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舌破り  作者: 東 吉乃


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それは柔らかな、心の急所で


 恵美子の身体に異常は認められないが、意識が戻らない限りは退院を許可できない。そう結んで、医師からの一通りの再検査結果の説明を受けた後、途方にくれている幸に氷室が向き直った。

「話したいことがある。少しいいか」

「……? はい」

 改まった雰囲気に幸は首を傾げつつ、頷いた。



 雄三が入院している病院ほどの規模ではないものの、この病院にも外に小さな庭があり、入院患者の憩いの場になっているようだった。

 先を歩く氷室は点在するベンチの一つに座り、幸を横に座るよう促した。素直に幸が従うと、氷室は途中の自販機で買った小さなペットボトルを寄越してくる。

 有難く受け取って蓋を開けると氷室もそれに倣い、まずは二人で乾いた喉をしばし無言で潤した。

 ちなみにこんな時でもやはり氷室は日本茶だ。夏に冷たくて美味しいシリーズである。一方で幸は眠気覚ましも兼ねてコーヒー系を選んで買ってもらった。

 このあたり自分達も凸凹コンビだよなあ、などとのんびり思う。

 先ほどまではかなり気が張り詰めていたが、今はふとそれが緩んだことが自分でも分かる。まだお茶に口を付けている氷室を横目に、幸は思ったことを口に出した。

「目を覚ましてくれないことには、偽装結婚なんてやってる場合じゃないですよねえ……ていうか今日はまだいいとして、明日にはお父さんに言わなきゃとは思うんんですけど、何て言ったもんですかねえ……」

 正直、心底困った。

 そもそも偽装結婚は雄三の為にやろうとしているのだが、恵美子が意識不明の状態と知れば、雄三は絶対にうんとは言わないだろう。かといって、いつ覚めるともしれない恵美子を待つにはあまりにも時間が無さすぎる。

 どちらを選んでも辛い。

 雄三にあまり時間が残されていないことも、恵美子のこれからに確証が持てないことも、どちらも現実だ。

 そしてどこかで覚悟している自分がいる。

 痩せていく実の父親を目の当たりにし続けたこの半年間で、変わらないものなどないのだと思い知らされた。生きていれば、何が起こってもおかしくはない。「まさか」はすぐ傍にある。この経験がなければ、今回の恵美子の件でもっと取り乱していただろう。

 明日の朝までに恵美子が目を覚ませば、何もかもが杞憂で片付く。

 しかし希望的観測はあくまでも希望であって、物事を考えるにはまず現状をベースにしなければならないだろう。良くて現状維持、悪ければ急激に状態悪化することさえあるかもしれない。

