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舌破り  作者: 東 吉乃


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勘違いのスタートダッシュは突然に


 幸の目が覚めた時間は、いつも通り六時を少し過ぎたあたりだった。

 布団の中でもそもそと眠気覚ましをしていると、昨晩の蛙たちの合唱は鳴りを潜め、代わりに鳥たちのお喋りが明るく聞こえてくる。雨の音は聞こえないし、カーテンから差し込む光を見るに、今日は晴れているらしい。

 ぱたりと寝返りを打つと、隣の小さな布団はぽっかりと空いていて、既に抜け殻になっていた。

 その向こうには、幸の方を向いて眠っている氷室が見える。ぴくりとも動く素振りは見えず、規則正しく肌掛けが上下している。昨晩は弟の慶次と晩酌でもしたのかもしれない。もとより低血圧で早起きが苦手な人だ。これは今しばらく目を覚ましそうにない。

 結は起きて居間にでもいるのだろう。

 昨日、声を押し殺して沢山泣いたことが気にかかる。

 氷室家の生活時間は掴めていないが、もしも結が一人だったとしたらそれは寂しい。衣擦れの音に気を付けながら手早く着替えを済ませ、幸は居間に向かうことにした。



 廊下を歩いていると、居間に辿り着く少し手前から話し声が漏れ聞こえていた。

 そのことに僅か安心しながら幸が居間に辿り着くと、真と結が二人並んで塗り絵を楽しんでいるところだった。

「おはようございます」

 声を掛けると、二人が同時に顔を上げた。そしてそれぞれに似合う笑顔を向けてくれる。

 結は花開くようにぱっと嬉しそうに、真は穏やかに温かく。

「おはよう」

「おはよう!」

 二人の声は綺麗に重なった。

 結は既に洋服に着替えている。それに真も昨夜とは色の異なる着流し姿だ。どう見ても両者共に寝ぼけまなこではないことから、ひょっとすると一時間くらい前には起きていたのかもしれない。

 氷室とはどうも違うようだ。

 志乃の姿が見えないので、氷室の朝の弱さはもしや母方の遺伝だろうか。

「早いんですね。稜さんは朝が弱いみたいなのに」

「ああ、稜はなあ。誰に似たもんだか、母親も弟妹も、娘でさえこうなのになあ」

 面白そうに含み笑いをして、真が結の頭を撫でた。

「ということは、お母さんも慶次さんも、もう?」

「起きてるよ。志乃は台所、慶次は境内の掃除をしているかな」

「……すみません、そうと知ってたら目覚ましかけたんですが」

 冷や汗が滲んだような気がして、思わず幸は手で額を拭った。

「あの、私お台所のお手伝いしてきます」

 志乃はきっと朝食の準備をしているはずだ。昨夜は昨夜で、慶次が全てを整えてくれていたが故、片付け程度しか手伝えていない。それも食器を下げるところまでであって、洗ったり拭いたり仕舞ったりはとうとうさせてもらえなかった。

 これでは上げ膳据え膳すぎていたたまれない。

 母の恵美子がこの状態を見たら、なんてご迷惑をかけているのかと目を吊り上げそうだ。

 慌てて踵を返しかけた幸だったが、しかし真が「ちょっと待って」と引き留めてきた。立ち止まって幸が首を傾げると、真が穏やかに微笑んで言った。

「準備はそろそろ終わるだろうから、慶次を呼びに行ってくれるかな」

「あ、はい。ええと、どの辺りでしょう」

 境内を掃除しているらしいというのは先に流れで聞いたが、肝心の場所が幸には分からない。

 多分絶対、それなりに広い敷地を持っているはずなのだ、この氷室家は。街中の神社ならいざ知らず、母屋と境内の位置関係さえも良く分かっていない状態とあっては、無事に目的地にたどり着けるか甚だ自信がない。

 この年になってまで迷子は頂けない。

 大人になってからは随分と改善はされたものの、しかし今一信用しきれないのは他ならぬ自分なのである。幸は一瞬でかなり色々と思考を巡らせた。

 が、疑問というか懸念は直後に解決した。

「結。一緒に行っておいで」

「はあい」

 大変に素直な返事をして、結が握っていた色鉛筆を箱へと丁寧に片付けた。その様子を眺めながら、幸の脳裏には氷室から唐突に電話がかかってきたあの朝が思い出されていた。

 要請を受けて、できる限りをと、慌てたのも既に懐かしい記憶だ。

 人形からブロック、果ては絵本まであれやこれやと供出したが、どうも結は塗り絵を一番気に入ってくれたらしい。お古とはいえ大切に扱ってくれている思い出の色鉛筆を目にすると、知らず嬉しさが幸の胸にこみ上げた。

