寄せ合う心・後
居間に入ると、これまた目を奪われるダイナミックな光景が幸の視界を埋め尽くした。
巨大な暴れ馬がいる。
乗りこなしているのは馬の三分の一もない、華奢な、年端もいかぬ幼女。
居間の敷居を跨いだら、そこはアメリカ合衆国テキサス州でした。そんなわけあるか、この純日本家屋で。そんなことになったら忍者屋敷もびっくりだ。ましてロデオボーイどころかロデオガール(幼女)なんて、おかしいおかしいどう考えてもおかしい。
「ひひーん!」
「あっ、さっちゃん!」
「おっ、来たか?」
馬がいきなり人間に戻った。
しかし顔はこちらを向いているものの、体勢は引き続き馬である。どこぞの神様にお祈りを捧げるように両手を伸ばして、床にひれ伏している。猫が昼寝から覚めた直後、伸びをしているようでもある。
結が滑り台でも滑るように、低くなった慶次の肩から飛び降りた。
前に目の当たりにしたハイパー高い高いの時も若干思ったが、今回の件で確信した。こんなに可愛らしい顔をしてお人形さん遊びが抜群に似合いそうながら、結は運動神経抜群だ。彼女の父と同じく、天は愛する子には何物も与え給うらしい。
本当に可愛い。
しかし今はそんなことを呑気に考えている場合ではない。幸は居間に一歩入ったところで慌てて正座をした。
「すみません、遅くなってしまって! 私が残念な質問をしちゃった所為なんですすいません!」
「残念な質問?」
肩を回しながら身体を起こした慶次が、不思議そうに幸と氷室を見比べた。
居間の隣にある続き間の和室には、立派な座卓とその上に並べられた数々の料理が湯気を立てている。家長の位置に座っている真は、墨黒色の着流し姿で、スーツ姿よりもしっとりと落ち着いた雰囲気が良い。そんな真も、読んでいたらしい夕刊から顔を上げ、慶次と同じように小首を傾げて幸を見ている。
と、そこに廊下から志乃がやってきた。
「まあ稜さん、こんなところで立ち止まらないで奥にお入りなさい。幸ちゃんも」
背中からの声に更に慌てて幸が振り返ると、大皿を持った志乃が早く早く、と嬉しそうに顔を綻ばせていた。
とりあえず、その細腕で刺身が十人前は盛れそうな立派な皿を持つ様に、幸は腰が抜けそうになった。氷室家はなんだか色々と見かけによらずダイナミックであるらしい。
「それで? ちゃんと責任取ったの兄貴?」
家族の団欒開始直後、幸は口に入れた蕗の煮物を噴きそうになった。
ふきだけにね!
なんて、そんなどうしようもない親父ギャグが脳内で即座に繰り出される程度には、激しく動揺させられたのである。弟御である慶次の言葉に。
たった一言でこれだけ破壊力があるなんて大したものだ。まずは流石だと言っておこうなんて言えるはずもなく、結果幸ができたのは、右隣に座り相も変わらず綺麗な作法で食事を摂る、「兄貴」と呼びかけられた氷室の横顔を凝視するだけだった。
当の本人はと言えば、座卓の中心に据えられた大皿の刺身に箸を伸ばしている。先ほど志乃が最後に運んできた、特大伊万里焼だ。銀色に光る鯵を二切れ、桜色の伊佐木を三切れ、典雅な箸捌きで小皿に取り分ける。
こちら完全に平常運航となります。
やはりどうしようもないアナウンスを脳内で響かせつつ、氷室が何をどう答えるのだろうと幸は固唾を飲んで見守った。
が。
「ああ」
まさかの二文字だった。
これ以上ないくらい簡潔な返しに、お見事ですとしか言いようがない。
一方で聞いているのかいないのか、志乃は結に鳥の照り焼きを取り分けてやっており、結は結でご機嫌だ。横に合わせて盛られた水菜のお浸しも美味しそうに食べている。小さい子にありがちな好き嫌いはないらしく、大変に躾が良い。
「ふーん。まあそうだと思ってたけど」
炊き立ての白米を頬張りながら、あっさりと慶次が言う。
分かってたなら聞かなくても良かったんじゃ! と叫びたくなるが、そこは氷室に倣って鯵の刺身をもぐもぐやりつつ合わせて嚥下する。
ちなみに伊万里焼に所狭しとひしめいている鯵と伊佐木の二点盛りは、今朝方慶次と結が釣ってきたものらしい。やはり仲良しの二人は「なー」「ねー」と顔を見合わせつつ楽しそうだ。
目の前の料理もほとんど全てが慶次の作だと聞く。そしてそのどれもが美味しい。多才すぎるこの人に思わず「弟子入りさせて下さい」と言いたくもなったところで、そんな慶次が次の質問を寄越してきた。
「ところでさっちゃんの残念な質問って何?」
「あ、えっと。稜さんの『緑の手』っていうのがどんなのか最初良く分からなくて、質問攻めにしちゃったんです。それで時間が経っちゃいまして」
「緑の手? 兄貴が?」
「え、違うんですか? でも」
「いや、違わないよ。……へえ、そう」
慶次が僅かに目を瞠って、ちらりと氷室に視線を投げた。
