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舌破り  作者: 東 吉乃


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剥かれた牙


 自宅の最寄駅に着いたのは夕暮れ時だった。

 今日は土曜日、人が多い。人ごみを縫うように幸と恵美子は構内を歩き、外に出ると真っ赤な夕日が眩しかった。梅雨の合間の貴重な光が目に染みる。

 ざわめきの中を二人で肩を並べて歩いていると、恵美子が腕時計に視線を落とした。

「まだスーパー開いているわね」

「ねえお母さん。一週間ぶりに帰るんだし、ご飯なんて適当に私が作るから、早く帰ってゆっくりしようよ」

 一週間前の土曜、氷室の両親が挨拶に来てからずっと、恵美子は病院に泊まり込んでいた。雄三の状態があまり芳しくなかったからだ。

 しかし根を詰めて恵美子が参ってしまうようでは逆に良くない。

 そう思い、ゆっくりお風呂に入って慣れた布団で休むようにと幸が説得したのだ。そして雄三の調子が少し上向いた今日、恵美子と一緒に家路を急いでいるところである。

 それなのに、真面目なこの母は買い出しをして晩御飯を作ってくれる気でいるらしい。

 帰ってからも動いてしまっては連れ帰る意味がないのだが、恵美子は「でも」と渋る。そんな母の手を捉まえ、幸はスーパーとは反対側の帰る方向に引っ張った。

「幸もちゃんとしたご飯、最近食べてないでしょう」

「大丈夫。事務所にいる時の昼は稜さんに作ってるし、朝も夜もご飯炊いてるよ」

「そう?」

「ていうか、今から結婚しようとしてる娘がご飯作れない、食べてないってのも問題だと思うよ?」

 まして育ち盛りの小中学生ならばいざ知らず、身体的にはもう大人と分類して差し支えない幸にしてみれば、多少適当な食事が続いたところで大きな痛手になるわけでもない。

 だから大丈夫なのだと幸が重ねると、ようやく恵美子は足を家に向けた。「久しぶりに帰ると変な感じねー」などと呑気に言いながら。



 そのやりとりから、おそらく五分と経たずにそれは起こった。



 最初は幸が道路側を歩いていた。

 何の障害物も無かったのだが、たまたま幸がつまづいて前のめりに転んだ。今回は足は捻らなかったものの、膝を思いっきり擦り剥いてしまった。じわりと血が滲む膝小僧に息を吹きかけつつ、痛みが和らぐのを息を詰めて待つ。

 少し前にも同じようなことをやったなあ、などと自分の間抜けさに呆れながら起き上がろうとした時だった。

 心配そうに幸を振り返っていた恵美子が、突っ込んできた車に撥ねられた。


 耳をつんざいた悲鳴のようなブレーキ音。

 まるで犬が叩かれて高く鳴くような、そんな音に聞こえた。


 幸には何が起こったのか分からなかった。ただ、地面に横たわる恵美子の姿を目に映すだけだった。

 少し遅れて周囲にまばらにいた人間が集まってきた。彼らはそれぞれに幸に声かけをしてくれたり、救急車を呼んだり、警察に電話をしたり、恵美子の様子を窺ったりしてくれていた。

 そのほとんどが本来であれば幸自身がやらなければならなかったことだ。だが幸はその光景をただ見ているしかできなかった。

 遠く響いたサイレンが間近に迫っても、幸はその場にへたり込んだままだった。

 心臓が早鐘のように鳴っていた。


*     *     *     *


 救急車が指定の病院に滑り込んですぐ、恵美子は処置室に運ばれた。

 ご家族はこちらでお待ちくださいと言いながら、若い医療スタッフが幸を待合の椅子に強めの力で座らせた。抵抗できるほど状況が理解できておらず、はいともうんとも言えず幸は無言のまま素直に従った。

 雪崩のようにばたばたと医療関係者が処置室に入っていく。

 少しして全員が揃ったのか、波が落ち着くと同時に周囲は静けさに覆われた。


 血は出ていなかったと思う。救急車で運ばれている間も、心臓マッサージなどはされていなかった。

 ただ、倒れた拍子に頭を打ったのか、恵美子の意識は無かった。


 それらが意味するところは、素人の幸には分からない。

 でもきっと、今すぐにどうこう、というほどの重篤な状態ではない筈。希望的観測が入っていることは否めないが、幸はひたすら自分にそう言い聞かせ続けた。

 冷たくなって震える手を握りしめて、ただ時が過ぎていくのを待つばかりだった。



 小一時間ほど経った頃、表情を和らげた医療スタッフが幸の傍に来た。促されるままに案内されたのは処置室の手前、診察室だった。待っていたのは三十台前半くらいの落ち着いた女医で、幸の姿を認めると、目元を緩めてくれた。

