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舌破り  作者: 東 吉乃


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清廉なる信仰、彼方からの光、優しい灯火・後


 故郷くにはヨーロッパのとある小さな国でした。

 今でこそ叙階を受けて司祭となり、神父様と呼ばれるようにもなりましたけれども、最初はこの信仰に生きることになるとは考えてもいませんでした。

 両親も信者でしたから、私も生まれた時に洗礼は受けていたし、日常生活に神の教えそのものは溶け込んでいたと言えるでしょう。けれどそれはあくまでも一人の信者としてであって、日々をこれほど深い祈りの中に過ごすとは微塵も思ったことはありませんでした。

 むしろ、自分はいつかその秘跡を受ける側だと信じていました。

 隣には信仰を同じくする愛すべき人が並ぶはず。若かった私は疑いもしませんでした。


 ご存じの通りカトリックの教えは厳しいですから、今の時代にそぐわないと言われる教えや戒律も多々あります。

 そんなこともあって、私は二十歳になった時に当時の彼女に結婚を申し込みました。同じカトリックの信者でした。


 ですがその日は来ませんでした。


 彼女は私の申し出を受けてくれました。けれど、式の直前に事故で亡くなりました。

 信者ではなく叙階を受けようと心に決めたのはその時です。彼女以外に生涯を共に歩みたい誰かは私にはいなかった。いつか新しい誰かと出逢うことを待つのは、若かった私には辛いことでした。

 独身を貫くこと、そして彼女に祈りを捧げ続けること。

 私に残っていたやりたいことはその二つだけでした。そして一日の大半を祈りに費やすことができたのは、私にとっては幸いでした。そして、彼女の命日から一年後に教会の門を叩こうと決めていました。


 しかし彼女の死から半年もしない内に、私の心に陰りが出てきました。

 事故は不慮で、彼女に落ち度があったわけではなかった。彼女は敬虔な信者だった。そんな彼女がこんなに早くに召されねばならなかったことが、ある時からとても理不尽なことのように思えてきて、最初はひたすらに喪失感が広がっていたにもかかわらず、私の中で怒りが渦巻きました。

 私の中で、信仰が揺らいだのです。

 同じ信仰を抱きながら、隣人や街行く人は私のような理不尽を受けてはいない。振り返ればただの八つ当たりですが、当時の私はどうしてもそれが許せなくて、彼らと同じ空気を吸う事さえ嫌になって、逃げるような捨てるようなそんな気持ちで故郷くにを出ました。

 そして来たのが日本です。

 大きな理由はカトリックが少ないことでしたが、それ以外にも理由はあって、極東のこの島国は一つの信仰、一つの神を信じるのではなく、ありとあらゆる様々な神々を許容するという、良く分からない民族だということでした。

 失礼なことを申し上げてすみません。

 今でこそ随分と日本の宗教に対する考え方――許容の大きさというものが随分と理解できてきましたが、若かった私はカトリック以外は認めたくない狭量な人間でしたから、他の一神教を信じるならばまだしも特定の信仰を持たないという状態が本当に理解不能だったのです。

 想像を絶する島、それがイメージの中での日本でした。


 現実逃避と怖いもの見たさで日本に来た私は、働きもせずあちこちを見て回っていました。そうこうする内、ある日偶然に辿り着いたのが稜と慶次の実家――氷室神社だったのです。私はそこで、若かりし頃の真と出逢いました。

 私は境内にいました。

 見慣れない建築を美しいと思いながら、教会とはまた違う澄んだ空気に心が震えたのを今でも覚えています。

 立ち尽くしている私に声を掛けてきたのが真でした。


 何をそんなに思い悩む、と。


 急に話しかけられたこともそうですが、何より驚いたのは真がとても綺麗な私の母国語を使ったことです。後になって種明かしはされましたが、異国に来て見知らぬ言葉と文化に知らず心細くなっていたらしい私は、恥ずかしいことながらその場で涙を流しました。

