忍び寄る害意・3
軽くですが、流血表現があります。苦手な方はご留意下さい。
待っている側とはこれほど気もそぞろになるものなのか。
あまりにも視線をやりすぎて、見飽きた時計の文字盤を読みつつ幸はそわそわと座り直した。今、幸は雄三の病室で親子三人、待ち人を待っている。約束の時間にはまだ一時間以上あるというのに、この落ち着かなさは事だ。
予定が未定だった氷室の父は、週明け月曜日にあっけなく帰ってきたらしい。
曰く、「長男の結婚という一大事にのんびりしてはいられない」ということで、全力で片を付けてきたのだという。その話を氷室伝手に聞いた幸がとりあえず懸念したのは、全力で片を付けたイコール問答無用でぶっ飛ばしたのか、という点だった。
会う前から想像が逞しくなりすぎていけない。
これで慶次よりも更に輪をかけてごつくて肉体派だったとしたら、幸の中にあった穏やかな神主像が木端微塵に砕け散ること間違いなしだ。
何はともあれ、戦う神主こと氷室の父が無事に捉まったので、今日のこの日を前倒しで迎えることができた。
週末を待たず今日は水曜日。互いの両親の挨拶が無事に終わったら、今週末には式服を選びに行く手筈となっている。この通過点をあえて急ぐことで、六月の最終週――来週週末に、ささやかではあるが式ができるという寸法だ。
奇しくもそれがジューンブライドとなる。
たとえ本当の誓いではなくとも、一つの憧れが叶えられることにただ感謝が溢れる。
雄三と恵美子には、氷室の実家が神社であると伝えている。尚、戦う神主の部分は省略した。幸自身は氷室の力を体感しているからまだ素直に信じられたが、そういう前段階もなしに両親が理解できるとは到底思えなかったからだ。
先方の家業を知った両親は、幸の読み通り驚いた。ただしそれはあくまでも詳細を知らない世界に対する興味が大部分であって、それが故に事前に根掘り葉掘り訊かれずに済んだ。
「稜君はご実家を継がないのかい」
今日も体調が良いらしい雄三が、ベッドの上から尋ねてきた。体調が良いとは言っても、上半身側のマットレスを背もたれのように起こし、それに背を預ける格好だ。
ベッド脇にある応接のソファに腰かけて本を読んでいた幸は、顔を上げて雄三に向き直った。
「みたいだよ。弟さん……えっと、二人いる方の、上の弟さんが継ぐんだって」
「四人兄弟って言ってたものねえ」
のんびりと恵美子が目を細めた。
「だが稜君は長男だろう」
「それはそうだけど、その辺はあんまり堅くないって言ってた。稜さんのお父さんも、次男なんだって」
「由緒正しい家柄だろうに、随分と寛容というか自由なお家なんだなあ」
感心したように頷く雄三に、まさか言えない。
寛容とかそれ以前の問題で「戦えるかどうか」が後継者の基準らしいよ、なんて。そんなことを口にしようものなら、物議を醸しすぎて大変に宜しくない。
「うん。だから長男の嫁がどうとか、そういう昔ながらの考え方とかはあんまりないみたい」
とりあえず雄三の言わんとするところは理解できるので、幸は「心配するようなことは何もない」と言って笑ってみせた。
体調が良いとはいいつつ、実際のところ雄三の体力回復は期待したほど芳しくない。危篤に陥り奇跡の生還を果たしてからというもの、支えなしで身体を起こすのが難しい状態だ。
慶事に高揚する気持ちが、沈みかけの身体をどうにか引き上げている。
医者は雄三の状態をそう評した。
焦燥感は日一日と募る。だから恵美子も病院に泊まり込むことが多くなったし、幸の方も急げるだけ急ごうとしている。
治ってほしい気持ちは当然残っている。けれどきっともう、という現実的な気持ちも一筋織り交ざる。そんな自分が薄情なのかどうかはもう分からない。今はただ、絶対に悔いは残したくない、後悔だけはしたくないその一心だ。
