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舌破り  作者: 東 吉乃


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寄せ合う心・前


 幸は全身が包まれるような温かさを感じていた。

 触れているのは背中だけ。それなのに、春の日、陽だまりの中に佇んでいるようだ。逞しく広い胸に身体を預けているせいか、ただひたすらに安心する。

 はっきりしない思考でぼんやりと目を開けると、この部屋には緑が多いことに気が付いた。

 むしろ、家具らしい家具はあまりない。存在感があるのは今座っている二人掛け幅のソファとローテーブル、着替えの入っていると見受けられる箪笥に本棚が二つと、あとはシンプルな学習机のみだ。寝る時はおそらく布団なのだろう、氷室のマンションとは異なりベッドもここにはない。

 窓際には沢山の観葉植物が二段の棚に所狭しと並んでいる。

 よくよく見れば、部屋の隅には背の高い植物たちも自由に葉を伸ばしている。氷室が家を出てからは家族が水をやっているのだろうが、それにしても彼ら自身がこの部屋の主であるが如く瑞々しい。

 彼らにも名前があるのだろうか。

 太郎次郎は既に使われているから、一号二号とか。まさかそんな適当な。

 とりとめもなく考えている内に目蓋が重くなり、幸は抗えず目を閉じた。温かい。ずっとこの時が続けばいいのにと素直に思っていた。



「……幸」

 耳元の囁きは低く、幸の意識は導かれるようにゆっくりと浮上した。目を開けると先ほどと同じく濃淡様々な緑が視界に広がった。

 何をしていたんだっけ。

 緑色が優しいなあと感想を抱きながらも引き続き呆けていると、もう一度名前を呼ばれた。

「幸」

「……はい」

「起きてるか」

「えーと……あんまり自信がありません」

 とりあえず今は意識がある。しかしほんの数秒前のこととなると甚だ記憶が怪しい。

 夢を見ていなかったからといって、眠っていなかったという証拠にはならないのが痛いところだ。まさか氷室をマッサージチェア替わりにうたた寝をしていたのだとしたら、役得ながらも速攻で土下座案件な気がする。

 気が付けば、首元に当てられていたはずの氷室の右手は、幸の腰に回っていた。

 左手と合わせて、この状態は完全に「背中から抱っこ」になっている。それと認識するが早いか、幸の体温は俄かに上がった。

「あの、稜さん」

「うん?」

「もしかして私、寝てました?」

 この至近距離では恥ずかしすぎて、振り返る勇気はない。

 少しだけ間を開けてから、氷室の低い声がそっと囁かれた。

「多分な」

 まさかの展開がきた。

 多くの人間が羨むであろう状況を完全に覚えていないことが悔やまれるが、それ以上に気になることが色々とありすぎて幸の脳内は瞬時にお祭り騒ぎとなった。

「たたた多分ってそれどういう、え、もしかしてもう日付変わってるとかそんな感じですか、まさか寝落ち?」

 動揺しすぎて何を言いたいのか自分でも意味不明だ。

「すいません、どれくらい寝てたのか全然、」

 慌てて起き上がろうと身体を捩るが、しかし氷室の腕の拘束は解かれなかった。

 その事実に更に幸は動揺する。

「稜さん、う、腕を」

 どかす為に手を重ねて良いものか迷い、幸の手は宙を彷徨った。焦りつつ時間を確かめる為に部屋をあちこち見渡すが、時計らしきものは見当たらない。

 その時、するりと氷室の腕が解かれた。

 幸はソファからずり落ちる格好で氷室から離れつつ、背中を振り返った。大変に色気のない動きだったがそれはこの際目を瞑る。色々と残念な部分は既に見られているので、今更一つや二つ追加で見られたところでさしたるダメージもない。

 これを口に出せば「そういう思考が残念だと思うぞ」くらい言われそうだが、事実なのでこれまた致し方ない。

 氷室は腕を解いたままの形で座っている。床に座って見上げる形で窺うと、その口元が僅かに緩んだ。

「大丈夫そうだな」

「は? 何がですか?」

 氷室がとん、と長い指で彼自身の首元に触れた。

 その仕草に幸は一瞬考え込み、そして次に驚いた。同じように首元に触れてみる。包帯の感触は変わらないが、痛くない。右に左に捻ってみても痛くない。さっきまで、ちょっと重いものを持つ為に力を入れたり、少しでも横を向こうとするだけで激痛が走っていたというのに。

 凄い。

 思わず幸の口はぽかんと開いた。

「痛くない……」

「そうか。良かった」

「何これすごい。もしかして実は仙人だったりとかします?」

「……面白い発想だが、生憎普通の三十二歳だ」

「普通と呼ぶにはちょっと神憑りすぎてる気がするんですけども」

 と、そこまで言って幸は大変なことに気付いた。

「あの!」

 氷室の足の間ながらがばりと身を起こし、膝立ちになって氷室に詰め寄る。勢いに押されてか氷室は仰け反ろうとしたが、既に背中をソファの背もたれに沈めているので、結局僅かに顔を逸らすに留まった。