「今日が二十日だから、……あと十日かあ」

 呟く声には、焦りと諦めが混ざった。

 別に必ず六月中に偽装結婚を実行せねばならないわけではないが、「早い方がいい」と雄三の主治医が言った言葉が気になっている。


 だがもう無理かもしれない。

 いや、偽装結婚なんて荒唐無稽な話、土台無理だったと思えば諦めもつく。


 ここまで来れたことが奇跡だった。幸一人では到底、何一つ出来はしなかった。少しの間だけでも両親を喜ばせられたことを思うと、もう充分だと思わねば罰が当たる。

「……っ」

 幸の喉が詰まった。

 痛みが分かるのだと言うこの人相手には、どうせ誤魔化せない。そしてきっと、幸が氷室を責めているわけではないことも分かってくれている。

 自分一人では親孝行一つ満足にできない自分に、たまらなくなる。

 次から次へと溢れ出てくる大粒の涙を、幸は両手で強く拭い続けた。



「なあ、幸」

「はい」

 涙に濡れる声だったが、幸はすぐに返事を返した。

 そのまま隣に顔を向けると、氷室の長い人差し指がゆっくりと近づいてきて、幸の目元をそっと拭った。

「俺を信じてくれるか」

「稜さんを信じる……? 私、今まで疑ったことなんて」

「……そうだな。お前はそうしてくれていただろうと思う」

「なに……? 稜さん、変です。どうしてそんな辛そうな顔するんですか」

「そう見えるか」

「はい。痛そうです。私が泣いているからなのかもしれませんけど」

 可能性を指摘しつつも、まだ零れる涙を止めることはできなかった。

 そんな幸に氷室は「いや、」と首を一つ横に振った。

「俺にも怖いものはある。お前がどう思っているかは知らんが」

「……あるんですか? 怖いもの」

「あるさ。俺は誰かと深く関わるのが怖い。より厳密に言えば、俺自身がどういう人間であるのかを知られるのが怖い」

 相槌も打てずに、幸は氷室の言葉に聞き入った。

「基本的に見て見ないふりだ。誰かがすごく困っていたとして、多分俺が助けてやれると分かっていながらも、俺は無視を決め込んできた」

 その告白を、「最低だ」と非難することはとうとう幸にはできなかった。

 詳細な背景は見えない。

 だがこの人が本当は優しい人であることを自分は知っている。そんな風に切り捨ててきた理由が絶対にあるはずなのだ。それを聞くまでは、どんな主観も差し挟んではいけないような気がしている。

 ただ聴こう。

 心に決めて、幸は真っ直ぐに氷室を見た。

「見ての通り俺は容姿体格に恵まれた。黙っていれば男女問わずそれなりに人は寄ってくる。だが黙っていられなかった俺は小学生の時点で友人というものを失くした。こんな誰の目にも見えない能力のことだ、まあ気持ちが悪いだろうな。真偽の程も確かめようがない。互いに関わらない方が互いの為だ。今でもそう思っている」

 温度を感じない言葉は、淡々と続けられる。

「本当は、どこまでお前に踏み込んでいいのか量りかねている。今までそうしてきたように、放っておいても良かった。助けてほしいと伸ばされたお前の手を振り払うこともできた。だがお前は俺のこの力を『嬉しい力』だと言ってくれた。

 信じてくれるか、と言ったのは……

 多分、今回の件はこのままでは解決できないだろうと思うからだ。医学の問題じゃない。あちらの――常ならざる世界に原因がある。幸、お前が心で恐れていることはその通りで、何もしなければいつかそれは現実になる。今は計器が何の異常も示さなくても、このまま放っておけばやがてお袋さんは衰弱していく。

 世の中にある植物状態が全て、あちらが原因というつもりは毛頭ない。

 だが今回の件は間違いない。俺を信じて任せてくれるのなら、数日の内にどうにかしてやれるはずだ。その確信があって尚、黙ってはいられなかった。

 だが……

 これをお前に持ち掛けることが正しいのか、今この瞬間にも俺には分からない。そんな馬鹿げたこと、と一蹴されるかもしれないとも思っている。だが助けられると分かっていて見過ごすこともできなかった。

 分からない。

 何が正解なのか、人付き合いを避けてきた俺には分からない」

 雨だれのようにぽつりぽつりと打ち明けられた葛藤は、氷室にしては珍しく理知的ではない――どちらかと言うと感情の赴くままに聞こえる言葉だった。

 これほど言葉を探している、会話に苦慮している氷室を見たことがない。

 話をしている間にもこの裏庭を歩く通行人が氷室に注目しているのが分かる。氷室の言葉通り、その類稀な容姿は多くの人間を惹きつけるのだ。

 恵まれているが故、より一層大きくならざるを得なかったであろうその葛藤を、何故口に出してくれるのか。

 抱いた純粋な疑問を、幸はそっと差し出した。

「本当にそれだけですか?」

 氷室の視線が幸に返ってくる。真意を確かめるようだ。

「私の読み取った行間は間違っているかもしれませんけど……稜さんはあんまり『緑の手』が好きではないですよね。それが理由で人付き合いも避けてきた。私と同じように困っている誰かがいても、関わってはこなかった。でも私のことは黙っていられなかった。私が、『緑の手』を受け入れたから」

「……そうだ」

「たったそれだけの理由で? って私には思えるんです。私はあんまり頭良くないし、癒すことができるっていうのは本当にただ『嬉しい』なあって単純な気持ちでした。だからすごく見合わないって言ったらいいか……私にしてみればたったそれだけの理由で、言葉は悪いですけど楽しそうには聞こえない気持ちを、どうして話してくれたんだろうって」

「それは、」

 氷室が言葉に詰まった。

 だがそれはほんの数秒のことで、氷室はいつか幸の実家でソファに座っていた時と同じように、開いた膝に肘を置き指を組んだ。視線をその手に落としながら、氷室の言葉は続いた。