 情緒不安定だった私を、真はとても良く面倒を見てくれました。

 結局、ビザが切れるまでのおよそ二ヶ月間、私は氷室家にお世話になったのです。それだけで、あらゆる意味でこれほど他者に寛容な国と民族はいないだろうと私は確信しました。

 二ヶ月間の暮らしは穏やかでした。

 真は毎朝早く起きて、境内や拝殿の掃除をして、沢山の人に祈りを捧げ、あるいは直面している誰かの困難を解決して、一日を終える。その繰り返しでした。

 ビザが切れて本国に帰る日、真は空港まで見送りに来てくれました。

 そして私に言ったのです。


 信じたいのだろう。何を迷うことがある。

 信じればいい、いつか本当に信じられないと投げ捨てたくなるその日まで、と。


 真は二ヶ月の間、私が抱える事情の何を聞くこともなかった。それなのに、違う信仰を抱えている私の背を押してくれたのです。私を苛んでいた迷いは、嘘のようになくなりました。やり場のなかった怒りも溶けて消えました。

 その時に私は固く誓ったのです。

 いつか必ず、この美しい国に帰ってこよう、と。



 本国に戻ってすぐ、私は教会の門を叩きました。

 それから日本語を勉強しつつ長い修業を経て、正式にカトリックの神父として日本に派遣され、十年暮らした後に永住権を頂いたのです。真との付き合いはもう数十年にもなります。


 信仰を含む私の全てを許容してくれた真が、二人の秘跡を願うのです。私はその恩に絶対に報いねばなりません。

 義務ではなく、私がどうしてもそうしたいのです。

 いつか恩返しをしたいと思っていました。この信仰を胸に抱き続ける勇気をくれた、氷室 真というかけがえのない友人に。


 その機会を与えてくれた稜とあなたに、私は感謝さえ覚えます。


*     *     *     *


 神父が最後の言葉を区切った時、幸は祭壇に辿り着いていた。

 四段の階段を昇り詰めたその先の頭上に、十字架とキリストを戴くその場所がある。静謐な空気が一段と濃くなった。

「本当はね、真は自分であなた達に秘跡を授けたかったはずなのです」

 他でもない彼自身、立派な神職なのだから。言われて初めて、幸もその不自然さに気が付いた。

 成り立ちが特殊とはいえ、あれだけの威容を誇る神社である。ついでとは言うものの、通常祭祀も執り行っているとも聞いている。確かに神父の指摘通り、真を斎主として神前式を行う方が自然だろう。まして、幸と氷室の実際の内情も勘案すれば尚更だ。

 同じく祭祀を手伝っている氷室自身、加えて慶次もいながら、その選択肢を「忘れていました」とは考えづらい。

 神父はそうしたいのだと笑ってくれている。

 結果的に問題はないようだがしかし、敢えて無理を通すような選択が何故為されたのか、幸は怪訝さに首を捻った。

「あの……私、神前のお式が嫌とかそういうわけでは」

「勿論、あなたが我儘を通したとは少しも思っていませんよ」

 ねえ、と頬を緩める神父の視線は、氷室に向かっていた。

 受けた方の氷室も、苦笑に近い笑みを浮かべて一つ頷く。

「きっと夢だろうから、というのが真の言葉でした」

「夢?」

「ええ。一生に一度の女性の夢は、絶対に純白のドレスにあるのだと。神前式など時代遅れだし、白無垢は重くて動きづらいだけの衣装だと言っていましたね」

「そう……で、しょうか。私は素敵だと思いますけど」

 神前式の白無垢と、教会式の純白ドレス。どちらも素敵すぎて選ぶのが難しいことはあっても、「絶対に白無垢が嫌だ」なんてことがあるとは思えない。

 そもそも、幸自身が何をどうしたいという希望を述べた記憶はない。

 それは意見を聞いてもらえないとへそを曲げているのではなくて、単純に意見もなしに何故そのような話になっているのだろうという疑問だ。全ての手筈を委ねてしまう申し訳なさの一方で、抱くのはただひたすらに感謝の気持ちだけである。