「それにしても緊張して落ち着かない。私、ちょっと散歩してくるね」
「いいけど、あんまり遅くならないのよ」
少し早目に到着されるかもしれないから、と釘を差す恵美子の声を背中で聞きつつ、幸は「大丈夫だよ」とだけ返して病室を出た。
病棟の玄関に出ると、外は梅雨空らしく曇っていた。
今にも降り出しそうな暗い雲が居座っているが、気晴らしに少し歩く程度は持ちそうだ。仮に降り出したとしても、走ればすぐに建物の中に避難できる。そう判断して、幸は傘を持たずに裏庭に向かって歩き出した。
この総合病院はかなり大きく、病棟が三棟連なっている。
正面玄関側には駐車場が広く取られているが、裏手は植え込みと散歩道、それにところどころで休憩ができるベンチが置かれた小さな公園のようになっている。
晴れた日には外で日光浴をしたり散歩をする入院患者も多いが、今日は人影もまばらだった。
ゆっくりと曲がりくねった散歩道を歩く。道は歩きやすさを重視して、土ではなくウッドチップを固めたような素材が敷かれている。柔らかな感触が足に優しい。脇に目をやれば、気の早い紫陽花がちらほらと色づき始めていた。
綺麗だ。
もう少し日を経たらそれは見事に咲き誇るのだろう、そう思った時だった。
グルル……
「え?」
今、何か唸り声のようなものが聞こえた。紫陽花に落としていた視線を上げ、幸は周囲を見回す。しかし周囲に犬を連れた人間はいない。当たり前だ、ここは普通の公園ではなくて病院の裏庭なのだから。
前後左右を見渡してみても、むしろ話し声が聞こえそうなほど近くにいる者はいない。
十メートルは離れているだろうベンチに、足にギブスを嵌めた高校生らしき青年が一人。
病棟側に視線を転じれば、老夫婦が空模様を気にしながら戻っていく。
幸はしゃがみ込んで紫陽花の下を覗き込んでみたが、猫の子一匹いなかった。
もしかして、遠く雷が鳴ったのだろうか。紫陽花に見惚れていたせいで、空の稲光に気が付かなかったのかもしれない。気晴らしに出てきたものの何故か戻った方が良いような気がして、幸は回れ右をした。
そのまま少しだけ足早に、優雅な曲線を描く小道を戻る。
先ほど老夫婦が去って行った病棟沿いの真っ直ぐな道まで戻った時、不意に先ほど目に入った高校生が気になった。雨が降りそうだから戻った方が良い、そう伝えた方が良いような気がした。ただでさえ退屈であろう入院、雨に打たれて風邪を引くのも塩梅が悪いだろう。
幸は振り返った。
高校生はまだ座って本を読んでいた。
声を掛けに行こうと足を踏み出そうとした時、ふわり、柔らかい何かが幸の胸から腹にかけて触れたような気がした。まるでそれは、幸を押し返すように。
「危ない!」
「えっ、な、に……!?」
遠い叫び声と幸自身の困惑はほぼ同時だった。
幸は後ろに尻もちをつくように倒れこむ。多分一秒もかかっていないその瞬間、景色がスローモーションになった。
倒れていく身体に合わせて、目線の高さが徐々に低くなる。その向こう、ベンチに座っていた高校生がこちらを振り返りつつある。彼に被さるように手前側、茶色い何かが落ちてくる。
全てがコマ送りだ。
高校生が完全にこちらを振り向く。彼は驚いたように目を見張り、「あっ」とでも言うように口を開いた。声は聞こえなかった。
同時に、茶色い塊が幸の目の前を縦に通り過ぎる。
最初は空を背景に、次は植えられた木の梢に重なり、やがて高校生の顔を隠すように。
その何かは地面に叩きつけられ爆ぜるように砕けた。早すぎて焦点が合わない。だが幸の目は、爆ぜた中心点から大きな破片が自分に向かって飛んできた動きを捉えていた。
ガシャン!