「多分、それだけじゃないんだろうと思う」

「じゃあ他に何が?」

 氷室が曝け出したのは、多分心の最も柔らかな場所だ。

 だからこそ幸は強く思う。踏み込まれるに足る何かを自分は見せていないのに、何故この人は、と。不意に詰められた距離に戸惑いを隠せないまま幸が疑問を重ねると、少しだけ沈黙が降りた。

 ややあって、氷室が組んだ腕にその額を預ける。その状態で、氷室は言った。



「多分俺はお前を愛している。愛したいと思っている。守りたい。家族になりたい、とも」


「勝手な話だ。相手のあることなのに」


「断ってくれて構わない。当然の結果だ。だがもしも受けてくれるのなら……いや、正直に言おう。今この時点では、お前は俺の申し出に頷いてくれるだろうことを、俺は知っている」



 的確すぎる分析に、幸は恥ずかしさも忘れて本気で首を捻った。

「えーと、……私どこかで勢い余って告白とかしましたっけ?」

 とりあえず氷室から想いを告げられることなど三回生まれ変わってもあり得なさそうな未来すぎて、愛の告白を受けたというのに感動よりも先に疑問が浮かんでくる。

 気持ちがあまりに募りすぎて無意識に呟いていたとかだったら残念すぎる。残念すぎるがしかし、ないとは言い切れないところが泣き所だ。幸が無意識に告白めいたものを呟いて、それを耳にした氷室が菩薩の心で受け入れてくれた結果がこの告白であるというのなら、万が一くらいの確率である、かもしれない。

 しかし予想に反して氷室からは「いや、それはない」と有難い否定が出た。

「フェアじゃないから言っておく」

 そして続いたのは、緑の手が癒しだけではなく、人の感情をも読み取れるという事実だった。


*     *     *     *


 氷室は感情薄く淡々と言った。



 元々、癒す力が備わっているらしいことは学校に上がる前には理解していた。だがもう一つの能力、人の感情を読み取れるということに最初に気付いたのは、件の親友――海野うみの 彰宏あきひろとの出会いまで遡る。

 小学校一年生の、まだひよこ組と言っていい頃だった。

 帰り道にうずくまっている彰宏を見て、彼が「どうしよう」と途方に暮れていたのが分かった。

 転んだ痛みで泣いているのではなく、お遣いで手にしていた大切な花束を潰して駄目にしてしまったという取り返しのつかなさだ。

 振り返ってみれば分かる。たまたま、まさにその潰れた花たちが繋いだのだ。彰宏がとても悲しんでいたから。植物たちは彼ら自身が泰然と時を過ごす性質のせいか、人間の感情の起伏に良く反応する。

 その時は何の疑問も抱かなかった。

 当たり前だが中継者がいるとは夢にも思わず、何となく分かる、その程度の認識だった。

 結局、頼まれ事だったその花束は、花たちの「あの人なら絶対に大丈夫」というお墨付きの提案で、もう一度花屋に戻って新しい花束をもらうことで解決した。人のよさそうな店員は、花たちが言ったとおり優しい人だった。

 もう一度花屋に行くという選択肢に、彰宏は「絶対に無理だ」と腰が引けていた。普通の小学一年生はそうだろう。わざとではないにせよ、自分で駄目にしてしまったものをもう一度もらえるわけがない、と。その意味で、親友は大変に躾が良かったとも言えるが。

 一連の流れの中で、まだ無警戒だった氷室は素直に説明した。それまで涙に濡れていた彰宏は、聞くなり顔を輝かせて「すごい、すごい」と自分のことのように喜んでいた。


 最初の入り方というのはどうも重要だったらしい。

 この花束事件をきっかけに、彰宏は氷室の懐に先入観なしで入り込んできた。その後の紆余曲折を経て氷室が人付き合いを避けるようになっても、彰宏だけは変わらず氷室の傍に居続けた。

 彰宏は嘘を吐かない真っ直ぐな気性の持ち主だった。

 真っ直ぐすぎるが故に、氷室にも堂々と物怖じせず言いたいことを言ってくる。腹の探り合いなど面倒だ、本音が言えて楽でいい、そんな風に氷室の異能を認め、一緒にいることを自然に受け入れてくれた最初で最後の友人だ。

 腐れ縁のように大学まで同じ進路を辿った後、彰宏は海上自衛隊に入って年のほとんどを海の上で過ごしている。今時の若者からは船に缶詰の生活が敬遠されることも多いらしいが、本人は性に合っているらしい。