 断定ともとれるような真の言葉を不思議に思い、幸が氷室を見ると、痛そうな顔が返ってきた。

「……そうであれば、選ばせてやれば良かったな。すまん」

「いえあの、私はドレスも白無垢もどっちも素敵すぎて選べなかったと思うので、どちらでも、いえ、決めてもらって良かったです」

 どうやら選択肢はあったらしいが、そこに文句を垂れたら罰が当たる。元より偽装なのだ、選べる立場ではない。

 それよりも気になるのは、何故その選択肢が事前に却下されたのかというその理由だ。

「私はまったく気にしていないんですけど、でも、どうして稜さんのお父さんはそんなことを?」

 五年の間、一度も結婚の祭祀が入らなかったとかいうのであれば分かるが、とてもそうは思えない。

「最初の結婚――つまり一人目の嫁で、失敗した」

 淡々と言った氷室の言葉に、幸は瞠目した。

「詳細は省く。お前が聞いても愉快な話じゃない。氷室神社での神前式は両家合意のはずだったが、一人目の嫁は気に入らなかったらしい、ただそれだけだ」

「合意してたのに、ですか?」

「真意は分からん。別れる直前に初めて言われた不満だ。どうあれ親父はそれを後悔している」

 だから最初から神前式は選択肢になかった。そう氷室は言った。

 後悔しているという言葉に、幸の胸はざわついた。だが今の幸にそれをどうこうできる権利はない。これ以上を問うてしまえば氷室を傷つけるような気がして、幸は口を噤んだ。

 今更責めたところで、とうに取り返しのつかない状態になっている。

 氷室は離婚したのだし、結は置いていかれた。そんな相手に想いを馳せるだけ腹が立つ。



「幸さん」

 呼ばれて、幸は振り返った。神父が穏やかに笑っていた。

「真の分も私が祈りを捧げます。どうか当日まで健やかに心安く過ごすように。何も憂うことなどありません、あなたが迎える新しい日は、いつも祝福されているのですから」

 清廉なる信仰の人は、どこまでも澄み渡った言葉を持っていた。


 一瞬とはいえ胸に抱いたわだかまりを恥じて、幸はその黒い気持ちを忘れようと笑顔で頷いた。


*     *     *     *


「お父さんって語学が堪能なんですね」

 教会の下見を終え、次いで衣装合わせに向かう道すがら。

 幸は至極真面目に尊敬の念を表したつもりだったが、思いがけずそれは慶次の笑いにかき消された。

「さっちゃんて本当に素直だよなー」

「素直ってそんな、普通に考えて凄いじゃないですか」

 九年間の義務教育と二年間の最高学府で受けた英語教育は、役立たずとまでは言わないが、実戦――敢えてこの字を使いたい――に耐え得るレベルには到達してはいない。誠に残念な話であるが、逃避できない現実だ。

 そんな自分を考えると、いきなり話しかけた挙句に二ヶ月間も外国人と同居できたという真は凄いの一言に尽きる。

「そりゃ親父が真面目に勉強して喋れたってんなら凄いけどねえ」

「むしろ純日本人が真面目に勉強する以外にバイリンガルになれる方法ってあるんですか」

 あるなら是非とも教えて頂きたい。

 そんな期待を込めて慶次を見ると、悪戯な笑みが深まった。

「あるよ」

「あるんですか!?」

「あるんだけど裏技なのよねー申し訳ないことに」

「……裏技?」

 喜んだのも束の間、何やら雲行きが怪しくなってきた。

 どういうことかと目線で尋ねる。

 慶次は少し考える素振りを見せた後、爽やかなサムズアップで説明をくれた。

「優秀な通訳がついてるからね!」

「通訳? ……って、まさか『背中に』とか言います?」

「さっちゃんも飲み込みが早くなってきたねえ」

 褒められているのかどうなのか微妙だ。

 しかし幸が予想した通り、優秀な通訳というのは背中にいるらしい守り人のことだった。本当に何でもありだなこの人たちは! と突っ込みたくなるのを堪えつつ、しかし幸は頬を膨らませた。