「すいません稜さん大丈夫ですか!? 私完全に忘れてて!」

「何がだ? というか、何をだ?」

 こんな時でも冷静な返しを寄越すあたり、さすが氷室だ。

 しかし幸にしてみればそんな呑気にしてる場合かと説教したい。

「今すぐに横になって休憩とか取った方が良くないですか?」

「いや、別に」

「倒れそうとか眩暈がするとか」

「それはない」

「じゃあだるかったり疲れてたりとかは?」

「全然。というか藪から棒にどうした」

「だって稜さん、この不思議な力を使ったら疲れるって言ってました……」

 だから氷室相談所では仕事が毎日あるわけではないのだと説明されて、話の辻褄が合う事に幸は感心しきりだった。教えてくれていたのにすっかり忘れて、厚意に甘えるだけ甘えてしまった自分がちょっと信じられない。

 自己嫌悪だ。

 大事な話だったはずなのに忘れてたなんて、人としてどうかレベルでうっかり過ぎる。

 氷室は何でもないような顔をしているが、きっと途方もない力が必要なのだろうと今なら分かる。相談所に来る相談者を、一時間かそこら相手にするだけでも、最低で二三日に一度。目に見える肉体ではなく、心や精神を僅か軽くする為でさえそれなのだから、縫わないまでもそれなりに大きく裂けてしまった物理的な傷口を治すのに、どれくらい神経や体力を使ったのだろう。



「ごめんなさい、私何も考えてなくて」

 言い募った言葉はしかし、唇にそっと当てられた人差し指に遮られた。

 触れるか触れないか。それなのに、氷室の指はふわりと温かさを感じた。

「謝らなくていい」

「駄目です」

 幸は首を横に二度振った。

「どうせ『俺が決めたことだから気にしなくていい』とか言うんでしょう? そんなの駄目です。なんでいつもそうなんですか。なんでそんなに優しいの」

 幸の目蓋、不意に映像が蘇る。


 今日。

 息を切らせて走って来て、幸を見て驚いたように目を瞠って、それからすぐに辛そうな顔をした氷室。

 何度言葉を詰まらせていただろうか。

 そして途切れがちなそれらに滲んだ気持ちの篤さは、生涯忘れ得ぬだろうと思えるほど。


 どうして自分はこれほどまで凡庸なのだろうと、ただ悔しかった。自分の不注意がこんなにこの人に迷惑をかける。どうか何かを返したいと切望するも、平凡すぎる自分が胸を張ってできると言えることは何一つ無かった。

 そんな自分に本当にがっかりしている。

 今この瞬間も。

 それなりに真面目に生きてきたと思ってはいる。だが、苦労を背負わずふわりと甘く緩い人生だったが故、こんな大切な時に何も差し出せるものを持っていないのではないか。そんな罪悪感が募っていく。

「稜さんから気を付けるよう言われてたのに、……」

 そこから先の言葉は喉が震えて言えなかった。

 唇をきつく噛みしめていると、氷室の大きな手が幸の頬を包んだ。

「お前は素直だな。素直すぎる。少し……いや、かなり心配になるくらいに」

「なに言って、」

「だが中々できることじゃない。何を食えばそうなれるんだろうな?」

 氷室の両手に力が篭もる。

 必然、幸の頬は潰されて明らかに残念な顔になる。鏡を見なくても分かる、ひょっとこのような口になっているはずだ。可愛さとか色気とかとは正反対の方向に突っ走っている。

「ちょっと稜さん、ふざけないで下さい」

 人が真剣に謝っているのに。

 抗議の意を込めて口を尖らせると、氷室が肩を竦めて頬を緩めた。

「お前が悪いわけじゃない。気を付けていてもどうしようもない時はある。気を付けようがない場合もある。だからお前が悪いわけじゃない。それに、……」

「それに?」

「心配してくれるのはありがたいが、本当に俺はまったく疲れていない」

「でも」

「お前に嘘を吐いてどうする。そもそもこっちに戻ったのはその為だ」

 幸は目を瞬いた。

「その為って……疲れるか疲れないかは場所次第ってこと、ですか?」

「そうだな。半分正解」

「ええー、半分だけ正解? 降参です」

 どういうことか教えてください。

 早々に白旗を上げると、氷室は苦笑しながら頬を弄んでいた手を緩めた。そして、右手の掌を幸の目の前に差し出した。

 さもこれが答えだと言わんばかりのその仕草に、幸は思わずまじまじと目を凝らす。しかし指が長いことと全体の形が端正であること以外、特に新しい発見は無かった。

 忠犬のようにお手でもしてみれば、何か変わるだろうか。

 しょうもない仮定に一瞬突き動かされそうになったが、多分また残念な顔をされそうな未来が見えたので、そこは気合で堪えることにした。

 辛抱強く待っていると、氷室が言った。

「この手は氷室一族の中で『緑の手』と呼ばれている」

 色が緑というわけではないぞ、と即座に釘を刺され、幸は眉間に皺を寄せる羽目になった。頭の中が完全に読まれていることに微妙な気持ちになりつつ、しかし的確に過ぎる指摘でもあった為ぐうの音も出ないという状況だ。

