Today's new wordsがもたらした葛藤
その日二回目の追いかけっこは、一回目よりもきつかった。
思い立ったが吉日とばかり、慶次は結を肩車しながら走り出した。例によって、「緊急発進!」などと掛け声を張り上げながらだ。結は結で「はっしーん!」と口真似をしている。
傍から見れば大変に微笑ましい光景だ。
二人の背中が猛スピードで遠ざかってさえいかなければ、だが。
「ま、待ってくださあああい!」
無駄と分かっていながらもお作法として一度は叫び、それから幸も二人を追いかけた。
拝殿を囲む回廊を抜け、参道を走り、両脇の鎮守の森が切れるところまで出て左を見る。その瞬間、幸は軽く絶望した。
慶次は既に石段を登り切り、まさにその背中は畑の向こうへ消えていこうとしている。
幼児一人背負ってあの速さは反則だ。
幸も必至に足を動かして石段を駆け上がったが、氷室家の公私を分ける一位の生垣に辿り着くと、慶次は既に畑ゾーンも庭ゾーンも過ぎて、玄関の引き戸に手をかけていた。
やっぱりアメフトかラグビーをやっていたんじゃないだろうか。
背中を爽やかに撫でていく風を感じながら、幸は思った。
そして最初から最後まで追いつくことができなかった追いかけっこは、氷室家の居間にて、破壊力抜群の一言と共に終焉を迎えた。
「おとうさん、さっちゃんとけっこんして!」
どうか布団に入ったままでいてほしい。そんな幸の淡い希望は、既に起きていたらしい氷室の姿を目の当たりにして砕け散った。
氷室が絶句している。ややあって、ぎぎ、と音がしそうな程のぎこちない動作で、氷室が幸の方を向く。明らかに目が「どういうことだ?」と詰問しているのが分かる。
ああ。
違うんです外堀埋めてかかろうとかそういうアレではないんです。
笑って言えたらどんなに良かったか。弁明したい気持ちは山々ながら、凍った空気に幸は何も言えなかった。
嘆息するが何もかもが後の祭りだ。やはり本日二回目、居間の入口にて幸の膝はくずおれ、両手両足をがっくりと畳につけることとなった。
* * * *
とりあえず、ご飯が冷めてしまうから。
固まりかけた空気――というか長男を見て取ったのか、母である志乃の提案でまずは朝の食卓を囲むこととなった。とりあえずで流す辺り流石と言っていいのか図りかねるが、その鶴の一声のお陰で居間の空気が解凍されたのも事実である。
昨夜と同じ配置で食卓を囲むと、頂きますの合唱と共に穏やかな朝食が始まった。
並んでいるのはやはり和食だ。
湯気を立てる白米と味噌汁、焼き魚は鯵のようだ。おそらく昨日、慶次と結が釣ってきたというものの一部だろう。横には小鉢で小さな冷奴と、切り干し大根が据えられている。広い座卓の中ほどには、ご自由にどうぞ方式で漬物と納豆が置かれていた。
さながらちょっと良い旅館の朝ご飯のようだ。
醤油取ってと慶次が言い、兄の氷室がそれに応える。おひつから志乃が結の小さな茶碗にご飯をよそい、結はお行儀よくそれを待っていた。
先の爆弾発言などまるで無かったかのような平和な光景だ。
と思った矢先、いきなり父の真が先の話題をほじくりかえしてきた。
「稜。お前、再婚すること結に言っていなかったのか?」
ごきゅ。
思い切り緑茶を飲み下した幸の喉は、それはそれは盛大な音を立てた。
「親父、その話は今は」
「今しないでいつするんだ」
「……事情がある話だ。簡単にはいそうですかと言って済む問題じゃない。そもそも、結がどうしてそんなことを言い出したのかも知らずに頷く奴がいるか」
「真面目だねえ、俺の長男坊は」
肩を竦めて、真は味噌汁に口を付けた。
一旦は舌鋒を収めた父親を横目で見つつ、氷室は向かいに座る結に視線を投げる。成り行きを大人しく見守っていた結は、向けられた視線の意味を正しく理解したらしく、口を開いた。
「結、さっちゃんと一緒がいい……」
但し、先ほどの元気はない。
お願いは今のところ聞き入れられていないことを分かっているのだろう。俯きがちになる顔をどうにか持ち上げて、上目遣いで窺う姿勢だ。
幸なら確実に二つ返事で言う事を聞いてしまいそうな可愛さだ。
しかし氷室は陥落されることなく、静かに結の言葉を待っている。多少ショックを受けたのか、それ以上を続けない結の代わりに、慶次が後を引き取った。
最初、結は幸と結婚する気でいたこと。
同じ性別でそれはできないと幸から言われ、次に慶次が候補に挙がったこと。
しかし結婚は本来、互いに好意を持っていなければ成立し得ないが故、慶次は結に「お父さんにお願いせねば駄目である」と諭したこと。
