氷室の夜リターンズ
羽田からの最終便を使い、青森空港に到着したのは夜の九時になろうかという頃合いだった。
慶次が預けた荷物をターンテーブルで待つ間、先にレンタカーの手続きをしてくると言って、氷室が外に出ていった。どちらについて行けば良いのか幸は一瞬迷ったが、氷室からの「手伝ってやってくれ」の一言で幸は空港内に留まることになった。
地方線の、それも最終便だからだろうか。他に荷物を待つ乗客は数えるほどしかいない。
その所為かさして待たずにターンテーブルは動き始めた。
「あれですよね?」
最初に大きなドラムバッグが出てきた。羽田で預ける時に見ていたので、白と紺のツートンカラーに覚えがある。
その後ろに深緑色の布地でできたスーツケースが続く。あれも慶次の荷物で間違いないはずだ。
「そうだけど、俺一人で持てるから大丈夫」
言うが早いか、慶次はひょいひょいと二つを同時に持ち上げる。そのまま流れるようにドラムバッグは逞しい肩に掛けられ、スーツケースは大きな手に引かれてしまった。
これでは全く手伝いになっていない。
幸自身は自分の着替えが入った少し大きめのトートバッグを持っているだけで、それも全然重くない。片や慶次のドラムバッグはそれなりの質感で肩に食い込んでいるし、スーツケースも重たそうな音で転がっている。
「あの、スーツケースを引くくらい多分できます!」
「ん?」
「お手伝いを!」
「ああ、兄貴の言ったこと真に受けなくていいよ」
「でも」
幸には食い下がるに食い下がれない理由があるのだ。
免許を取っていない故、どこに移動するにも車の運転は任せっぱなし。結婚準備に至る数々は言わずもがな、更に加えて今回の青森行き関連費用は全て氷室が持ってくれている。それこそ航空券からホテルから食事代に至る、何から何まで。
かたじけないどころの騒ぎではない。
だからこそせめて、言われたことくらい全力で頑張りたい所存なのである。だが慶次は取り合ってくれなかった。
「どうせさっちゃんを夜に出歩かせたくないっていう本音を素直に言えなかっただけだから」
がらがらと重そうな音を響かせつつ、足取りは軽いまま慶次が笑う。
幸としては笑えない。出発前にも「さっちゃん争奪レース」などというどこまで本気なのか分からない物言いをした人だ。
「ほら、座って待っとこう。少ししたら来るだろうし」
到着ロビーに出て、慶次は置かれている待合の椅子を指さした。羽田に比べると非常にアットホームな大きさである。汗が出るような距離でもなく、結局幸は何一つ手伝うことができなかった。
僅かに残っていた他の荷物待ちをしていた乗客も、次々と到着ロビーに出てくる。
波と言えるほどではない人数を見送ってしまうと、途端に静けさが際立った。
「慶次さん」
「ん?」
「その荷物って、全部着替えなんですか?」
人気のないそれも夜の静けさに飲み込まれないよう、幸は声を出した。
元より気にはなっていたことだ。慶次は両方の荷物を、あの大きな4WDから降ろしてきた。氷室と幸は当座の着替えを空港にあった衣料品店で調達したが、慶次は「あるからいい」と言って特に何も買わなかった。
修行中の身だと言っていたから、数日であればどこにでも行けるよう準備しているのだろうか。
ただそれにしても、着替えだけが入っているにしては妙に大きいというか嵩張っているような気がして、不思議なのだ。
「着替え以外にも色々入ってるよ。主に仕事道具ね」
「仕事ってことは、神主さんの衣装とかそういうのですか?」
「そうそう。出歩いてると斎戒なんて早々できないし、潔斎も中々ね。だから氷室の家では斎衣を重要視してるんだよ」
「ええっと、すいません……途中が、全然、分かりませんでした」
強いて挙げるとすれば、「潔斎」くらいは聞いたことがある程度か。それも聞いたことがある程度であって、具体的に何をどうするのかと訊かれると答えに窮する。清めたりすること、と小学生でも言えそうな内容しか思い浮かばないのが実情だ。