 それはともかくとして、幼いながらも勝手知ったる案内人の結と一緒ならば、お遣いの難易度は格段に下がった。

 胸を撫で下ろしつつ、それならばと幸は結と連れ立って母屋を出た。



「わー、いい天気だねえ」

 もうすぐ夏至を迎えるこの季節、日の出は既に越えて太陽は白さを増している。

 引き戸を引いて玄関から出ると、庭に紫陽花が零れんばかりに咲いていた。朝露に濡れて、それが朝の光を反射して輝いている。青々とした大小の瑞々しい葉を見ると、昨夜明かされた氷室の秘密――「緑の手」が思い出された。

 見るからに元気そうな彼らならば、沢山の力を分けてもらえそうだ。

 そんなことを考えながら、まだほとんど見慣れない景色を幸が堪能していると、結が「こっち」と幸の手を引いた。

 車回しのある裏門とは反対の方向で、庭を横切る形だ。庭は途中までは確かに庭だったが、ある地点から微妙に実利的な畑ゾーンに突入しつつ、明らかに一般家庭とは言い難い広さ範囲に及んでいた。

 にもかかわらず、右手に連なる母屋は未だに途切れない。

 相当広いお屋敷だ。この辺り一帯、むしろすぐそこに佇む山も含めて氷室家の土地だと言われてもおかしくはなさそうである。

 トマトやらキュウリやらパセリやらが葉を伸ばしているのを眺めつつ歩を進めると、石造りの階段に辿り着いた。丁度その階段の横は、目隠しの植木が横に連なっていて、氷室家の私生活という意味での居住区はどうやらここまでであるらしい。

 石段は下に向かって十段ほどだろうか。

 絶望するほど長くなくて良かった、と幸が密かに胸を撫で下ろしていると、案内役の結が軽い足取りでとんとんと石段を下りて行った。

 三段ほど下ってから結が振り返る。こっちだよ、とでも言われるかと思っていた幸の予想はしかし、別の方向に裏切られた。


 結が手を振った。

 明らかにバイバイの動きで。

 しかし当の結は、幸をまったく見ていない。

 

 思わず幸は結の視線を辿った。左を振り返ってみると、氷室家の公私を分ける生垣の後ろから、背の高い木が梢を覗かせている。

 若い楠だ。

 以前通された応接間から見えた、樹齢数百年はあろうかという楠ではない。まだ幹も幸の両手が回りそうなくらいの、若木である。

 何の変哲もない楠。幸の目には、朝の風に心地よく葉を揺らしているようにしか見えない。

 もう一度結に視線を戻すと、結が今度こそ幸を見ていた。表情は何とも言い難く硬い。困ったような、けれど助けを求めているような。昨晩の幸を信じたいような、今一つ信じられないような、そんな面持ちだ。

 離れたままだと話をするにも遠いので、幸はとりあえず石段を降りて結に並んだ。

「誰がいたの?」

 殊更に優しく聞こえるよう、幸は声音に気を遣った。

 昨夜分かった。結は彼女の目に映る世界を口に出して、嫌われることを恐れている。そんな彼女に、万が一にも詰問に聞こえないよう、責めるつもりは毛頭ないと分かってもらえるよう、幸は石段に座って目線の高さを合わせた。

「結ちゃんに手を振ってくれるなら、優しい人、かな?」

 昨日吐いた言葉は嘘ではない。

 どんな世界が見えていようと、幸が結を好きであることに変わりはない。それを伝える為に、敢えて幸は尋ねた。

 結は大きな目を零れんばかりに見開いた。そして、スカートの裾を小さな手でぎゅ、と握りしめる。言いたいことがあるけれど、迷っている時の仕草だ。


 時間がかかっても構わない。

 きっとこれを咎めるような人は、誰もいない。


 幸は石段に座り込み、結の頭を撫でた。

 そのままでしばらく待っていると、俯いたままで結がぽつりと言った。

「おとうさん」

「お父さん? って、稜さん?」

 思わず幸は首を捻った。

 氷室にはまだ知られざる特殊技能があるのだろうか。例えば植物を媒介にして、幽体離脱みたいな芸当ができるとか。

 発想がぶっ飛び過ぎている感は否めないが、いかんせん想像の斜め上をいく実態――戦う神主とか、緑の手とか――を明かされることが多々あるばかりに、つい想像が逞しくなってしまう。

