量りかねる距離
一体いつの間に着替えたのだろう。
扉を開けた幸は力一杯首を捻った。
そんなに時間は経っていないはず。首を捻りながらも、幸は少し前までの自分の行動を脳内にて高速で巻き戻す。
両親と一度合流してから上がると氷室が言ったので、幸は外科の待合室で氷室と別れた。
走って急ごうとしても振動と速くなる血流で首筋が疼くだけなので、極力静かに歩を進めながら幸は病室に戻った。恵美子が飛び出す前に看護師から話を聞いていたのか、雄三は眉を顰めながらも取り乱しはしなかった。
簡単に状況の説明をしている内、恵美子が処方された薬を手に帰ってきた。
そこからとりあえず汚れてしまったワンピースの肩口を隠す為、カットソーを羽織ったタイミングで病室にノックが響いたのだ。誰が来たのかは確かめずとも分かる。よって、最も入口手前に立っていた幸が必然的に応対に出たのが冒頭だ。
時間にしておそらく十五分ほどか。
にもかかわらず氷室の服装が変わっているので、驚きを隠せずにいるのがまさに今この瞬間である。
先ほど会った時、氷室は黒味に近いチャコールグレーのスーツに濃紺の落ち着いたネクタイだった。いつも纏っている静かで知的な空気をそのまま具現化したような装いで、良く似合っていた。しかし今は同じように深い色ながら、ブラウンの落ち着いたスーツにえんじ色の渋いネクタイを締めている。先ほどの鋭利な雰囲気から一転、第一印象がとても柔らかい。
衣装一つでこれほど変わるものかと驚きを禁じ得ない。
「稜さん、わざわざ着替えたんですか?」
言いながらも、招き入れる為に扉を大きく開く。
氷室の後ろには柔らかく佇む訪問着の志乃が控えていた。目が合って微笑まれたので、幸も嬉しくなって「こんにちは」と挨拶しつつ会釈を返す。その奥を見やると、もう一人氷室が立っていた。
思わず二度見した。
「……?」
ちょっと良く分からない。
疲れているのかと思って目を擦ってみるが、氷室は二人のままだ。
「え? 稜さん? が、二人?」
なんだ、ドッペルゲンガーか。一瞬本気で幸は信じかけた。氷室には未だ隠された能力があって、それが実はこの分身の術とか。
あり得ない話ではないと思う。正直なところ、誰かを癒せるなんてウルトラCの極みのような芸当ができるのなら、分身できてもおかしくはないと結構本気で考えている。そういった才能に恵まれていない幸からすれば、どちらもどっこいのレベルで超人の分類だ。
目の前にいるブラウン氷室はそれと分かるほど、優しい目元で微笑んでいる。
大変に眩しい。
一方、グレー氷室は呆れ顔だ。どちらかと言えばこっちの方が見慣れているが、それにしてもこの状況はどうしたことか。見慣れているかどうかという観点でいけば多分本体は後ろのグレーなのだろうと推察されるが、分身すると愛想が良くなったりするものなのだろうか。
分からない。
氷室家の生きる常ならざる世界について、皆目見当がつかない。
意味の分からなさに幸が狼狽えて絶句していると、ブラウン氷室が目礼を寄越してきた。そして言われたのは、
「初めまして、稜の父の真です。いつも稜がお世話になってます」
「!?」
驚愕の事実発覚。驚きすぎて声も出なかった。
更に重ねてかかった追い討ちは、
「お前、いくら何でも婚約者を間違えるか?」
似ているとはいえどう見ても年が違うだろう、と憮然とした声は本体であるところのグレー氷室だ。
いやいやいや、待って!?
