生に言い聞かせるみたいな。本当はそうやって軽く抗議をしようとしたが、幸はそれを飲みこんだ。

 場が少しだけしんみりとなる。

 空気を変える為、幸は少しだけいつもより明るい声を出した。

「それで、結局ミドリとアオってどんな感じなんですか?」

「俺のミドリは綺麗よー」

 自慢げに胸を張った慶次からは、先ほどの僅かに寂しそうな表情は消えていた。

「イメージ画像は孔雀が一番分かり易いかな。大きさとか色とか」

「孔雀でミドリ……ってことは、あれ。もしかして守り人の名前って見た目の色にちなんでつけられてたり?」

「ぴんぽーん」

 シロは白い狼。キンは金色の狐。ミドリは孔雀の深翠色がその名の由来であると慶次が言った。なるほど、分かり易くて非常に好感が持てるというか、覚えやすくて結構なことだ。

 その法則から導き出すと、アオはその色から想像するに水に関係する生き物に近いのだろうか。

「じゃあアオさんは、イルカとかそういう感じ? いやでもイルカってとぐろ巻けるほど長くないような……」

 青くて長い生き物に心当たりがなく、幸は首を捻った。

 後を引き受けたのは颯真だった。

「白蛇ですよ。ただ普通の蛇より色々と……まあ、バージョンアップしているので、たてがみとか角とか生えています。ついでに手足も」

 バージョンアップまではまだ許せる。

 でも流石に手足はついでで生えていい代物じゃないと思うのだがどうだろう。

「見た目に関して言えば蛇というより、そうですね。架空の動物ですけど、東洋の龍みたいなものと想像して頂ければ分かり易いと思います」

「それは確かに納得の長さなんですけど、でもどうしてアオなんですか?」

 白いと言っているのにこれいかに。しかし謎はすぐに解けた。

「古い読みですが、白はあお、とも読むんです。稜兄さんにシロがいたから、被らないように」

「大変勉強になります……」

 相変わらずこう、己の無知が非常に自然な流れで白日の下に晒されるのが情けない。

 氷室一族は一族揃って博識らしい。冷静に考えれば、兄弟揃って賢そうな顔をしている。そしてこれはこれで今更な感想だ。

「そのアオさんがものすごく強いんですか? シロさんキンさんより?」

「あー、その言い方はちょっと語弊があるかなー」

 氷室家解説員その一、慶次が天ぷらを頬張りながら解説に入る。さくさく。衣の軽い音が食欲をそそる。

 解説員は語る。

 総合的に見れば、やはりシロとキンが今の氷室一族が持つ守り人の中で頭一つ抜けた実力を誇る。理由は単純で、偏に他と比べて年季が段違いなのだ。ミドリもその二匹と合わせて「ケダモノ三匹衆」と纏められる程度の強さは持っていて、三番手と呼んで差し支えないのだが、いかんせんまだ若い。そしてアオはそれ以上に若く、まだ神格級にも届かない。

 しかし、これはあくまで総合的に見た比較なのである。

 とある能力に絞るとこの序列が覆る部分も当然に出てくる。それが今回の颯真、引いてはアオが呼ばれた直接の理由でもある。

 あちらの世界の彼らにも得手不得手があり、相性が悪いと余程力の差がない限り事は上手く運ばない。ミドリがまさにこの法則に当てはまってしまい、力の差はそこまで開いていないものの相手の猪が苦手なタイプだったが為に、結果として慶次を守り切れなかった。

 ここまでを一息に説明して、慶次は休憩のようにサツマイモの天ぷらを頬張った。

「相性……やっぱり属性みたいなものがあるんですか。ゲームとかでも水とか火とかありますよね。なんかすごい、かっこいい」

「いや、単純に軽量級と重量級じゃまともな勝負にならんってだけ」

 一瞬盛り上がりかけた幸の気持ちは、気持ち良いほどばっさり切って捨てられた。

「……えー?」

「そういう力を持つのがいないわけじゃないけど、そうなればそれはもう本物の神様だよ」

「でも神格級だって」

「級って部分がミソ。単純な力だけを見れば引けを取らなくても、神様になるには色々あんのよ」

 責任感、面倒見の良さ、喧嘩の仲裁ができる力。求められるものは枚挙に暇がないらしく、神様にはやはりそう簡単にはなれないものらしい。

 難しすぎて、幸には想像も及ばない。

 試験とかがあるわけでもないのだろうが、と考えて、いやまさかの点数制昇格もあり得ない話じゃない、などと頭の中が騒がしくなる。あちらの世界の話はいつも予想の斜め上を行っている。

「まあそのあたりはともかくとして、あの大物をふんじばって白金山に連行するには、体格的にアオが最適なわけ」

 その長躯でぐるっぐるの簀巻きにするらしい。

 一方ミドリはその手の類の中でも小さいらしく、当たり負けしてしまったのだとか。大型トラックと軽自動車程度に両者は違うらしい。

「でもアオよりミドリの方が本当は強いんですよね? そんな簡単にできる、っていうか、ただの体格差が単純な力の差を覆せるってのが不思議なんですけど」

「いや、流石にそれは無理。アオだけだと荷が重いよ、やっぱり」

「えっ」

「でも大丈夫。そこは颯真の力でカバーできるから」

 言ったでしょ、と。

 相手に影響を与える力を攻守で考える時、颯真もまた前者に分類されるのだ。やり方は各種あるが、自らの肉体を武器にする真や慶次の「白い手」とは違い、颯真は他者の力を使役するのだという。