「ということは、氷室一族のことも聞いたのかな」
「はい。お母さんも檀さんも、『見える』人だって」
「俺や親父のことは?」
「聞きました。戦う神主さん、ですよね」
ぶほ、と盛大に噴き出す音が響いた。
出所に注目すると、家長席の真が左手に湯呑みを持ちつつ、右手で口元を押さえている。「まあ真さんったら」とのんびり驚きつつ、志乃がティッシュを二枚ほど抜き取り手渡している。
神主が茶を噴く所など、滅多やたらと見れるもんじゃない。
病室での挨拶の時に見せていた完璧な所作からすると、かなりレア度が高いと言えるのではなかろうか。そんな父親の微妙な姿を横目に、慶次がからりと笑った。
「多分絶対に兄貴の説明が悪かったんだと思うけど、うーんいいねえ、そのネーミングセンス」
そういう柔軟な発想が俺にも欲しいなどと付け加えて、慶次は肩を震わせた。
ひとしきり笑って、真の口元も綺麗に拭われた後、慶次が眉を八の字にして言った。
「変な家でごめんね。意味不明だろ?」
「いえ、変だなんて。どっちかと言うと、私の目には見えないので不思議だなあって気持ちと、すごいなあって気持ちが半分ずつです」
慶次が目を瞬いた。
結はこの年頃の子にしては行儀よく、零すこともなく小さな口にご飯を運んでいる。既に落ち着きを取り戻した真は何事もなかったかのように筑前煮に箸を進め、志乃はそれに合わせてご飯のお替わりを尋ねている。
魚が好物の氷室は黙々と刺身を楽しんでいる。
決して居心地の悪くない沈黙が続きを待っているような気がして、幸はもう少し深く説明することにした。
* * * *
稜さんから色んな話を聞きました。
私は見てのとおり取り柄らしい取り柄もないので、単純にすごいなあ、優しい力なんだなあって最初に聞いた時思ったんです。
捻りも何もない単純な感想ですみません。あんまり語彙力がなくて……
誰かに何かをしてあげられるって、簡単にはできないと思うんです。
その、何て言ったら良いか。そうできる能力を持っていることと、実際にそれを使うことって全然違うっていうか。ましてそれが自分ではない他人の為なら、尚のこと。
だって、見て見ぬふりをする方がずっと簡単でしょう。
何かを頼まれても断る人って沢山います。目の前で困ってる人がいても、知らんふりして通り過ぎる人も。でも、稜さんは違いました。何も返せない私をこんなに助けてくれるんです。
優しいっていうのは、こういうことなのかなって。
そういう稜さんを前にして、自分が見えないから嘘だとか、自分が同じことをできないから信じないとか、そんな風に思ったことは一度もありません。稜さんや慶次さんの見えている、聞こえている世界がどんな感じなのかなって興味は物凄く湧きます。逆に、どんなに頑張っても見えない自分がちょっと……いえ、かなり残念です。
さっきも稜さんには言ったんですけど、正しいか正しくないかって、そんなに大事なことでしょうか。
学校の試験なら正解不正解があって当然ですけど、友達になったり好きになったり尊敬したりすることを、関係ない誰かにとやかく言われる筋合いなんてないと思うんです。だって、自分がそうしたいと思っているだけだから、その関係ない誰かには迷惑も何もかけてない。
でも稜さんは、物凄く気を遣ってくれるんです。
きっと、私が周りから白い目で見られないようにって。多分それは、稜さんがそういう目で見られることがあったから、私にそんなことがないようにと配慮してくれてるんだと思います。
私、それがすごい悔しくて。
優しい稜さんに助けられてばかりなんですけど、稜さんがそこまで優しくなるのにどれだけ嫌な思いをしてきたんだろうって考えると、腹が立ってくるんです。生意気ですみません。笑っちゃいますよね、私にできることなんて全然ないくせに。
でも、
もし私が「お前よく迷子になるの何で? 俺は迷子にならないし理解できないから、迷子になるお前は嫌いだ」とか言われたとしたら、「何それそんなことで?」って思うし、「むしろ余計なお世話」って思うに決まってます。
あ、私、小さい頃よく迷子になってたんです。山と谷と海に、それなりに本格的な遭難に近い迷子だったんですけど、親の言いつけを聞かなかったわけでもないし、迷子になりたくて迷子になったわけじゃなかったんです。
多分、抜けてるからっていうのが理由の大半なんだとは思いますけど……
でもそれって、私にはどうしようもない生まれつきの性分で、それを責められてもどうしようもないんです。違うから理解できない、許容できないって言われたら、そこで話が終わっちゃう。
稜さんの力は凄すぎるので迷子と同列に並べると申し訳なさすぎますけど、でも本質は同じことでしょう?