声にならない叫びで口を金魚のようにぱくぱくさせながら、たった今明かされた衝撃の事実を咀嚼すべく、幸は父と息子を見比べた。
身長、ほぼ同じ。どちらも180センチ越えの長躯。
顔の造形、ほぼ同じ。つぶさに見れば、確かに父氷室の方が年齢を感じさせる目元――微笑むと目尻に皺ができるが、ぱっと見だと兄弟かと錯覚する。というか、弟の慶次よりも余程似ている。
体格、ほぼ同じ。二人ともスーツを着ているが、その下に浮かび上がる身体のラインは鍛え上げられていることが見て取れる。
遺伝子の奇跡とはこのことか。確か以前にも同じようなことを考えたような気がしつつ、有意な差を何とか探すとすれば、息子より父の表情が柔らかいということだろうか。そのあたりは偏に神主という職業の賜物か。
いずれにせよ、
似てるにしても程があんだろ。
言葉が雑になったのは大目にみてもらいたい。それぐらい似てた。同じ年齢の写真を並べたら、確実に双子と言えそうなくらいに似ている。氷室と結に感じた奇跡とはまた違った新鮮さでもある。
「あの、えっと、ごめんなさい」
間違えようと思って間違えたわけではない。
氷室親子三人を部屋の中へ招き入れつつ、取り急ぎ謝罪を述べる。完全にしどろもどろだ。幸が一人で脳内修羅場に陥っているとは露知らず、父氷室は折り目正しく入室し、志乃と氷室も後に続いた。
横を通る際に父氷室が柔和な笑みを向けて、悪戯っぽく笑う。
「私は全く構わないよ。若く見られて嬉しいことです」
そして幸の反応は待たずに、父氷室は如才なく奥に控えていた雄三と恵美子に挨拶を始めた。氷室はというと茶目っ気を見せる父親を処置なしとでも言いたげに、目を眇めている。
外見は瓜二つでも中身は随分と違うようだ。
それが年の功なのか生来の気質かは何とも判断しづらいところだが、とにかく不思議な光景である。
迎え入れた恵美子が「まあー」と頬に手を当てて驚いている。それはそうだろう。これだけ整った顔で似ている親子など、芸能人でもそうそういない。
その様子を見ながら、もう一つ存在する驚愕の事実を思い出して幸の思考は完全に停止した。
確か肉体言語が得意って言ってた、ような、気がする。
ええーっと。
この柔和そうなお父さんが、常ならざるものをしばき倒すんですか。
確かに外見は氷室そっくりだけども、中身はすごく親しみやすそうな感じなのに、蓋を開けてみれば完全無欠の肉体派。意味の分からなさがK点越えで見事な着地を決めにかかってくる。
かといってこのタイミングで詳細を訊くわけにもいかない。
大変に微妙な気持ちを抱えつつ、どうにか素知らぬフリで幸は両親の後ろに控えるべく、そそくさと後ろに回った。
* * * *
親同志の挨拶は、拍子抜けするほどあっさりと終わった。千本ノックかと勘違いしそうになるくらい際どい質問攻めにあった先週とは違い、会話の主導権は常に氷室の父――真が握っていて、終始和やかに進行した。
話題のほとんどは日頃知る機会もない神社と神職のことが大半を占めていて、雄三が大層興味を引かれている様子だった。
母親同士はどちらもおっとり気質のせいか、「小さかったこの子が」「感慨深いわ」などと早くもハンカチを握り締めつつ、互いの娘と息子の思い出話を互いに「分かる分かる」と頷き合っていた。
なんと平和な光景か。
氷室も幸もほとんど口を挟む余地はなく、任せるがままで万事滞りなく円満に運んだ。式に関する全ての段取りも決まった。週末までにまずは当人同士で式服の当たりをつけておき、両親と一緒の衣装合わせを今週末、式は平日ではあるが末日と相成った。
それがおよそ五時間前のこと。
今の幸が何をしているかというと、氷室の実家に泊まりに来たところだ。時刻は夜の七時を過ぎたところで、初夏の空は宵闇に沈みつつ美しい藍と橙に染まっている。
色づく空の下、相も変わらず立派な日本家屋の玄関引き戸を開けるなり、奥から走り寄ってくる軽い足音と、それを追う重量感溢れる足音の二重奏が幸を出迎えた。氷室の両親が先に靴を脱いで上がり框に上がったところで、足音の主たちが顔を覗かせた。
「おかえりなさい!」
仔馬が跳ねるように氷室に飛びついたのは結だった。
丁度靴を脱ごうと腰を屈めていた氷室は不意の衝撃に若干慌てつつ、鍛えられた体幹と恵まれた反射神経ですぐに体勢を立て直し、難なく結を受け止めた。
「ただいま、結。お利口さんにしてたか?」
大きな手が結の頭を優しく撫でる。
「当ったり前よー。私を誰だと思ってるのって、結、言ってやれ。お、さっちゃんいらっしゃーい」