「それって試験の時にカンニングし放題じゃないですか」

 羨ましい。いや違う、ずるい。分けてほしい。

 敢えて大げさに糾弾してみると、これまた大げさに慶次が肩を落とした。

「そう思うだろ? ところがどっこい、そう美味い話でもないんだなこれが」

「どういうことですか?」

「平たく言って、俺や親父の『背中』が何か国語も話せるわけじゃないんですよねー。つまりその国の言葉を話せる相手とその『背中』がいないと、通訳もへったくれもないってのが現実でーす」

 軽い。

 この弟御は、一々軽い。

 しかしその軽さを以って解説はさくさくと進められる。

「あっちの世界はこっちの世界よりも、色々なものの境界線が曖昧らしくてね。特に顕著なのが思考や感情で、共通言語っつーか何つーか、互いの母国語に関係なく意志疎通ができるんだそうで」

 つまり真が当時使ったルートというのは、真から真の守り人に「こういう言葉をかけたいが何て言えば良いか」と尋ね、それを真の守り人が改めて神父の守り人に確認し、そのまま発音を教えてもらう、ということだったらしい。

 なるほど、そういうことであればカンニングは出来なさそうである。日本の学校にはほぼ百パーセント日本人しかいない。

 同時に裏技であるということも良く分かった。つまりこの芸当ができるのは、おそらく真と慶次くらいなのだ。相手の背中も見えて、かつ相互に意志疎通ができなければ到底成り立たない話である。多分氷室や結にはできないのだろう、であれば裏技も裏技だ。

 導かれた回答は、一般人には最高に使えない回答だったというオチがついた。



「あの、慶次さん。ついでにもう一つ聞きたいことがあるんですけど」

「いいよ、何?」

大樹たいじゅきみって、どういう人――っていうか、存在なんですか?」

 真は神様だと言った。結は緑のお兄さんなのだと言った。慶次は薄らぼんやりとしか見えないと言った。檀も氷室も見えないらしいが、見えない理由は微妙に違うらしく、檀は力が足りずに見えない状態、氷室はそもそも見える目を持っていないことによる。

 それぞれの証言を咀嚼すると、ちぐはぐな気がするのだ。

 お兄さんなのだとすれば生き物だろうと思うが、慶次にはぼんやりとしか見えないという。一応どちらも見えるが、自然のものより生き物を見るのが得意だという慶次が見えないのならば、生き物とは違うのだろうか。

 かといって、石に代表される自然のものを見るのが得意なはずの檀であっても、大樹の君を見ることはできないと言う。

 だがそんな檀に良く似た力を持つ結には、大樹の君の姿形のみならず、彼の連れている白鷹まで克明に映っているとも言う。

 神様であることは確かなのだろうが、結局元が人間だったのか動物だったのか他の何かなのか、聞けば聞くほど幸には分からなくなるのだ。

「おっと、それを聞いちゃうか」

「あ、いえ。聞かない方が良いなら無かったことにして下さい、すいません」

「ごめんごめん、そういうことじゃなくてね。聞かれて困るようなことは何もないよ」

「そうですか? ただの興味本位なので、本当に不味かったら言って下さい」

「大丈夫。気に入られたんだなあって驚いただけだから」

「……気に入られた?」

 前後の話が全く繋がっていないような気がするのは気のせいか。幸の修行が足りないだけか。

 首を傾げる幸に、慶次が笑った。

「さっちゃんは凄いなあって話。結を陥落させたかと思ったら、大樹の君もだなんて、こりゃちょっと普通じゃないねえ」

「えーとすいません、何を言われているのかさっぱり」

「大樹の君はね、氷室家が守る神社の中心にある楠の化身だよ。分かり易く言えば楠そのものがご神体。だからさっきのさっちゃんの質問に答えるとしたら、大樹の君は自然の力が俺達に分かる形に具現化したものになる。精霊って言えばイメージしやすいかい? 楠だから生き物は生き物だけど、自然のものっていう区分かな。かなり大雑把だけど、どちらかと言うと自分の意思で身体を動かせるもの、人間や動物が元になっている方を俺達の中では生き物って分類してる」