 彼女の第一声は、「安心して良い」という趣旨の言葉だった。

 恵美子は車に撥ねられたとは思えないほど軽傷であるらしく、多少の擦り傷と脳震盪で済んだらしい。念の為CTで全身を見たが骨折や内出血などはなく、一度は意識が回復し言葉も交わせたとのことで、無理はできないが概ね問題ないことを丁寧に説明された。

 気を付けなければならないのは、脳震盪を起こしたことだそうだ。

 交通事故の結果としてだけを見れば、程度としては比較的軽い怪我で済んでいる。

 しかし、脳震盪そのものは軽く見てはいけないらしい。一口に脳震盪といっても三段階にレベルが分けられるらしく、恵美子は最も重いレベル三に相当すると女医は言った。

 レベル三が何かというと、二分以上の失神を起こすとこれに当てはまるのだという。確かに、救急車が到着するまで――確実に二分以上経過していると断言できる時間、恵美子は気を失っていた。

 少なくとも一泊入院し、このまま様子を見るのが必須。

 更に、重度の脳震盪であれば頭痛などが残る可能性も十二分にある為、一週間は安静にする必要があることを理解してほしいと優しく女医が言い、幸は一も二もなく頷いた。

 女医は続けた。

 今はもう一度眠っているが、二、三時間もすれば一度目を覚ますだろう、と。誰かの言葉がこれほど心強いと思ったことはなかった。



 恵美子はそのまま入院病棟に運ばれた。幸も一緒に付いて歩き、四人部屋の空いていた一角に案内された。

 脳震盪を起こしているので、安静が必須だという。服のままで窮屈だろうが、本人が目を覚ますまでは無理に着替えさせるのも良くないと言われ、幸は手持ち無沙汰にただ時が過ぎるのを待つことになった。

 長期入院ならまだしも、一泊であれば特に着替えを取りに帰る必要もない。

 結局できることはほとんど無い状態で、しかし本を読むような心の余裕もなく、幸はずっと恵美子が目覚めるのを今か今かと待った。


*     *     *      *


 人知れず溢れ出てくる涙を、幸は懸命に手で拭った。

 とうの昔に消灯時間は過ぎている。堪えている嗚咽や鼻を啜る音が響いてはまずい。僅かに残った理性を総動員して、幸はそっと病室から抜け出した。

 広い廊下にずらりと並ぶ病室は、どれも寝静まっている。

 極力足音を立てないよう注意を払いながら歩くと、少し進んだところで談話室に行き当たった。誰もいないことを確かめてから、幸は中へと身体を滑り込ませた。

「……っふ」

 ここなら少しくらい声が漏れても大丈夫。そう思った途端、ぶわりと涙が盛り上がった。


 どうしてだろう。恵美子が目を覚まさない。

 もう時刻は真夜中の三時を過ぎたのに。


 遅く見積もったとしても、救急の処置が終わって入院病棟に上がったのは夜の八時前だった。まだ面会の人間もいたのだ、間違いない。

 そこから二、三時間というと夜半になる。少し早目に寝入ってしまったと考えたとしても、一度は目を覚ましてもいいのではないか、と思う。

 途中で見回りに来た看護師は、「まだ寝てるのね」と特に心配する素振りは見せなかった。幸自身、恵美子は看護疲れもあるだろうから、このまま朝まで一直線の可能性もあると思っている。

 だがどれだけ言い聞かせても、この不安な気持ちが揺れて、どうにも抑えが利かなくなる。夜が深まるにつれて音が一つまた一つと消えていき、静けさの中に取り残されたかのように落ち着かない。

 子供じゃないのに、と冷静になろうとすればするほど、この涙は溢れてくるのだ。


 きっと疲れて深く寝入っているだけ。

 でも、朝になっても目を覚まさなかったら?

 そんなことない、大丈夫。

 でも、もし。


 一つの仮定を浮かべてはそれを打消し、またそれを否定する。

 どれだけそうして一人小さくなっていただろう。いい加減泣きすぎて頭が痛くなり、鼻も完全に詰まった頃合いで、横の椅子に置いていた携帯が不意に震えて着信を告げた。

 こんな真夜中に、かつ場所が場所だけに別の意味で心臓が止まりそうになったのは余談だ。

 すわ怪談かと身構えた幸だったが、液晶に表示されているのは偽装婚約者こと氷室の名前だった。

 何事かと慌て、電話に出る前に幸は時計を確かめた。午前四時。朝に弱い氷室がこの時間に起きているという時点で、若干怪談に近い気もするがどうなのだろう。

 一泊入院という非日常の中で、日常的な電話の着信があったことで、妙な部分に冷静になる。

 ともあれ、幸が起きていることを確信しているかのように震え続ける携帯を、恐る恐る幸は手に取った。

「はい……稜さん? どうしたんですか、こんな時間に」

『単刀直入に言う。お前、泣いてるだろう』

 目の前にいてその状況を見ているが如く、氷室はきっぱりと言い切った。

 咄嗟に誤魔化すこともできず、幸は言葉に詰まる。しかしその沈黙を意に介さないように、氷室の低く柔らかい声が続いた。

『話は後だ。とりあえず傍に行くから、今どこにいるか教えろ』

 命令口調なのに優しさを感じる言葉が不思議だった。



 夜間の救急待合に続く入口で待っていると、一時間もせずに氷室の車が滑るように病院敷地に入ってきた。既に空は白み始めているが、薄明の闇を切り裂くように白いヘッドライトが眩しい。