尚、残る二つ、斎戒と斎衣についてはまったく理解が追いつかない。というか、想像が及ばない。
改めて自分の語彙力の無さに幸が凹んでいると、慶次が頭を掻いた。
「ごめんごめん、専門用語過ぎた」
「いえ、語彙力なくてすいません……」
「あーいや、普通の人は知らないのが当たり前だから気にしないで。えーとね、」
つまり神職というものは「心身を清める」ことが仕事の一つであるのだ、と慶次が言った。
仕事の一つとは言っても心身を清めることそれ自体が目的ではなく、あくまでも祭事、神事に際して生活に関する様々を慎み清める必要がある故、仕事の範疇に入るという認識らしい。
生活に関する様々というのは、基本的に衣食住全てに該当するのだという。
それは食事を節制することであったり、身に付けるものを改めたり、他の人間と寝る場所を分けたりと多岐に渡る。そしてその期間は祭祀の大きさによって分かれるものであって、長ければ一ヶ月、短くて一日や祭祀の当日などもあるそうだ。
「そういう『慎み清める』ことそのものを総じて斎戒って呼ぶんだよ」
「へえ……」
「斎戒の中でも潔斎っていうのが所謂沐浴を指してて、禊とか聞いたことあるでしょ? それのことね。斎戒の最も大事な部分でもある。で、斎衣は衣服を改めること。そういう意味で他にも斎の付く言葉は色々あって、斎食とか斎宿とか、字面の通りを慎むわけ」
「はーなるほど。勉強になります」
「本当は斎戒そのものは決められた場所っていうか、実家の神社でやるのが正式なんだけどね。出先だとそれができないから、どうしても簡略化せざるを得なくて、結果この大荷物なの」
食事一つを節制するにもルールがあるらしく、特定の食材を避けるばかりか、神社の水で煮炊きしたものを口に入れるのが基本だと言う。まして潔斎は風呂場であれば良いわけではなく、潔斎用の湯殿――潔斎場でやるのが正しいし、衣服も白一色、洗濯などは平服と分けるなど、細かく言えばきりがない、と慶次は苦笑した。
聞くだに縛りが多く、確かに出先でどうこうするのも難しいだろう、と幸は感嘆した。
「行った先の山に滝とかがあればそこで潔斎できるから、その時用に白衣やら白足袋やら入ってるし、本番用に大樹の君に清められた狩衣とか袴とかね。後は御神酒だのなんだのが入ってるかな」
説明を幸なりに咀嚼すると、祭祀――氷室家で言えば、常ならざるものが引き起こす問題を解決するに当たって心身を慎み清める必要があるが、出先に向かう性格上、正式な作法に則った斎戒は難しい現実であるが故、可能な部分をこの大荷物に詰めたということなのだろう。
また一つ賢くなれた気がする。
少しの昂揚感に胸を弾ませていると、慶次の携帯が震えた。それは氷室がレンタカーを無事に借りて、外のターミナルに到着したという連絡だった。
空港から目的地へのおよそ一時間、運転は慶次ではなく氷室だった。最初、慶次は自分が運転すると申し出たのだが、それを「明日、身体で払ってもらう」という物騒な一言で兄が却下した格好だ。
今日は雄三の実家である本家には行かず、市内のビジネスホテルに泊まることになっている。
そこに辿り着けば、とりあえず今日はお疲れ様だ。
夜道を走る間、運転席の氷室は相変わらず言葉少なだった。しかし慶次があれこれと話題を振ってくれて、幸は眠くもならずしっかりと意識を保ったままホテルに到着することができたのだった。
尚、チェックインを済ませて幸の目は更に冴えることとなった。
部屋が和洋室で、三人一緒だったのだ。ベッドがダブルではなくてツインなのがまだ救いか。しかしそれにしても、婚約者とその弟と自分で、一体誰がどこに寝るのが正解なのだろう。
自分ここに寝ますと宣言した方が良いのか、それとも指示を待っていた方が良いのか。