 この辺りの分類は、曰く正解なんてあってないようなものらしい。雰囲気だ、と言い切った慶次の顔があまりにも爽やかすぎて、幸は勢いに流されて「良く分かんないけど分かりました」と相槌を打ってしまった。

 その後も続いた慶次の解説によれば、一口にあちらの世界の住人と言っても色々で、しかし大まかな傾向ではかつて生き物だったものの方が、意志疎通が容易でかつ見えやすいらしい。

 一方で自然の力を元にするもの達は大変に気まぐれで、その姿を捉えることは非常に難しく、関わりを持とうとしても拒否されることが多いのだとか。彼らの気位の高さは、長い年月を礎にとても強い力を持つに至ったことに由来するそうだ。


 生あるものとの関わりを忌憚するが故、精霊と呼ばれる彼らは少しだけその力を狡く使う。


 名前や存在を知られたとしても、多くの人間がそれを忘れるか気にしないように仕向けるのだ。逆に言えば、幸が興味を持ったことそれ自体が、大樹の君に気に入られたと見做して良いことだと慶次は言った。

 俄かには信じ難い話だ。

 だって、朝の食卓からここに来るまで何度も話題に上っていて、それでどうして忘れることができようか。話のネタになるかならないかなんて偶然じゃないの、と半信半疑にもなる。

「そんなことってあるんですか? 私、何も見えないのに」

「あるみたいだねえ。俺もちょっと驚いてるよ」

 えー。

 解説員が驚いてどうするんだろう。

「まあね、神様が俺達下々と同じような思考回路は持ってないだろうし、そんなもんだと思っとくと楽よ」

「そういうもんですかね? ていうかやっぱり神様なんですね、大樹の君って」

「本人がどう思ってるかは知らんけど、単純な力比べで見れば結構剛毅よー、うちのご神体は。普通の精霊と同列にすると、多分ブーイングが出るレベル」

 そうなのか。

 さすが、バイオレンス神主を二人も擁する神社のご神体ともなれば、それくらいであって然るべきなのか。

 そもそも相手をどこに据えて力の何をどう比べるのかは皆目見当もつかないが、問答無用で殴るというスキルを持つ慶次が「剛毅だ」と言うのだから、間違いなく強そうではある。

 千人力とか一騎当千とかそんな感じなのだろうか。

 マッチョなのか。

 結の証言から、脳内イメージは「細身の若い涼し気な目元の優しそうなお兄さん」だったが、実際は「身長三メートル越えの弁慶も真っ青な百戦錬磨の風貌を誇るもののふ」なのかもしれない。

 駄目だ。

 心ときめく憧れが木端微塵に吹っ飛ぶイメージ画像だ。自分で想像しておいて言うのもなんだが、どこに需要があるんだろう、この絵面。

「さっちゃんさっちゃん。言っても外見はちゃんと優しいお兄さんだから、そんなにびびらなくて大丈夫」

「な、なんで考えてること分かったんですか?」

「全部顔に書いてあった」

「うそ!?」

「ほんと。分かり易くていいねー」

 からからと慶次が笑う傍で、幸はもう少し心を読まれないよう精進しようと心に誓うのだった。


*     *     *     *


 沈黙とは無縁の車内を経て、次の目的である衣装合わせもそれはそれは賑やかに進行した。主に騒いでいたのは幸と慶次と結であって、主役であるはずの氷室自身が最も口数が少なかったというのは余談である。

 こちらは年配の女性が、やはり親しげな笑みで迎え入れてくれた。

 中へと案内されると、四角い部屋の三方をずらりとドレスが囲んでいた。残る一面は大きな鏡が等間隔に三つ取り付けられている。鏡の大きさに合わせるように、中ほどに二つの衝立があることから、多くて三組のカップルが同時に衣装合わせができるのだろう。