 流れるようにたった一度の切り返しだけで鮮やかに駐車し、車を降りた氷室は真っ直ぐに幸に走ってきた。

 足が長いせいか一歩が大きい。よって、速い。見る間に縮まる距離に、「そういえば最初は手をつなぐ徒競走の相談だったなあ」と幸はバイト初日を思い出していた。

 あの時の自分は、まさか氷室と偽装結婚するなど夢にも思っていなかった。

 そして。

 駆け寄ってきた氷室の腕に問答無用で閉じ込められるとも、思っていなかった。

「稜、さん? どうして」

「お前が泣くと、俺が痛い。だから分かる。前にも言っただろう」

 確かに聞いたが、こんなに離れていても有効だとは聞いていない。

 しかしそんな屁理屈を捏ねられるような雰囲気ではなく、氷室の腕は更にきつく締まる。

「ん、苦し……」

「我慢するなと、何度言えば分かる。馬鹿野郎」

 結構酷い罵倒が出た。

 だが抗議する前に、幸の頬を涙が伝い落ちた。心細すぎた夜に、差し伸べられた手。貸された胸。柔らかな声。問答無用の力強い腕が、ただ優しかった。


*     *     *     *


「疲れてるだけだと思うんです。ずっと病院に泊まってたし。朝になったら多分、目を覚ましてくれると思うんですけど、でも……」

 幸は力なく首を横に振った。

 尻切れになった言葉の先にあるのは、不安そのものだ。口に出してはいるが、その期待が裏切られるかもしれない可能性を完全には否定できず、自然と声も弱くなる。

 氷室には覚えている限りの顛末を話した。

 真剣な顔でじっと聞き入る氷室は難しい顔をしたままで、「大丈夫だ」などという安易な慰めは一つも漏らさなかった。


 時刻は六時を回った。

 幸と氷室が腰を落ち着けているのは外来の広い待合で、大きな窓からは暁の光が差し込み始めている。あと三時間も経てば、この病院も通常通り患者を受け入れ始めるだろう。朝の活気はもうすぐそこだ。

 心配ではあるが、病室には戻っていない。

 他の入院患者もいた為、動き回る気配が煩くて起こしてしまうかもしれないと思うと、戻るのが憚られた。それに、疲れて深く眠っているのだとすれば、目を覚ますのは朝を迎えてからだろうと判断したというのもある。

 夜明けを待つ間、氷室はずっと幸の肩を抱いてくれていた。

 回される腕を中心に、身体全体が包まれているように温かい。穏やかに伝えられる熱に、きっと「緑の手」で癒してくれているのだろうと幸は思った。

 会話が途切れても居心地の悪さは感じなかった。


 この人の傍にずっといられたらいいのに。


 ふと湧き上がる感情は渇望ではなかった。

 絶対に叶わないと知っているから、どこかそれは手の届かない何かに想いを馳せるような、例えば漆黒の宇宙から青く輝く地球を見ることができたのなら、きっとその美しさに震えるのだろうと想うような、遠い憧れだ。

 いつか自分もこんな風になれるだろうか。

 多分いつまで経っても到底追いつけはしないのだろうけれども、誰かが痛む時、悲しむ時、失意に沈む時、氷室のように傍にいてあげられる優しさを自分も持ちたい。

 浮かんでは消える泡沫うたかたの想いは、それだけで時間の経過に募る不安を和らげてくれた。






 しかし正午過ぎ、幸の淡い期待は砕かれた。

 あらゆるバイタルサインに異常が認められないにも関わらず、恵美子は目を覚まさない。素人目にも分かる。これはもう、疲れているから深い眠りについているとは言い難い状態であると。

 だが原因が分からない。

 医師が首を捻る。

 繋がっている計器は恵美子の状態が正常であることを告げている。もう少し様子を見ましょうと医師は言った。逆に言えば、これだけ目に見える数値の全てに異常がなければ、手の打ちようがないと。確かに、健康体の人間に昇圧剤や抗生物質などは無意味であろうことは想像に難くない。

 幸にできることは信じて待つ、ただその一点のみだった。



 そんな幸は、医師の説明の最中、氷室が険しい顔をしていたことに気付く由もなかった。

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