 違う方向に幸が動揺していると、結がふるりと首を横に振った。

「おとうさんじゃなくて、おとうさんみたいな人」

「あそこにいるの?」

「……うん」

「昨日の夜と同じ人なのかな?」

「ううん、きのうは女の人。水の」

「水?」

「おねえさん。お池の」

「そっか。結ちゃんはその人たちとお話できるんだね。すごいね」

「さっちゃん、怒らないの?」

「怒らないよ。結ちゃんは何も悪いことしてないでしょ?」

 真っ直ぐに目を見て言い切ると、結は大きな瞳を二度三度と瞬いた。

 不意に幸の胸が苦しくなった。

 氷室の血を継ぎながらその一族からほぼ隔絶されて生きるということは、こういう結果に繋がるのかと。せめて父である氷室が一緒に暮らしていれば、その片鱗を見過ごさずに正しくケアしてやれたのだろう。怯える必要はない、しかし誰彼構わず公言してはならない、と。

 だが彼女にその機会はなかった。

 月に数度しか会えないのなら、そんな話をするよりもっと他に話したいことが沢山あっただろう。こればかりは誰にも責められないことだ。

 だがこれから先は違う。親子の時間は沢山あるだろうし、その中で彼らの生きる世界がどういうものなのか、ゆっくりと理解していけるのだろう、きっと。

「大丈夫。もう誰も怒らないよ」

「……ほんとう?」

「うん、本当。だって結ちゃんのお父さんも、慶次叔父さんも、結ちゃんと同じだもの」

 不思議そうに結が首を傾げた。何が同じなのだろうと、純粋に疑問に思っている風だ。

 これから氷室と結は一緒に暮らしていくのだ。ここで幸がカミングアウトしたところで、何ら問題はないだろう。そう結論付けて、幸は口を開いた。

「お父さんたちも結ちゃんと同じで、色んなものが見えてるんだって。おじいちゃんとおばあちゃんもだよ」

「おんなじ? なんで?」

「そういうお家なんだって」

「さっちゃんは?」

「うーん……見えたらいいなって思うけど、ごめんね、私は見えないみたいなの」

「なんで?」

 これは難しい「なんで?」だ。血の為せる業なのだろうとは思うが、それ以上のことは幸には分からない。

「うーん……氷室のお家の人じゃないから、かな」

 よって、回答は非常に曖昧なものとなった。今度、もう少し深く氷室に訊いてみよう。心にメモを残していると、結が幸の服の裾を握ってきた。

 ん? と覗き込んでみる。すると、結が頬を膨らませていた。

「なんでさっちゃん、氷室じゃないの? そんなの、いや」

 え!?

 口には出さなかったが、幸はびっくり仰天した。まさか「嫌だ」と言われるとは、これはどう返したものだろうか。しかし悩む幸をよそに、結は更に言い募った。

「結、さっちゃんと一緒がいい。氷室だったら見えるようになる? ねえさっちゃん、結とけっこんして」

 ええ!?

 畳みかけられて、やはり幸は声が出ない。こんなに可愛い子から「結婚して」とせがまれて、ぐらつかない人間がこの世にいるのか。多分いない、だってこんなに可愛いんだもの。可愛いは正義、いかなる世代時代であったとしても。

 ……違う、問題はそこじゃない。

 どこから間違いを正せば良いのか、間違いだらけながら純粋な幼児の認識に重ねてびっくりするばかりだが、それにしても最優先で訂正しなければならない箇所がある。

「あのね、結ちゃん。結婚は女の子同士だとできないの。男の人と女の人じゃないと。だからごめんね、私は結ちゃんとは結婚できな」

「じゃあけいじおじさんならいいの?」

 ちょっ、えええ!?