 彰宏との関係が今でも続いているのは、偏に先入観がなかったことに起因していると思う。

 まだ幼く容姿の別は些事だった。そして入学したばかりでそこまで人間関係も出来上がっておらず、氷室自身も自身の持つ力を披露しておらず、「都合の悪いこと――本音と建て前を見破る扱いにくい奴」認定はまだ受けていなかった。それが故、噂などもまだ出ていなかった。

 氷室からしてみれば、ノーカウントにすべき特殊事例だ。


 いずれにせよ。


 植物を仲介にして、かつ意識的に周波数を合わせなければ、感情の読み取りはできない。

 十代までは制御ができず、植物があれば勝手に波長が合ってしまい、そこに残る誰かの感情がいつも流れ込んできていた。三十を超えた今は、植物からの干渉は常に遮断できる程度に力の調節ができるようになった。

 意識や思考を事細かに知るというのとは少し違う。あくまでも喜怒哀楽が伝わるだけだ。だが言葉と感情が裏腹であることを見抜かれて、気持ちの良い人間はいない。

 そんな相手と誰が一緒にいたいと思うだろうか。


 知っているのは家族と親友だけ。元妻二人さえも知らない話だ。






 氷室の声は、最後まで硬直したままだった。


*     *     *     *


「最後に一番重要な点。前にも説明したと思うが、お前が相手だとどうも波長が合いすぎるようで、少し油断すると勝手に感情が流れ込んでくる。近くに植物があってもなくてもこれは変わらない。遮断しようと心がけているが、気を抜くとまずい」

 だから、と続く。

「お前が俺に掛け値なしの好意を抱いてくれているのを、俺は知っている。卑怯なことだ」

「卑怯だなんて、そんな」

「やろうと思えば心を覗けるも同然だ。これを卑怯と言わずにどうする」

 氷室が強く言い捨てた。

 決してこちらに視線を向けず、頑なに地面を見据えている。憤りが痛いほどに伝わってくる。それは決して氷室自身が望んだ力ではないはずであるのに、楔を打ち込むように自身を強く戒めている言葉だ。

 今、本当の意味で分かった気がする。

 時折見せる達観、優しさの源泉、距離の取り方、舌を破り捨てるように切り捨てた物言い。要素だけで見ればちぐはぐだったものが、ぴたりと嵌って一つの絵になった。


 好意だけを感じられたのだったら幸せだった。

 しかし氷室の現実はそうではなかった。嫌悪、拒絶、疑心、下心の好意、そんなものばかりを感じ続ければ、人付き合いそのものに見切りを付けたくなるのも道理だ。

 けれど同時に寂しかったのだろうとも推し量れる。

 本当に何もかもを諦めたのだとしたら、わざわざ「緑の手」を使ってまで相談所などやらなくていい。仕事であれば割り切った関係、それを欲した氷室の気持ちは痛いほど分かる。

 

 締まるように胸が苦しくて、幸は声を出せなかった。代わりのように涙がまたぼろぼろと零れ落ちた。

 氷室自身が言ったように、黙っておけばきっと幸は簡単に氷室のものになっていたはずなのに。

 どうしてこの人はどこまでも誠実であり続けようとするのだろう。傷付くと分かっていて尚、茨の道を恐れずに進めるのだろう。その勇気に裏打ちされた「愛している」の一言は、応えがなくとも委細構わない、そんな覚悟さえ滲んでいる。

 幸は泣いた。

 清廉な想いに見合う等価の言葉が、何一つ思い浮かばなかった。だから何も言えず、ただ溢れる涙を拭うしかできなかった。



「……すまん。本当は言うつもりはなかった」

 苦しそうに氷室が言った。

 だとすれば、鍵を壊したのは幸だ。素直に「信じる」と一言頷いておけば、氷室が抱える葛藤は多分、打ち明けられることはなかった。

「困らせたな。忘れてくれ」

 大きな手が幸の頭をくしゃりと撫でる。

「心配しなくていい。お袋さんは必ず助けるし、お前の感情も今まで以上に流れ込まないよう気を付ける。それでも割り切れなければ、式が終わった後にバイトを辞めてもいい」

 だから何も心配しなくていい。

 同じ台詞を重ねて、氷室が微笑んだ。


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