努力が足りないことを責められるのは仕方ない。でも、努力でどうしようもないことを責めるのは、責める方がお門違いです。
しかも私みたいに迷子で迷惑かけるならまだしも、稜さんの場合は人の為になれる力です。誰かを助けてあげられる優しい力を意味不明だなんて、それ言う方が意味不明です。
それは稜さんだけじゃなくて、お父さんもお母さんも慶次さんも、氷室のお家の人は一緒だと思うんです。
だから私もそんな風に優しくなりたいなあ、って。
ほんの少しでいいから近付けたらいいのにっていつも思っていて、でも私には残念なことに特殊技能とか恵まれた容姿とか秀でたものが一つもないので、せめて誰かの為になれたら、なんて。
誰かの役には立てなくても、困っている人がいれば自分にできることをしてあげられたら、って。
この気持ちは、稜さんと出逢えていなければきっと、一生気付かないままだったような気がします。
すみません、何が言いたいのかさっぱりですよね。
* * * *
不意にそれまで見ていた景色が遠ざかり、幸の耳には遠く蛙たちの鳴き声がさざなみのように聞こえてきた。白かったはずの目の前は黒い。薄らぼんやりと目蓋を持ち上げると、部屋の中はまだ深夜の暗闇に沈んでいた。
「……何、時?」
無声音でそっと呟きつつ、枕元に置いておいた携帯を手探りで探す。すぐに携帯は指に触れた。光が響かないよう肌掛けの中に頭から潜り込み、時刻を確かめる為にサイドボタンを押すと、午前一時を僅か過ぎたばかりだった。
眠りについてから、まだ三時間ほどしか経っていない。
それでも随分とはっきり覚醒してしまったことに軽くため息をつき、幸は音を立てないよう携帯を枕元に戻した。
左隣に顔を向けると、手前の小さな布団に結が眠っている。
結は幸と同じタイミングで床に入ったが、やはり疲れているのだろう、小さな寝息が規則正しく聞こえており、朝まで一直線のように思われる。
さらにその奥には結より二回りほど大きく盛り上がった布団があると、暗闇に慣れてきた目でそれと分かった。氷室だ。寝息は聞こえないが、少しの間見つめていても身動ぎをしないということは、確かに寝入っているのだろう。布団に入ったのが五分前なのか一時間前なのかは分からないが。
氷室の私室で三人川の字。
家族でもないのに奇妙ではあるが、こうなったのは結がそれを望んで珍しく駄々をこねたからだ。
最終的に幸が言いたいことだけ言って終わった晩御飯の後、お風呂を頂き、居間で多少寛いだ時間を過ごした。
九時半を回ったところで結に限界がきて、志乃が寝かしつける為に手を引こうとした時だった。結が、幸と一緒に寝ると頑なに言ったのは。
客間に幸の床を取ろうとしていた志乃はそれを窘めた。寂しいのなら一緒に寝るか、と慶次が提案してみるも、結は「いや」の一言の下に首を横に振った。思いっきり傷付いた顔をしてみせる慶次を他所に、結の常にはない様子に、今度は父親である氷室が一緒に寝ることを約束した。その点は流石実の親と言うべきか拒否はされなかったものの、幸も一緒じゃなければ嫌だ、と結は重ねて言った。
これには大人三人――氷室と慶次と志乃が、困り果てたように顔を見合わせた。
全員、幸の事情を知っているが故に、一緒の部屋は気まずかろうと慮ってくれたのだ。そうは言っても小さな結にそんな大人の事情が分かるはずもない。偽装結婚を分かれと言っても、それは土台無理な話だ。そのあたりの複雑な事情に加え、幸としても、同じ部屋で氷室と寝るのは別にこれが初めてというわけでもない。
よって、幸は氷室の私室で寝ることに頷いた。
幸が「いいよ」と同意した時、結の顔は嬉しそうに輝いた。
川の字に布団を敷くのは十分とかからなかった。氷室はもう少し起きていると言ったので、幸と結はそのまま布団の上でその背を見送った。付き合わせてすまん、と氷室は詫びてきたが、正直に言うと幸もどっと疲れが出ていたので早めに休めるのは有難かった。