キャイン!
見えていた光景と音にはズレがあった。
けたたましく乱雑で不吉な音と、獣の悲鳴らしきものが同時に響いた時、幸は地面にへたり込んでいた。
「大丈夫ですか!?」
気が付けば、松葉杖を横に放り投げて膝立ちになった高校生が、血相を変えて幸の手を取っていた。それなりに距離は離れていたはずだが、一体いつの間に駆け寄ってきたのだろうか。ギブスを嵌めた足で全力疾走できるとは到底思えない。幸の傍に寄るまで相応の時間がかかったはずだろうが、その間の記憶はまったくなかった。
何を考えて何を見ていたのか、何一つ覚えていない。
僅かに視線をずらすと、すぐ傍で茶色の植木鉢が砕けて無残な姿になっている。
何が起こったのか咄嗟には理解できない。茫然と幸が高校生を見ると、彼は「破片が」と泣きそうな声で言った。
「俺、人を呼んできます! これで押さえてて下さい!」
慌てふためく高校生は、彼が持っていたらしいスポーツタオルを幸の首筋にあてがったかと思うと、放り投げてあった松葉杖を引っ掴んで物凄い速さで病棟内に駆け込んでいった。
足の怪我をして松葉杖であるというのに、あの速さはちょっと真似できそうにない。
幸とはさして年も変わらなさそうだが、スポーツをやっているのだろうか。若いとは凄い。
そんなことをぼんやりと考えて、そういえばこのタオルは何の為にという疑問が湧き上がってくる。痛みはない。だが得体のしれない恐怖に恐る恐る手をずらすと、幸は息が止まりそうになった。
「なに、これ……」
薄青のタオルが、真っ赤に染まっていた。
右手で右の首筋にそっと触れる。温かさにぬるりと指が滑った。その手をずらして視界に映すことはとうとうできなかった。自分がどうなっているのか、現実を知るのが怖かった。
固まったまま動けない幸の頬に、雨の雫がぽつりと落ちてきた。
* * * *
「ん?」
声と共に、氷室は左頬に視線を感じた。
丁度赤信号で停車中で余裕がある。氷室が左に視線をやると、助手席に座る父の真が、怪訝な顔で氷室を凝視していた。
「……あら?」
ほぼ時を同じくして、後ろに座る志乃からも似たような声が上がった。
今は親子三人、婚約者とその両親への挨拶へ向かう為に、氷室の運転で移動中だ。元々氷室自身がさして喋る性質ではない為、車内は主に夫婦の会話で満たされていた。しかし何故か両親から意識を突然向けられて、氷室は僅かに困惑した。
真は氷室の顔を見つめて、その後僅かに視線を右後ろにずらした。怪訝そうだったその顔が、徐々に険しくなる。
「稜。あとどれくらいで着く?」
「ここからだと三十分はかかる」
「飛ばせ」
真からの突然の言葉に、氷室は思わず目を瞠った。
「は?」
と、その時信号が青に変わった。
アクセルを踏み込みつつ「急に何事か」と氷室が問うと、真が「ちょっとまずい」と応える。
「全然分からん。何がどう不味いんだ」
口で質しながら、氷室は素直に車を追い越し車線へと滑り込ませた。詳細はともかく、こういう場合は従っておいた方が良いということはこれまでの人生で嫌というほど味わってきている。
いかんせん氷室は常ならざる彼らが見えない。
彼らの声を聴くこともできない。
あちらの世界で何が起こっているのかを知りたければ、氷室の場合植物たちの力を借りねばならない。それも通訳をされているだけであって映像が見えるわけでもなく、おまけにタイムラグが生じる為、格段に精度は落ちる。
父親としての真は、どちらかと言えば放任主義で口煩くはない。
しかしそんな真がふと思い出したように口にする軽い言いつけは、守らなければ必ず痛い目に合ってきた。
例えば、外遊びから帰ってきた時。「手を良く洗え」と言われたのにいつも通り適当にすると、翌日どうやらついていたらしい小さな傷が化膿して熱を出した挙句寝込んだ。