結は真正面からそれを信じ、結果、今に至るということ。
一通りの説明が終わったところで、「色々と言いたいことはあるが」と前置きしつつ氷室が首を傾げた。
「結と幸が結婚って、どこからそんな発想になったんだ」
「あーそれな」
ぽん、と慶次が膝を打った。
「聞いて驚け。結は大樹の君が見えるらしい」
「大樹の君だと? ……本当か?」
氷室が怪訝な顔になった。
聞き慣れない単語に幸も引っかかりを覚えるが、氷室の反応は完全に知らないというよりは、その存在を知っていて尚半信半疑、といった風情だ。
大樹の君。
トゥディズニューワーズ。
幸には見えないあちらの世界の誰かのことなのであろうが、食卓の話題に当たり前のように上がるのがやっぱり凄い。呼ばれ方や文脈から察するに、どうも高貴というか高い位の何かだろうか。
考えている幸の横で、兄弟の会話は尚も続く。
「ここで嘘ついたところで俺には一銭の得にもなりゃしねえって。ちなみに多分、俺よりはっきり見えてるっぽいぜ?」
「慶次より?」
「おう。答え合わせしてみるか?」
言うが早いか、慶次は結の名を呼ばわった。
「なあ、結。さっき境内にいたのって、お兄さんだったんだろ?」
結が小さな頭をこくり、と縦に振った。
「どんなお兄さんだった?」
「みどり色の、きれいなお服。けいじおじさんが、お仕事で着てるのとおんなじやつ」
「あー、狩衣な。他には?」
「鳥さん一緒だった。ここにね、白い、きれいな鳥さんがいるの」
結が小さな手で、彼女の左肩を指し示した。雰囲気を見るに、そのお兄さん――大樹の君とやらの肩に鳥が留まっているのだろうか。
狩衣姿らしいので、鷹匠がイメージ画像として幸の頭に浮かんでくる。が、それが正しいかどうかは甚だ疑問ではある。
「にこにこしてたよ。あのね、いつも結と遊んでくれるの。結が帰る時、いつもまたおいでって」
「……どうやら結が見たのは確かに大樹の君らしいな」
と、それまで黙って箸を進めていた真が言った。
「正解だ」
穏やかに笑って、真が結を見遣る。
その優しい笑顔のまま、真が続けた。
「すごいぞ、結。大樹の君がはっきり見えるのは、今の氷室では結とおじいちゃんだけだ」
「……すごい? 結が、すごいの?」
「ああ。大樹の君はな、稜――結のお父さんは見えないし、慶次おじさんもぼんやりとしか見えないんだ。結みたいに、白鷹まで見えて、声も聞こえてっていうのは本当にすごいことだぞ」
「おじいちゃんも見える?」
「ああ。けど周りのお友達には言っちゃ駄目だぞ。大樹の君は神様だからね。おじいちゃんと結、二人の約束だ」
「……うん!」
言葉少なな結だったが、それでも幼い顔は喜びに明るく輝いていた。
そんな光景を見て、幸の胸が温かくなった。
こんな風に頷いてくれる人が傍にいてくれることは、幸せなことなのだ。それが今まで結に与えられていなかったのは悲しいことではあるが、今後はきっと大丈夫なのだろう。
穏やかな氷室家の人たちが、ただ眩しく目に映る。
ちなみに真の言葉から、大樹の君は予想通り神聖なものだった。
どんな風に氷室家との関わり合いがあるのか、後で聞いてみようと幸は心の中で決めた。見えないながらも、否、見えないが故に猶のこと、興味がそそられる話なのである。
「まあそういうわけで、めでたく結にも氷室の力が備わっている、と」
慶次が漬物をぱりぱりと食べながら、氷室に視線を向けた。
「……らしいな」
先ほどは怪訝さを露わにした氷室だったが、今はあっさりと慶次の言葉に頷いた。
このあたりの飲み込みの良さは、やはりそういう血筋の賜物だろうか。
「で、結がさっちゃんと結婚したかった理由はそこ。俺達の力はつまり、氷室の家であるからこそだ。氷室の人間になれば、同じように見えるんじゃないかって期待したと」
「氷室の人間、とは言っても……」
僅かに困惑した顔で、氷室が言葉を詰まらせた。
期待の眼差しで見つめる結に、しかし氷室は「大事なことだから、時間をかけなければならない」と丁寧に説明をして、その場での明言を避けた。
断片の情報ながら、氷室も理解したのだろう。今この場で真実を話すには、まだ早すぎると。
この力は氷室の人間になれば備わるわけではなく、氷室一族の血を引いて生まれなければならない。この真実は、説明自体はさほど難しくはないだろう。他でもない結の母親が、見えない人間だったからだ。つまり結婚を経て氷室になったとしても、結の望む結果にはならないことは、丁寧に説明すれば、実は結が一番分かるはずなのである。
だがそれは、小さな心を傷つけることになる。
後で時間を取って、氷室と話すべきだ。