氷室のお陰で既に首の傷は治ったものの、それでも今日一日目白押しだった驚いたことや雨に打たれたこと、挨拶で緊張したことが重なって身体は重かった。
実際問題、結より先に眠りに落ちたかもしれない。
灯りを消してからも少しだけ結と会話はしていた。話そのものは他愛なくて、結の好きな食べ物やら今日の釣りが楽しかったことやら、とりとめもないことばかりだった。
なのに会話の最後が記憶にない。
お休みなさいを言ったかどうかさえ怪しいので、ひょっとすると結をがっかりさせたかもしれないなどと反省しきりだ。
色々と考え事をしている内に、完全に夜目が利くようになった。幸は音を立てないようにそっと布団を抜け出した。
廊下に出ると、庭に面した大きなガラス戸の向こうにそれは見事な満月が輝いていた。
注がれる豊かな白い光に、庭の木々が慎ましやかに照らされている。まさに月光浴と言った風情だ。この母屋が神社と同じ敷地内にあると知ったせいか、真夜中であるというのに不気味さよりむしろ神聖さが漂っている。
少し歩くと庭に降りられるように、大きな敷石があった。
靴は手元に持ってきていないので外は出歩けないが、ガラス戸を横に引き、幸はそのまま濡れ縁に腰を落ち着けた。
涼しい夜風が首筋を撫でていく。空を見上げると昼間とは打って変わって、満点の星空が広がっていた。周囲に街灯もないせいか、本当に今にも降ってきそうに星々が煌めいている。
綺麗だ。
こんなに世界は美しいのかと、不意に涙さえ出そうになる。
目に焼き付けるように息すら忘れて魅入っていると、背中で小さく木の軋む音が聞こえた。振り返ってみると、結が不安気に幸を見ていた。
「結ちゃん?」
ぐっすり眠っていたはずだったが、起き上がる気配で起こしてしまっただろうか。
失敗したなあ、と内心苦く思いつつ小さな声で呼びかけると、結は恐る恐るといった態で近寄ってきた。
「どうしたの。目、覚めちゃった?」
幸が座っているので、目線の高さはほぼ同じだ。下から覗き込むように窺うと、結が小さく頷いた。
「お手洗い、かな」
夜中にトイレに行きたくとも誰かに付いてきてもらわねば行けない、幼児にありがちな話かと思って尋ねてみるも、結は首を横に振った。
見ると、結は寝間着の裾をぎゅ、と握りしめている。
何となく頑なな雰囲気が、幸と一緒に寝ると譲らなかった時と同じように見えた。言いたいことがあるのかもしれない。そんな直感を抱えつつ、幸は手を伸ばした。
「眠れないなら、ちょっとだけここでお月様見よっか」
「……いいの?」
「今日だけだよ? 稜さんには……お父さんには内緒ね」
人差し指を唇に当ててそっと口元を緩めてみせる。すると結は心底ほっとしたような顔で、幸の隣に座り込んできた。
そして二人で真円の月を並んで見上げる。
どれだけ見ていても、変わらず綺麗だ。蛙たちの声も遠く響いてくる。時折庭に植えられた木々の葉を揺らす風は、丁度良い涼しさで優しく渡っていく。
「あ」
それまで一言も喋らなかった結が、庭の向こう、とある一点を見つめて声を漏らした。
つられて幸も視線を投げるが、物言わぬ庭園が静かに月光を浴びているばかりで、それ以外は何も真新しいもの、目を引くようなものはない。不思議に思って幸が横にいる結を見ると、結が戸惑った様子で幸を見上げてきた。
「さっちゃん……」
「ん?」
暫時を待ってみるも、結は口を二度三度、開けたり閉じたりを繰り返すばかりだった。
困ったように幸を見上げては俯き、庭に視線を投げてはまた幸を見る。所在なさげなその様子にふと思い当たる節があり、幸はそれを口に出してみることにした。
「見えるの?」
結が弾かれたように幸を見た。しかし何かに怯えるように、結はうんとも否とも反応を示さない。ただ幸の瞳を不安気に覗き込むばかりだ。
これはもしかして。