 立て板に水とはこのことか。矢継ぎ早の質問に、幸は激しく動揺させられた。

「や、慶次さんは」

「だって男の人だよ? 結、お願いしてくる!」

 名案だ! と叫ばんばかりに顔を輝かせた結は、持ち前の運動神経を如何なく発揮し、石段をあっという間に駆け下りて行く。


 何がどうしてこうなった。


 とりあえず結婚は男女がするものという認識だけは持たせられたようだが、それ以外は何一つまともに誤解を解けなかったような気がする。予想外の展開に対し、さして頭の回転が速くない自分は、あまりにも無力すぎた。

 茫然と小さな背中を見送りかけた幸だったが、そんな場合ではない。このままでは追加であらぬ誤解が生まれてしまう。そうなる前にどうにか止めるべく、慌てて幸も石段を駆け下りた。


*     *     *     *


 結は仔馬か仔鹿のように速かった。

 初めての神社で、境内の地理に幸が不慣れであることを差し引いても、速かった。

 石段を下りきったところは参道の横手らしく、少し歩くと整然と整えられた石の道が左右に広がった。結が走り去った右手を見遣ると、長い石の道の両脇には杉の木がすらりと立ち並んでいる。鎮守の森、というやつだ。

 奥には鳥居があり、その向こうに全容は見えないが拝殿らしき社がある。

 ここから鳥居まで結構な距離があるように見えるが、結はもう鳥居をくぐろうとしている。出遅れたとはいえ、こんなに離されるものだろうか。訝しむ幸の後ろから、強めの、しかし涼やかな風がざあと流れていった。まるで、結の背中を後押しするかのようだった。

 鳥居をくぐり、開け放たれた古い木の大戸を抜けると、正面に立派な拝殿が静かに横たわっていた。

 氷室が謙遜していたこともあって、街中に良くあるこじんまりとした神社を想像していたが、それは全くの間違いだった。地方であれば間違いなく主格を誇るであろう威容だ。おそらく拝殿の中には三十人は入ることができるだろう。拝殿前の広場も綺麗な石畳で、観光バスの三台や四台は軽く駐車できそうだ。とはいいつつも拝殿を含むこの広場の周囲は大きく塀と回廊で囲まれているので、車が入るようなこともあるまいが。

 石畳が続く広場の中、藍色の作務衣を着た慶次が、拝殿の程近くで竹ぼうきを動かしているのが見えた。

 同時に、彼に駆け寄る結も目に入る。

 一瞬緩めかけた足を再び叱咤し、幸は凸凹コンビに駆け寄った。どうか間に合え。祈るような気持ちはしかし、次の瞬間に木端微塵に叩き割られることとなった。

「けいじおじさん、さっちゃんとけっこんして!」

 時既に遅し。

 いや、遅かったのは時というより幸の足なのだが、それにしても放たれてしまった無邪気発言に完全に幸の膝は崩れ落ちた。完全に間に合わなかった。

 ああ。

 全力疾走して上がりきった息も相まって、幸は本当に石畳に手と膝をついてがっくりとうなだれた。

「なんだって? さっちゃんと結婚?」

 目を丸くしつつ、竹ぼうきを置いた慶次が結を抱き上げた。

「うん!」

「それはまた、……急にどうした?」

「結、さっちゃんに氷室の人になってほしいの。でもさっちゃんは結とはけっこんできないんだよって」

「あー、それはうん、そうだな。結は女の子だし、さっちゃんも女の子だからなあ。女の子同士は結婚できないな」

「うん。でも男の子だったらけっこんできるんでしょ?」

「ははあなるほど、それで俺か」

「うん!」

 姪の言いたいことを難なく読み取った慶次は、あっはっはと大笑いした。それを肯定と受け取ったのか、結は期待の眼差しで慶次を見上げている。

 両者の会話に口を挟めなかった幸は、頬を引き攣らせるばかりだ。

 そんな幸をちらりと横目で見つつ、慶次は結に問いかける。

「うーん、そうだなあ。確かに叔父さんは男だからさっちゃんと結婚はできるけど、結はどうしてさっちゃんに氷室になってほしいんだ?」

 んー? と窺うように、慶次が首を傾げて結を見る。

 抱きかかえられた腕の中で、結が「あのね、」と上目遣いになった。

「さっちゃん、見えないんだって。氷室じゃないからって」

「見えない?」

「うん。えっと、……」

 結がきょろきょろと辺りを見回して、やがて拝殿の端に幼い指を向けた。

「あのお兄さん、とか」

 同じ方向に視線を投げていた慶次が、驚きを隠さずに結に向き直った。

「……結? あの人が見えるのか?」

「見えるよ。けいじおじさんも、見えるんでしょ?」

 今度は結がきょとんとする番だった。

 多分結は、先ほど幸から聞いた「氷室の家は皆同じで、結と同じ景色が見えている」ということをすんなり信じてしまったのだ。同じであるということが、きっと、殊の外嬉しくて。それは昨日、声を押し殺して泣くほど辛かったことの裏返しでもあるのだろう。