氷室と同じ部屋で寝るのは初めてではないので今更騒ぎ立てるつもりは毛頭ないが、お作法が今一不安になる。そんな幸の微妙な不安を察したか、氷室が部屋に入るなり言った。
「窓側は俺が使う。幸は和室側のベッドを使え」
「え、慶次さんは?」
「慶次は和室で布団だ」
弟本人に意思確認する間もなく、兄が決定を下した。まさに問答無用。
「慶次さん、ベッドじゃなくて大丈夫ですか?」
「俺? 俺は屋根があればどこでも平気」
むしろ屋根が無くてもいける、などという生命力の大変旺盛な返事がきたから返答に困る。
いいのかそれで。
禿げ上がるほど激しく突っ込みたくなった幸だが、慶次本人が構わないと言っているのだ。それをどうこうする術はない。
「ごめんね、さっちゃんは布団が良かったかもしれないけど」
「あ、いえ。そういうわけでは」
「この配置が一番守りやすいから、今晩だけ我慢してね」
さっさと押し入れから自分の布団を引っ張り出しつつ、慶次が眉を下げた。
言われて考えると、氷室、幸、慶次の順でちょっと大き目の川の字になる位置取りだ。氷室が窓側、慶次が入口側である。
最近、気付いたことがある。会話の流れは普通に見えて、実際のところ理解ができないのは高確率でそれ絡みの話題だ。今だってそうで、ただ寝るだけならば「守る」もへったくれもない。
ただそれ絡みと分かったところで、ではどういう内容かというのは分からない。それはまた別の問題なのである。
微妙な顔をしている幸に気付いたのか、布団を畳の上に敷きながら慶次が解説してくれた。
「本拠地に来たようなもんだからね。隙あらばちょっかい出そうって魂胆が見え見えなの」
「それはその、退治しようとしてる何かが、ですか?」
「そうそう」
さっちゃんも飲み込み早くなってきたねー、などと弟御は呑気に言う。
「押し入り強盗されない為にも、出入り口には強い門番を置いとくべし、なんてね」
軽く言うが物騒な話だ。
幸が引きつったのが分かったのか、慶次は「心配ない大丈夫」とこれまた軽く続けてくれた。
「本拠地とはいえ絶対に手出しはできないから大丈夫、心配しないで」
「ほ、本当ですか?」
「うん。下手な結界よりよっぽど強力。むしろ極悪? 俺でさえちょっと喧嘩は売りたくない感じになってるから」
本人が遠慮したいって、どんな感じだ。
「この狭い部屋に神格級が三匹と、それ以上のが三人。しかも三匹の方はここに来るまでにちょこちょこ絡まれたお陰で、機嫌が悪いを通り越して殺気立っちゃってまあ。やっぱり神格級でも獣の方が好戦的っていうか、気が短いよね。何の関係もない通りすがりが軒並みびびって、とりあえずこのホテル周辺からみーんな逃げちゃった。まさに蜘蛛の子を散らすように、って感じ? これじゃ俺達、地上げ屋か何かと勘違いされてもしょうがないねえ」
凄い話を聞いた。
触らぬ神に祟りなし、というやつだろうか。その辺を歩いて(彷徨って?)いらっしゃる本来無関係であるあちらの世界の方々には、大層ご迷惑をおかけして大変申し訳ない状態になっているようだ。
そんな風に説明されても幸の目には影一つ見えないし、あらぬ音が耳に届くこともない。
まったくもってシュールだ。
「絡まれたなんて、全然気付いてませんでした」
「そりゃさっちゃんは気付かなくて当たり前。つかどうせ兄貴も似たようなもんだし」
そういえばそうだった。
しかし見えない二人を連れて、見える一人はあちらこちらに気を配って大変そうだ。
「大丈夫だったんですか? その、神格級の皆さんに怪我とかそういうのは」
ぶは、と盛大に噴いた音が響いた。
次いで慶次が豪快に笑う。その大きさに幸の肝が冷える。まだ日付は変わってないとはいえ、夜も遅い時間だ。隣に響いたら苦情が来てしまう。
どうにか止めてくれ。