「どういう意味ですか?」

「平たく言うと、子分が代わりに戦うの」

「へ、へえ?」

 新しい概念に、幸は目を白黒させるばかりだ。その様子を見て取ったか、颯真が話を引き取った。

「慶次兄さん、それじゃまったく説明になってませんよ」

 それまで鮎に目線を下げていた颯真が、白く美しい身を箸で口に運ぶ。

 もぐもぐと咀嚼してから、末弟は小首を傾げた。

「背中の守り人とは別で、三匹……三頭と言った方が良いかな。条件次第で言う事をきいてもらえるんです。業務委託契約とでも理解してもらえれば」

 あやふやな世界の話であるのに、例えは妙に分かり易い。

 条件が折り合ったあちらの世界の御仁がつまり、颯真の戦う力そのものになるということらしい。傭兵とかそういうイメージだ。

「慶次兄さんみたいに修行して歩けば、もう少し契約頭数も増やせるんでしょうけどね。逆に家業を継がないのに用心棒ばかり増やしてもしょうがないので、まあ妥当ですよ」

「継がなくてもいいからもう少し増やしてくれ。俺が楽だから」

「あんまり当てにされても困りますよ、いつも言っているじゃありませんか。一級線が都合よく揃う方が稀なんですから」

「でも今回は急ごしらえの割に、随分面構えが良いのばかり揃ってるじゃないか」

「それは稜兄さんが『できるだけ獰猛なのが欲しい』って言ったからです」

 兄弟の会話は淀みなく流れていく。

 獰猛の意味を確認するのに気が引けたので、かろうじてそこはスルーと相成った。



 そのまま慶次と颯真がぶつぶつ言い合っているので、幸は隣の氷室に視線を投げた。冷酒が注がれた切子硝子に口を付けながら、氷室が目線で「どうした?」と問うてくる。

 下の二人の会話を邪魔しない音量で、幸は尋ねた。

「颯真さんの業務委託契約って、相手は決まってないんですか?」

 切子硝子に口を付けたまま、氷室がこくりと頷く。

 この飲酒、ホテルへの帰りは颯真が運転するからと申し出ていたお陰で解禁となったものだ。コーヒーは飲めないが、酒は何でもござれらしい。何度かお替わりを注がれているが、氷室の顔色は素面とまったく変わらない。強いのだそうだ。

 空けた杯を氷室が座卓に戻す。

「そうであるからこそ、実家を継ぐのは慶次なんだ」

「でも相手次第で颯真さんの力ってものすごく強くなるんじゃ」

「裏を返せば、出力が安定しないということだ」

「……あ」

「まあやってやれないことはないだろうがな」

 それでも時と場合によっては危険を伴う家業であるから、条件に左右されない力の方が望ましい。そう氷室は言った。



 継ぎたいですか、とは訊けなかった。

 多分氷室家を継ぐに当たって求められている力は、氷室の持つそれではないということくらい、これまでの話から幸も理解できている。

 本当のところどう思っているのかも、とうとう訊けなかった。


*     *     *     *


 食事の終盤に、氷室の携帯が着信を告げた。画面に一度目を落とし、氷室が退席する。音が鳴った時、弟二人は一瞬意識をこちらに向けたが、すぐに彼らは楽しげに話の続きを始めた。

 妙な沈黙にならなくて良かった、と幸は胸を撫で下ろす。

 実は、氷室の携帯が鳴ると幸の鼓動が早くなる。一瞬、良くない連絡かと身構えてしまうのだ。幸が気にする義理ではないのだが、できれば氷室が振り回されないでほしいとささやかながら想っている。

 と、一旦は閉められた襖が再び開いた。

「幸、ちょっといいか」

 襖の向こうから氷室が手招きをする。幸が廊下に出ると、氷室が携帯を渡してきた。

「檀だ」

「え?」

 手元の画面を見ると、確かに表示が「氷室 檀」となっている。すわ何事か、慌てて幸は携帯を耳に当てた。

「か、代わりました幸です」

『さっちゃん?』

「はいそうです、ご無沙汰してます! あの、……?」

 何の用件か見当がつかずに窺うと、檀が電話口で笑った。

『そんなに慌てないで。ごめんね、急に代われなんてびっくりさせたわよね』

「いえあの、落ち着きなくてすみません」

『気にしないで。電話したのはね、さっちゃんのご両親のお見舞いに行ったからなの。二人とも眠ってらっしゃるけど、穏やかだったから心配しないで』

「檀さんがわざわざ行ってくれたんですか? お仕事あって忙しいのに、すみません」

『いいのよ。届け物もあったから』

「届け物?」

『兄貴の言伝でね』

 それは多分、今朝方の電話で氷室が「今日中に」と頼んでいた件だろう。考えるほどに彼らの厚意が申し訳なくなるが、ありがたく頂戴するのが幸に期待される唯一の反応だろうと思う。

 彼らは誰も見返りを求めてはこない。

 ただ、差し伸べることのできる手を持っているからそうするだけ、気負いも何も見受けられない。

「……ありがとうございます」

『慶次と颯真は存分にこき使ってやって頂戴。気を付けて帰って来てね、ご両親と待ってるわ』

 それじゃ、と短い挨拶で通話は終わった。


 檀が傍にいてくれるのならそれは心強い。

 彼女にはきっと慶次や颯真のような力は備わっていないのだろうが、その優しさ、濃やかさに「きっと大丈夫」と信頼を寄せられる。

 どれほど良縁に恵まれたのだろう。仮初めであったとしても尚、感謝の気持ちが溢れ出る。




 これで全ての役者が揃った。

 あとは、諸悪の根源を叩くだけである。


 夜は静かに更けていった。


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