「こっこんばんは、お邪魔します!」
「堅苦しい挨拶はナシナシ、ほら上がって上がって」
人好きのする笑顔で慶次が早く早くと手招きをしてくれる。もう一つ頭を下げてから、幸は慌てて靴を脱ぎにかかった。
その横で、真が「まるでお前の家みたいだなあ」と笑って言えば、「どうせその内に俺のものだろ」と慶次が堂々と胸を張っている。特に気を悪くした様子も見せず「あっはっは、それもそうだ」だの「一本取られたなあ」だの続ける真は、着替えてくると言って笑いながら奥に行ってしまった。
病室で走った「すわ分身か」と勘違いした衝撃とはまた異なる感慨深さが幸の胸に迫る。
真と慶次も紛うことなく親子だ。大概似ている、主に中身の方が。
「慶次さん、準備はどう?」
「全部終わってるよ。座れば食べ始められる。なー結、結がお皿並べたんだもんなー?」
巨躯の慶次がしゃがみ込み、氷室にまとわりついていた結に目線の高さを合わせる。いかんせん慶次が大きすぎる故、しゃがんでも尚結は若干見上げる格好になっているが、気にしてなさそうな二人は満足げに「なー」「ねー」と声を合わせて笑っている。
体格差甚だしいこの凸凹コンビは、叔父と姪でありながら随分と仲良しらしい。
「相変わらず早いわねえ、ありがとう。私も着替えてくるわ。稜さんたちもお部屋に荷物置いて着替えてらっしゃい」
スリッパを履いた志乃が、パタパタと軽い足音をさせて奥に姿を消した。
それを追うように慶次が結を抱き上げて肩車をしてみせる。振り返って氷室に「居間で待ってるわ」と言い残し、慶次は「行くぞー、発進!」「ぶううーん!!」などと完全に人型ロボットの態で結を乗せたまま玄関から走り去った。
遊び方が明らかに性別を間違えているように思えるが、当の遊ばれる結本人がきゃあきゃあと楽しそうに歓声を上げているので、まあ良いのだろう。
それまで騒がしかった玄関が、急に静かになった。
「幸」
「あ、はい。すいません、慶次さんがあまりにもダイナミックでつい」
人型ロボットの物真似に目を奪われていた幸は、廊下の向こうに投げていた視線を慌てて戻した。
見れば、氷室が今ほど慶次が走り去った左手の廊下とは反対側、右手に向かって身体を向けている。志乃が言った通り、氷室の私室にまずは荷物を置くのだろう。
幸の意識が向けられたことを確認してから氷室は一つ頷いて、古いながらも磨き上げられた飴色の床を歩き始めた。
何故こんな流れになっているのかというと、これには深い訳があった。
表向きは氷室の実家の神社に参拝をする為で、これは雄三も恵美子も諸手を挙げて賛成だった。ついでに実家近くにある式場の下見も兼ねた当人同士の衣装合わせまで、一連のイベントを効率よく進める為でもある。逐一迎えだなんだで行き来するより、一緒にいた方が早いという判断だ。
最初に参拝の話を出したのは氷室の父の真だった。
だから幸は疑問にも思っていなかった。
本当の目的は、滞りなく挨拶が終わって見送りに出た時に氷室が言った。首を治してくれるのだ、と。その為には少しでも長く傍にいた方が良いのだそうで、断る理由がなかった幸は素直に頷いたのだった。
* * * *
玄関から一分程歩いたところで、氷室の自室についた。母屋そのものは古い建築らしいが適宜リフォームを入れているらしく、廊下と部屋の区切りは襖ではなく壁と扉だった。
先に氷室が部屋に入り、電気を点ける。
こちらも想像していたような行燈などではなく、ごく普通の天井についているタイプの白色灯だ。床は最近の家と同じようなフローリングで、入口のほど近くを除いて全体に絨毯が敷かれている。
招き入れられるままに一歩足を踏み入れた幸は、入口のフローリング部分に突っ立ったまま呆けていた。
「広……」
良くある四畳半や少し大き目の八畳間どころの騒ぎではない。ちょっとした家のリビングくらいありそうなその部屋は、多分二十畳くらいは悠に越えているように思われる。下手なワンルームの賃貸より絶対に広い。これと比べたら、自分の部屋などウサギ小屋だ。
そもそも玄関から一分も廊下を歩いた時点で驚いているというのに。
度胆を抜かれている幸を他所に、部屋の中ほどに荷物を置いた氷室が振り返った。
「そんなところで突っ立ってないで、入っていいぞ」
「……お邪魔します」
神妙に扉を閉めて、恐る恐る幸は絨毯を踏んだ。
「適当に座ってくれ。すまん、着替えていいか」
幸を気遣いつつ、氷室が首元のネクタイを緩めていた。
無駄に様になっている。
思わず凝視した幸だったが、視線を感じたらしい氷室からの「……着替え、見たいのか?」という怪訝な声に我に返り、電光石火で回れ右をする羽目になった。