 部屋そのものはかなり広いがしかし、先ほどの教会と同じようにこちらも幸たち以外誰もいなかった。

「さあさ、どうぞこちらへ」

 人好きのする笑顔で真ん中の区画に通された後は、怒涛の着せ替えラッシュとなった。


 純然たる教会式である為に白一着しか選べないということで、幸自身はあまり迷わなくて良いかと思っていたのだが、老舗衣装屋の敏腕女将からすると最高の――否、至高の一着を必ず見つける使命に打ち震える、そんな状況だったらしい。


 自分の思い込みだけで似合う似合わないを決めてしまうのはいけないと、ありとあらゆる形のドレスが所狭しと並べられた。

 上質な生地は艶やかな光沢を放ち、縫い付けられているガラスや宝石も光を拡散する。目も眩むような豪華な光景だったが、その中の一着に幸の視線は吸い寄せられた。

 良くあるデコルテラインを開けて美しく見せる形ではない。

 薄く優美なレースが首元から手首までを覆う、クラシカルな形だ。表は飾りを抑えてごくシンプルな美しさだが、光の加減で大きなドレープを描くAラインに織の大きな花模様が浮かび上がる。そして、背中から裾にかけての見事なトレーンに幸の目は釘づけになった。

 あの教会の身廊と祭壇へ上がる階段に、これ以上映えるドレスはないだろうと直感した。

 着てみますかという勧めに幸はすぐに頷いた。



 鏡の前に立ち、ヴェールをかけられると、そこには別人が立っていた。

「さっちゃん、お姫さまみたい……」

 呆けたように呟くのは結だ。

 そんなことないよ、と言いたいのは山々だったが、首から下は結の言ったとおり本当にお姫様で咄嗟に謙遜もできなかった。

 ヴェールは氷室の見立てで、ドレスのトレーンにも負けない長さと優美さを誇るマリアヴェールだ。こちらも縁取りに大きく花の模様が使われていて、それは良くみれば清楚な白百合だった。

 隣に立つ氷室も着替えており、艶やかな光沢のあるグレーのフロックコートを纏っている。膝丈の上着だが、それでも膝下の長さが際立っているあたり、彼の人の足の長さを物語っている。まして長身であることから、幸のドレスのロングトレーンに良く映える。

 平凡すぎる自分の顔は横に置いて、まるで本の中から出てきたような光景だ。

「我が兄貴ながらムカつくくらい似合ってるぜ」

「それはどうも」

「少しくらい謙遜しろよなー」

 兄弟の会話は遠慮がない。

「すごいねえ、さっちゃんお姫さまだねえ」

 結がきらきらした目で見上げてくる。幸は膝を折って、目線の高さを合わせた。

「ありがとう。結ちゃんも大きくなったらなれるんだよ」

「ほんとう?」

「もちろん」

 重ねて肯定した幸を見て、結は大喜びだった。

 冗談抜きで、結は比べるべくもない最高の花嫁になることだろう。一点の曇りもない晴れやかな笑顔で、幸せそうに笑う結。その日に想いを馳せるだけで嬉しくなる。

「……まだ早い」

 低めの呟きが頭上から降ってきて、幸は振り返った。

 何故か氷室が若干複雑そうな顔をしている。そんな兄を茶化すように、慶次がちちち、と指をきざったらしく横に振った。

「なに兄貴、今から心配してんの? 自分だって今まさに他所様の娘さんを自分のものにしようとしてるってのに?」

「もう少し言葉を選べ」

「駄目よー、そんな心の狭いこと言ってちゃ。まあいけ好かない奴だったら、とりあえずオジサマである俺が門前払いしてやるから、そう怖い顔するなって」

 良く分かっていない結が首を傾げ、慶次が声を上げて笑って、氷室がため息交じりに眉間の皺を緩めた。

 なんと穏やかで幸せなのだろう。

 誰にともなく感謝の念が幸の胸から溢れ出た。






 そう。

 欠片も疑ってなどいなかった。

 式の当日まで、こうやって穏やかな日が続くのだと思っていた。


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