そんな藁にも縋る思いで背中を振り返ると、なんと氷室までもが笑っていた。笑い方は慶次とは正反対、声も漏らさず右手で口元から顎を押さえつけている。必死に堪えようとしている態だ。その所為か眉間に皺も寄っている。だが目元が完全に緩んでいる。
一体何がこの兄弟のツボに入ったというのか。
かける言葉を見つけられずに幸がおろおろしていると、呼吸困難寸前でどうにか笑いを収めた慶次が涙を拭いつつ、ようやく復活を果たしてくれた。
「いやあ……その発想はなかったわ……」
「あの私、変なこと言いました? いえ、言ったんでしょうけど」
「怪我の心配してくれるなんて、後にも先にもさっちゃんだけだろうなー」
「え、だって。絡まれてたんですよね? 機嫌悪いって言うから、どこか痛いのかなって」
「うーん、優しいねえ。三匹の機嫌がちょっと……いや、大分良くなったねえ。こりゃ一層良い働きしてくれるわ」
「ええ?」
もはや何がどういう基準なのか、幸には皆目見当もつかない。
慶次がもう一度、笑い涙を拭う。
「千切っては投げ無双の極悪三匹衆だよ。心配ご無用。さー明日に備えて風呂入って寝よう」
そして、一番風呂ならぬ一番シャワーどうぞ、と慶次が勧めてくる。
釈然としないままながら幸はその厚意をありがたく受け取り、広めのユニットバスに入った。
* * * *
キュ、とコックを捻る音が響き、次いで水音が流れてきた。
それまでごそごそと荷物の確認をしていた慶次がその手を止めて、氷室の座る椅子の向かいに座ってきた。途中冷蔵庫に寄って、ホテル到着前にコンビニで調達してきたビール持参だ。
小さなテーブルの上に氷室の分の缶を置き、どうぞも何も言わず、慶次自身はさっさと自分の缶を開ける。プシュ、と小気味よい音が響いた。
「運転お疲れさんでした」
乾杯、と軽く慶次が缶を持ち上げる。それに倣って、氷室も缶を手に取った。
「多かったのか」
「んー?」
缶に口を付けたまま、慶次が首を捻る。
氷室の目では影すらも捉えることはできなかった。闇夜の中に落ち着かない、そぞろな空気だけは肌で感じられた程度だ。ただし、受信能力が低い氷室でさえ慌ただしい空気に気付いたということは、逆に言えばそれなりの大立ち回りが演じられていたとも解釈できる。
おそらく大活躍だったのだろう。
主に氷室を守るシロとキン、そして慶次の相方であるミドリの獣三匹衆が。
ここまで来れば、けものというかケダモノ。父の真をしてそう言わしめた三匹だ。あるいは神獣の端くれとして崇められて良いレベルの力を誇っているらしいが、いかんせん好戦的すぎて頂けない。
氷室の目には見えないが。
「二十はいってないと思ったけどね。途中で数えるの面倒になったから、正直分かんね」
投げやりな回答だ。
「個人的にはあんな小物ばっかりでどうこうできると思われてたのが癪」
「手数が多いだけか?」
「……んー」
歯切れが悪い。
「少し気になるのは、あんなに手下が多いとも思ってなかったっつーか」
どうあれ彼らの本拠地に乗り込まないことにはどうとも。
一抹の不安要素を残しつつも、明日にならなければ具体的なことには言及できなさそうだと慶次が言うので、この話は自然と終わった。
小奇麗なホテルの部屋に、白い天井灯はない。代わりにスタンドや壁付きの灯りが柔らかく灯っている。暖かな橙色の光が控えめに部屋を満たす。
夜は静かだ。
微かに届くシャワーの水音が優しい。慶次が背をもたれかけると、簡素な椅子がぎしりと鳴った。
「なあ兄貴」
呼びかけに目線で応える。
「さっちゃんはさ、攫ってでも嫁にすべきだと思うぜ?」
続いた予想外の台詞に、氷室はビールを噴く羽目になった。
なんてことを言う。
攫うなど物騒にも程があるが、しかし真っ直ぐな弟の言葉に何も返せず、氷室はただ苦笑するに留めた。
「いい子だよ」
「ああ」
「嘘吐かないし」
「そうだな」