他にもある。珍しく「片付けをしろ」と言われて放置していると、大切にしていた本を失くしたり。「宿題やったか」と聞かれて適当に返しておくと、翌日抜き打ちテストがあったり。家族でキャンプに行った時「あまり遠くへは行くな」という注意を忘れたら、見事に放し飼いの犬に追い掛け回されたこともある。
挙げていけばそれこそ枚挙に暇がない。
命に別状はないことを見越して強くは言わなかったのだろうが、それでも数々の痛い体験から、真の言うことは絶対にきいておいた方が良いと刷り込まれている。理由は後から付いてくる、これもまた経験が知っている。
速度を上げても、安定感のある三ナンバーの車はさほど揺れも大きくはならない。しかしもう少し注意深く氷室が運転に集中すると、夫婦の会話が始まった。
「おい志乃、どこ行ったか見えるか」
真が助手席から後部座席を振り返るのが気配で分かる。
「少し待って下さいな」
答える志乃の声は相も変わらずのんびりしている。
「早めに頼む。こっちは殺気立ってて、聞いてもまともな返事がない」
「そうみたいですね。あらあら、シロさん怒髪天だわ」
「相変わらずキンは狼狽えて……ったく、キンの方が力あるくせに、尻に敷かれてるなあ」
「あ、見えましたよ。あらまあ……子シロちゃん、実家まで飛ばされちゃったみたいですね」
「白金山までか? そりゃあ剛毅な相手だ」
流石に気になって、氷室は一瞬だけ横を見た。
言葉は軽いが、真は存外に真剣な顔をしていた。
「親父、どういうことだ」
氷室は前を見つめたまま尋ねた。本来はどこかに駐車して真正面から説明を求めたいところだが、約束の時間がある上に他でもないこの父親が急げと言うのだ。よって、何台も車を抜き去りながら、かつ注意を怠ることなく、片耳で聞くしかない。
真は「運転に集中するように」と前置きしてから、口を開いた。
「シロの子分が変なのとやり合って負けた」
「……は?」
「稜の嫁さんにちょっかい出したのがいるようだ。予想よりも性質が悪いみたいで、そうだな……どうにか守り切って実害はなかったと思いたいが、会って確認してみないことには何とも言えんな」
「ちょっと待ってくれ。シロの子分が負けた?」
氷室としては俄かには信じ難い。
子分は子分でも、名のある山の主の子分だ。さすがに親分であるシロとキンほどの無双は不可能だと分かってはいるが、それでも簡単に負けたとはいささか思いづらい。
つい先日、慶次が「当面は大丈夫だ」とも言っていたではないか。
それがまさか実害のあるなしを心配する羽目になろうとは、予想もしていなかった。
まして自分が傍にいない時に限って何故。
氷室の心臓が嫌な音を立てた。自然と気が急いて、氷室のアクセルを踏む力が強くなった。呼応してメーターがぐい、と回る。横を流れる景色が一段と速くなった。僅かに上がったエンジン音の中、真がスーツの襟元を正した。
「逆だ、稜。シロの子分だからこそ『負けて吹っ飛ばされるだけ』で済んだ。普通だったら殉職コースだ」
「……幸は大丈夫なのか」
「多分な。吹っ飛ばされたのはシロの子分だけだ。キンの子分はまだ背中にいる」
ということは、少なくとも致命的な怪我は負っていないはずだ。
しかし同時に幾許かの不安は残ったままになる。致命傷にはならずとも無傷かどうかは分かりかねる状態だ。
「焦るな。直接会って見てみないことには、何とも判断のしようがない」
静かな真の声に落ち着きを取り戻し、氷室はハンドルを握り直した。
フロントガラスに雨粒が一つ二つと落ちてくる。
やがて本降りになった雨は行く手を阻むようだった。黒い車体はそれを切り裂くように鋭く走り続けた。