「まあ別に減るもんじゃなし、構わんが」
衣擦れの音をさせながら、氷室がくつくつと笑っている。
「っ、減るとか減らないとかっ……そういう問題じゃなくてですね!」
「じゃあどういう問題だ?」
ばさり。
シャツを放り投げたのだろうか。直後、カチャカチャと明らかにベルトを緩める音が響いた。
「建前上はそうしてもおかしくはない関係だ」
「関係……!? か、関係って……!」
「これから夫婦になるって間柄で、恥ずかしいも何もないだろう」
「ふ……!?」
「ましてここは俺の部屋だ。両者合意の上でここにいる以上、そうなっても咎める奴なんぞいない。結婚するとはそういうことだ」
もはや衣擦れの音も耳に入らなかった。
心臓が耳元で鳴っているかのように煩い。顔も首も熱い。振り返りたくても振り返れない。喉が渇いて引き攣れて、微かな声も今は出せそうにない。
背中の声は感じたことのない熱を持っている。
知らない男性のようだ。
最初はからかうように笑っていた。けれど最後の台詞は真面目というか、真剣味を帯びている。どこまで本気で言ってるんですか、とはとても訊けない雰囲気だ。訊くまでもなく、氷室の声は真剣なのだから。
不意に、氷室が「男」であることに意識を持っていかれる。娘がいても、不思議な力を持っていても、それ以前にこの人は大人の男性なのだ。
互いの合意。
偽装結婚をするということはつまり、そういうコトも含まれての合意だったのか。
そんなつもりはなかった。より厳密に言えば、想定することさえおこがましい話であって、考慮の余地にさえ入っていなかったというのが正しい。
身体を合わせる関係。
前提としてそれがあるべきだったのだとしたら、応えなければならない。まさかここまで来て辞めますなんて言えるはずもないくらいに、沢山のこと、時間も濃やかさも手間もかけてもらっている。
事務的な対価であったとしてもいい。もしも求められているのであれば、拒みたくない。何一つ取り柄のない自分が、それでもこの人に出来ることがあるのならば。
でも、怖い。
キスまでは知っている。けれどその先を自分は知らない。
氷室のことは信じている。けれど想像の及ばないその先に待つ世界が怖い。
どうしたらいいか分からない。どんな言葉を返せば良いのかも。
恥ずかしさと怖さで、幸の視界が滲んだ。
* * * *
「……冗談だ」
やがてかけられた声は、いつもの穏やかさを取り戻していた。
「おいで」
しかし幸は振り向くことができなかった。
身体が岩のように硬直している。呼吸ができているかどうか怪しいくらいに胸が苦しい。何をどうすることもできずにそのまま固まっていると、柔らかな気配が背中に近づいてきた。
「悪かった」
言葉と同時、長く逞しい腕が肩に回される。
背中に感じる鼓動が優しい。それを認識して、幸の身体から力が抜けた。躊躇いながらも身体ごと振り返ろうと身動ぎをすると、いとも容易く腕は解かれた。
目が合う。
氷室はいつもと何ら変わり映えのしない顔で幸を見ていた。先ほど背中で感じた激情がまるで無かったかのようだ。もう一度「おいで」と言って、氷室は幸の手を引いた。
連れていかれたのは壁際に置かれているソファだった。
そのまま氷室は慣れた動作で腰を沈め、次いで当たり前のように幸を手招きした。指し示す場所は開かれた長い脚の間だ。氷室の意図が分からずまたしても幸が突っ立ったまま硬直していると、氷室が苦笑しながら言った。
「何もしない。首の傷を治すだけだ」
「でも皆が待って」
「いい。こちらが優先に決まっている」
氷室が幸の手首を掴んで、そっと、しかし抗えない力を篭めて引いた。
ソファの端、氷室の長い脚の間に幸は座らされる。
「力、抜けよ」
言うが早いか、氷室は幸の肩を抱いたまま背もたれに身体を預けた。幸にしてみれば、氷室にリクライニングしている状態である。
身長差があるせいで、頭が硬く引き締まった胸に預けられている。更に体格差もある為に、広い身幅にすっぽりと収まってしまっている形だ。
氷室の左手が腰を抱く。
右手はそっと包帯が巻かれている首を掴む。
少し間違えば首を絞められているのかと勘違いされそうな際どい体勢だが、氷室の右手は包帯に触れるか触れないかの位置で固定されている。
距離があったのに竦んだ先ほどとは打って変わって、今はこれほどに密着していて尚、怖くなかった。
「……」
ふう、と深く吐き出された氷室の息が、右耳をくすぐった。
同時に首元が穏やかに温かくなった。