「あんなに打算の無い子、兄貴の周りでは初めて見たわ」
「そこは単純に過ぎるだけじゃないか」
「裏表無いとも言えるんじゃねえの」
「まあ、そうかもな」
「結だって懐いてる」
「みたいだな」
「親父たちは言わずもがなだ。で、どう?」
「どうって何が」
「これまでの流れがあるのに引っかからないあたり、本当に可愛げのないお兄さんだと思うよ」
慶次が目を眇めた。
「じゃあ単刀直入に。本気になってもいいんじゃねえの」
「賛成してくれるのか」
「だってうまく運びそうだもの」
「どうかな。相手のある話だ」
「はいダウト。さっちゃんは明らかに兄貴に惚れてる。『緑の手』を使わなくたって分かるのに、今更その言い訳は通用しない」
珍しく弟の舌鋒が鋭い。
傍から見れば前途は明るいのだろう。互いに想い合っていれば、大方の問題は些事になる。尊重し、許し合う余裕はそこから生まれてくる。これから先続く人生を共に歩む、その為に重要であり必要な大前提だ。
「……言い訳に聞こえるか?」
「そりゃあね。長年兄弟やってますから」
弟が胸を張る。
それも一理あると頷き、氷室はとりあえず投げてみることにした。
「一応申し込んだというか、気持ちは伝えた」
「その『一応』って部分がすげえ気になるんだけど」
「返事は必要ないと言った。だから、一応だ」
「は? 必要ない? なんで?」
素っ頓狂な声を出し、慶次が目を丸くする。
「……知ってたさ。幸の気持ちが俺に向いてくれていることくらい」
気付いていたからこそずっと言えずにいて、後戻りができないと分かっているからこそ返事を突っぱねた。
いつか来るかもしれない心変わりを厭うのではない。
そんな結末を迎えるのだとすればそれは、自身の誠意が足りない部分があるのだろう。どこかしらに。
至らない部分を突きつけられるのは怖くない。もう慣れた。求められる完璧さに応えられない、生きていればそんなこともままある。破綻した二度の結婚はそれを教えてくれた。
怖いのは、恐れ、嫌悪、罪悪感を抱かれることだ。
もしもいつか、終わりの日が来た時に。
綺麗な別れなどあり得ない。
言葉とは裏腹に抱えるどんな感情も、筒抜けだと分かってしまったら。それはこの上もなく疎ましい事実だ。
滑稽だと笑われるだろう。来るかも定かでない別れの日に怯えて、共に生きるという決断ができないなど。それでも、「心を覗かれた」という途方もない嫌悪を抱いてほしくはない。
一度知ってしまったが最後、後戻りはできない。
好きだと想う気持ちだけではきっと、抱えきれない。
幸は優しい。
彼女はこんな自分を好きになってくれた、偏見のない、出来た人間だ。
もっと普通が似合っている。
気苦労のないありふれた、穏やかで平凡な恋をして然るべきだと強く思う。普通であることを彼女はいつもマイナスに捉えるが、本当は普通でいることが何よりも難しく価値があるのだと、どうしたら伝わるだろうか。
彼女が傍にいれば、きっと誰もが幸せになれるだろう。
その名が示す通りに。
そんな彼女にずっと傍にいてほしいなど、自分の我儘が過ぎる。
「全部言った。『緑の手』がどういう力なのか。人の感情が分かることも、何もかも」
「……嘘だろ」
「ここでお前に嘘を吐いてどうする」
「だっ、て、……兄貴はずっと、誰にも」
前の結婚の時でさえ、と呟きが漏れた。
「言ってもいいと思える相手ではなかった。ただそれだけだ」
「……」
「だから幸には、返事はいらないと言った」
「俺、今初めて兄貴のこと大馬鹿野郎だと思った。どんだけ不器用なんだよ」
慶次が空き缶を潰して立ち上がった。
数歩の距離にある小さな冷蔵庫の扉を開けて、次の缶を無造作に取り出す。横顔のまま「何も言えねえわ」と呟いた弟が、泣くのを堪える在りし日の幼い弟と重なった。
自分のことのように憤ってくれるこの弟も、そういえば昔からずっと優しかった。