 そんな幸の心境を知ってか知らずか、氷室は穏やかに続けた。

「誰かを癒すには通常、自分の体力を使う。作用するのが精神であっても肉体であってもそれは変わらなくて、当然疲れる。それはお前が心配した通りで間違いない」

「……ですよね。私の記憶違いなんかじゃないですよね」

「ああ」

「じゃあどうして?」

「俺が植物の力を借りることができるから、だ」

 それが故、この手は「緑の手」と呼ばれているのだ、そう氷室は言った。

「お袋も癒しの力は持っているが、あくまでもお袋自身の体力気力の範囲内でしか癒せない。お袋だけに限った話じゃなくて、氷室の一族に生まれる癒し手は普通、そういうものだ。俺は違う。植物が傍に在れば、自分の体力を使わずに彼らの力を癒しに変換できる。何故かは分からない。生まれ持った力だから、そういうものだとしか」

「そういうもの、なんですか……?」

 あっさりと氷室は頷いた。

「珍しいのは確かだが、何世代かに一人は持って生まれる力らしい。一族の家系図を見ると、どうやら同じ力だったらしい先祖がいる」

「へええぇぇぇぇ……なんかすいませんこんな相槌しか打てなくて。心の底からすごいなあって思ってるんですけど、語彙がなさすぎて良い言葉が浮かんでこなくて」

 つい前のめりになってしまうのは致し方ない。日常からかけ離れた世界の話すぎて、ちょっと想像が及んでいないだけだ。

「えーとつまり、草とか樹とか花とかがあれば、そういうのから力を借りられるので、稜さんは疲れないという理解で合ってますか?」

「概ねそれで間違いない。あくまでも傍にどれだけの植物があるかが肝だが、平たく言ってガス欠を起こさない車みたいなものだ」

「無尽蔵ってわけじゃないんですか?」

「説明がややこしいんだが……一株の花や一本の樹が持つ生命力というのは限られていて、借りられる上限は決まっている。人間の体力が使えば尽きるのと同じで、必要以上に借りれば彼らは枯れてしまう。だが例えば山に行けば植物はその辺に自生しているわけだから、渡り歩いていけば理論上はほぼ無尽蔵に近いと言っていいだろうな」

 但し、そこまでするような緊急事態には当然なったことはないらしい。

 およそ七十年前であれば、そんなやり方も日の目を見たかもしれないが、と。今はそれほど役に立てるような力でもない、と。

 困ったように笑う氷室が、何故かとても寂しそうに見えた。


*     *     *     *


「……軽蔑したか?」

 声は穏やかであるのに、言葉そのものは刃物のように鋭利だった。

 咄嗟に反応ができず、幸は目を見開くばかりだ。

「根拠も分からず、実態が解明されているわけでもない。まして何がどうと証明のしようもない話だ。精神が病んでいると言われても反論の余地はない」

 氷室はいつになく饒舌だ。

 そしていつも以上に辛辣でもある。

 何故そんなにも、まるで戒めの楔を打ち込むように言い捨てるのだろう。まるで幸が「そうだ」と同意すればいい、ともすればそんな風に聞こえる。

 氷室らしくない。

 本当の氷室はもっと公正な人だ。証明ができなくとも、目の前にある「傷が癒えた」事実は事実そのものとしてあって、その点は否定できないくらい言って然るべきだ。それなのに、今の呟きは幸でも分かるくらい偏っている。

「色々思うところはあるだろう。式が終わったら、バイトを辞めてもいい。引き留めはしない」

 不意に告げられた終わりに、幸の息が止まった。

「それ、クビってことですか」

「いや。あくまでも辞めたければの話だ」

「辞めません。絶対に」

 余計な口を挟む余裕もなく、幸はすっぱりと言い切った。

 氷室が驚いた顔を向けてくる。だがそれを見て、それはこちらの顔だと言ってやりたくなる。何を急に勝手なことを、と軽い怒りさえ覚えているというのに。


 自分にできることはそう多くないけれど。

 でも、目の前にいる相手の言葉を信じることだけは間違いなくできる。


 願わくばその心に寄り添いたい。

 ずっと一緒にいますから。だからどうか、そんなに寂しそうな顔で笑わないで下さい、と叫びたくなる。



「正しいか正しくないかって、そんなに大事なことですか?」

 学校の成績が中の中だった自分が言えた義理ではないかもしれない。

 けれど、それだけで割り切れないことがあっても良いと思うのだ。良い悪いや白黒はっきりつけられなくても、それでいい。信じたいと思う誰かがいることは、それだけで幸せではないのだろうか。

「私にとって、稜さんはどんな風でも稜さんです。『緑の手』があってもなくても、どんな仕事をしていても」

「……そうか?」

「そうです」

「……そうか」

「そうです」

 二度言い切ったところで、氷室の大きな手が幸の頭を撫でた。

「本当にお前は分かりやすく素直だな」

「どうせ単純です」

「そうだな」

「即同意されるのも微妙です」

「そうか?」

「そうです」

「そうか。すまん」

 そこでようやく、氷室が笑ってくれた。



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