確信に近いものを抱きながら、尚頑なに首を縦に振ろうとしない結に、幸は語り掛けた。
「ねえ結ちゃん。あそこにいるの、怖い?」
信じられないとでも言いたげに、結が大きな目を零れんばかりに見開いた。
「……ううん」
「そっか」
「さっちゃんも、見える……?」
やはり予想した通り、結には常ならざるものが見えているらしい。氷室一族の血を引いているのだ、今更驚くようなことでもない。
自信なさげに、怯えたように小さくなっている結の髪を、幸は安心させるようにゆっくりと撫でた。
「結ちゃんには見えるんだね。ごめんね、私にはあそこに誰がいるのか、見えてないの」
「さっちゃん、見えないの?」
「うん。結ちゃんはすごいね」
「見えないの? さっちゃん、見えないのに、怒らないの?」
「怒る? どうして?」
尋ねると、不意に結が唇を引き結んだ。
俯きがちの横顔は、幼いながらも可愛らしさが目立つ。電気などに頼らずとも、豊かな月光が十二分にその表情を照らし出す。辛抱強く待っていると、長い睫毛のすぐ下に、涙が見る間に盛り上がっていった。
だって、と。
掠れた声はあまりにも切なすぎた。
「おかあさん、結のこと、きらいって」
え、と。
囁き声さえも出せず、幸はその場に固まった。
「うそつく子は、きらいよ、って」
噛みしめた唇、丸く子供らしい頬にぽろぽろと涙が零れた。
結の言葉はそれ以上続かなかった。声にならない言葉の代わりのように、涙だけが次から次へと頬を伝う。聞き分けの良い優しいこの子は、多分実の父である氷室にさえ、これを言えなかったのだ。
あまりにも聡く、他人の心の動きに敏感すぎた故に。
皆まで聞かずとも推し量れる。
結果として結を捨てたとはいえ、結自身は大好きでその世界の全てだったであろう母親に、結は拒絶された。幼くたどたどしい言葉は、断片的でありながら尚その事実を浮き彫りにする。
「結がうそついたから、おかあさん、いなくなっちゃった……」
その瞬間、幸は隣に小さく座っていた結を抱き上げ、自分の胸に真正面から抱いた。軽く、細く、折れそうな頼りない身体は、時折しゃくり上げて小さく震えた。
幸の左肩が温かく濡れていく。
声も上げずに泣く結を、幸はただ強く抱きしめてやることしかできなかった。
なんてことを言わせるのだろう、と。
かつて氷室の愛した人で、おそらく結が今でも大好きな人であっても、到底許せそうになかった。心が狭いと言われようと、お門違いだと罵られようと。
確かに見えない側にとっては確認のしようもないことで、それは嘘吐きと同義であるのかもしれない。
しかしそれが如何に正論であったとしても、そのまま相手にぶつけていいわけがない。
正論を言う事が間違っているとは思わない。だが相手が傷つくと分かっていながらそれを口にすることは、絶対に間違っていると思うのだ。
そこにどんな尤もらしい理由があったとしても、誰かを傷つけていい理由にはなり得ない。
「大丈夫だよ」
いつも氷室がそうしてくれるみたいに。
幸は小さな背中を腕で抱いて、柔らかな髪をそっと撫でた。
「私は結ちゃんのこと、大好きだよ。だから大丈夫、一人じゃないよ」
柔らかなその心にどうか届けばいい。
眠れないほど悩み、傷付いた小さな心。どうか少しでも痛くなくなればいい。眠れるまでこうして寄り添うから、どうか。
「結ちゃん、お友達になってくれたよね? 嬉しかったよ、とっても。あんなに優しい結ちゃんのこと、どうして嫌いになれると思う? 私は大好きだよ。大好き」
結婚したこともない、子供を産んだこともない。だからどんな言葉で、どんな風に接したら良いかなんて分からない。
それでも傍にいることを伝えたくて、幸は細く小さな身体を抱きしめた。
一生分の「大好き」と「大丈夫」をここで使い果たしてしまえ。
自棄にも似たような気持ちで、幸はその二つをひたすら呪文のように言い続けた。