 だが慶次の驚いている様子を見るに、やはり結が見えているということは知らなかったようだ。

 見えている事実そのものは氷室家において日常茶飯事であって、驚くに値しない。しかしこれまでそんな素振りも見せなかった姪が突然見えると言い出して、その背景に驚いているのだろう。

「だって、さっちゃん言ってたよ」

「叔父さんが見えるって?」

「うん。おとうさんも、おじいちゃんもおばあちゃんもみんな一緒って」

 でもね、と結が少し悲しそうな声になる。

「さっちゃんは氷室じゃないから見えないんだって。けっこんしたら氷室になるよね? 結と一緒になるよね?」

「それで結婚か。なるほどなるほど、そういうことだったか」

 至極真面目な顔で慶次がうんうんと頷いた。

 そんな二人をよそに、幸は先ほど結が指さした拝殿の端に目を凝らしてみるのだが、二人の言うお兄さんはおろか霞さえも見当たらないことに、がっくりと肩を落としていた。

 ほんの少しでもそういう能力があれば、現状のままで結の話し相手にもなれただろうに。

 完全に常人仕様の両目を残念に思いつつ幸が視線を戻すと、それは爽やかな笑顔の慶次がそこにいた。


 何故だろう。

 素敵な笑顔だが、そこはかとなく嫌な予感がする。


 たどたどしい結の言葉ながら、慶次は「全て把握した」と言いたげな風情だ。そんな彼は抱き上げていた結をそっと下ろし、彼女の目の前にしゃがみ込んだ。

「うん。慶次叔父さんは、結の言いたいことがよぉーく分かった」

「ほんと!? けっこんしてくれる!?」

 目をキラキラと輝かせて、結が慶次の太い腕に飛びついた。

 しかし、慶次はそこで神妙な顔を作ってみせる。芝居がかった顔つきに、何を言うつもりなのだろうこの人はと幸が訝った時、それは始まった。

「いいか結。結婚っていうのはな、お互いがものすごく好きじゃなきゃしちゃいけないんだぞ」

「……? そうなの?」

「慶次叔父さんはさっちゃんのことが好きだけどな、叔父さん以上にさっちゃんのことが好きなのは、結のお父さんだ」

 おおおおい! 

 幸の突っ込みはしかし、声どころか吐く息にさえならなかった。それをいいことに、更なる追い討ちがかかる。

「それに、さっちゃんが好きなのも叔父さんじゃなくて、結のお父さんだ」

 ちょっと待ってええ!?

 幸の突っ込みはしかし、やはり空気が漏れる音にもならなかった。むしろ息は止まっている。

「分かるか、結。だからさっちゃんとの結婚は、結のお父さんにお願いしなきゃ駄目だ」

 きりっと真面目な顔をしながら、弟御は凄いことを自分の姪に焚き付けている。

 色々と訂正したい。したいのだが、あまりの展開に為す術がないというか、どんな言葉でこの勝手に試合が進行するリングにタオルを投げ込めばよいのかというか、色々ともう訳が分からない。

 結を元気づけるつもりが、完全に想定外の流れになった。

 これを事故と言わずして何と言おうか。

 さながら陸上の世界選手権女子百メートルに出場するつもりでいたのが、気付けば世界四大陸男子フィギュアスケートの会場にいました、くらいのぶっ飛び感だ。様々な部分で間違い過ぎている。


 お願いだからちょっと待って。


 言いかけた幸の口は、次の瞬間に開いたまま塞がらなくなった。

「うん、分かった! 結、おとうさんにお願いしてみる!」

 分かってない、それは多分絶対に分かってない!

 しかし無邪気すぎる決意表明に全力で突っ込む訳もいかず、幸はただひたすらに絶句した。

「よぉーし、じゃあ今からお父さんにお願いしに行くか!」

「うん!」

「ちょっ、えええええ!?」

 斜め四十五度の展開となったが故、朝の境内に幸の絶叫が響き渡った。


 だから何がどうしてこうなった。

 元気よく駆けだした凸凹コンビを見て、幸はまたしても十拍遅れくらいで慌てて彼らを追うことになるのであった。

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