結と交わした昨夜の会話しかり、今朝の結婚騒動しかり。いずれも結が抱えてきた心の葛藤が事の発端だ。
そうと決めた幸はこの場では特に弁明も何もせず、ただゆっくり丁寧に朝食を味わうことに専念した。
* * * *
朝食が片付いてからすぐ席を外していた真が、狩衣に着替えて居間に戻ってきた。
聞けばまた古い伝手から依頼が入っているとのことで、出かけるのだと言う。何泊するのかは分からないが、大きな鞄が三つある。玄関まで運ぶのを氷室と慶次が手伝い、女性陣の志乃、幸、結は手ぶらで見送りに出た。
車のトランクに荷物を入れ、一家の大黒柱が車に乗り込む姿に、それぞれ「いってらっしゃい」「気を付けて」と重ねていく。
狩衣の神主さんが自ら運転とか、シュールだなあ。
そんなことを考えていた幸に、窓ガラスを開けた真が話しかけてきた。
何かあれば稜と慶次、それに檀と颯真も力になれるから、遠慮なく頼っていいと。そして、式までは会えないが心穏やかに過ごすよう幸に言い置いて、真は車を発進させた。
優しく穏やかな面差しと声、言葉だった。
だが社交辞令とはいえ、氷室自身のみならず他の弟妹まで頼っていいと言われたことに、幸は僅かに違和感を抱いていた。的確に何がどうとは表現できないが、どうしてそんなに気にかけてくれるのだろう、と。
裏門から出た車が完全に見えなくなるまで見送った後、幸はそっと横を見た。
存外に硬い表情をした氷室が隣に立っていたが、その理由は訊けず仕舞いとなった。
* * * *
「幸、ちょっと」
氷室に呼び止められて、幸は振り返った。
ここは氷室家の玄関だ。志乃も慶次も結も、家長の真を見送った後はそのまま居間へと戻った。幸も靴を脱いでまさに彼らの後を追おうとしていたところだったが、そこに待ったがかかった状態だ。
「少しいいか」
氷室は親指で廊下の右側を指す。居間とは反対、氷室の自室がある方向だ。
確認する態ではあるが、拒否するという選択肢は端からなさそうだ。そもそも断る理由もなく、幸は一つ頷いて氷室の背中を追った。
「まあ座れ」
目的地である自室に入るなり、氷室は幸にソファを勧めた。
言われるままに幸が腰を沈めると、一方で氷室は立ったまま、窓に背中を預けた。朝日が背中に降り注ぐ。黒髪が陽に透けて、艶やかに光を放つのが見えた。
「さっきの話だが」
「はい」
「お前の気持ちか?」
「……え、っと。え? さっきのって……」
「結が言っていた、結婚してほしいってやつだ」
単刀直入に言われて幸は焦った。
説明しなければと思ってはいたが、このタイミングとは想定していなかった。故に、心の準備がまだできていない。
結の事情説明はともかく、今まさに問われている事項に関しては答えられる。むしろ答えねばならない。誤解をそのままにしておくと氷室に更なる迷惑がかかってしまう。
「違うんです。色々事情があって、それはまた説明しますけど、あれは結ちゃんの勘違いっていうか」
氷室と目が合った。
「私は予定通りの偽装結婚ができれば大丈夫なので」
何がどう大丈夫なのか、言っている自分が一番良く分からない台詞だ。しかし今は言葉を斟酌している余裕がない。
「あの、だから本当に結婚してくださいとかそういうのじゃなくて」
そこまで言って、とうとう幸は氷室から目を逸らした。
あまりに真っ直ぐ見つめられて、居た堪れなかったのだ。怖さは微塵も感じなかったが、まるで射抜かれるようだった。
そんな目で見ないで下さい、と泣きたくなった。
その真剣さ、熱さに勘違いしそうになる。本心だったのかと問われ、うっかり「そうです」と肯定してしまいたくなる。その先に続く「では本当に結婚するか」と微笑まれる未来は、絶対に来ないのに。
だから言えるはずがない。
幸が口に出したところでそれは、氷室を困らせるだけだ。氷室はあくまでも厚意でその手を差し伸べてくれているだけであって、幸に対する気持ちは欠片もない。
「……だろうな」
低い呟きに、幸は顔を上げた。
「そんなところだろうとは思っていたが」
その先に続く言葉が何か、幸は訊けなかった。
不意に切られた言葉。
どうしてほっとした表情ではなく、傍目に分かるほど痛そうな顔をしているのですかと。
聞いてみたい。
だが怖い。
舞い上がった幸の完全な勘違いだったとしたら、二度と立ち直れないような気がする。盛大な勘違いの結果、式までをぎくしゃくして過ごすくらいなら、このまま表向き良好な距離感でいたい。
今ここで真正面から聞ける神経を持っていたなら、多分幸はもう少し違う人生を歩んでいただろう。
その勇気が出ないから、自分は凡庸なのだ。




