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舌破り  作者: 東 吉乃


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まさかの戦う○○


 幸はやかんを火にかけつつ、戸棚の中をがさごそと漁っていた。

 氷室の運転で家まで送ってもらったので、お礼と休憩と反省会がてらお茶でも飲んでいってくれと幸から持ち掛けたのが、およそ五分前。氷室は一瞬躊躇いを見せたが、幸からの「鶴でも恩返しするっていうのに」という必死すぎる遺留に、苦笑しながらも頷いてくれた次第だ。

「あ、あった」

 封切られていない玉露の袋を取り出し、幸は頬を緩める。

 お茶の在処くらい知ってはいるが、お客様に出すのに日頃家族が飲んでいる安い使い差しは宜しくない。こんな時の為に恵美子は必ず良いお茶を準備しているであろうことを予想し、いつもよりもう少し戸棚の奥を探ったところ、ビンゴだった。

 コーヒーが飲めない人だからなあ。

 心の中で呟きつつ、幸は新しい金と緑の袋を開けて急須に茶葉をがさがさと入れる。ちらりと横目で窺うと、リビングのソファに腰かけた氷室が見えた。

 スーツの上下をきっちりと着こなし、男らしく足を開いて座っている。背もたれに背を預けはせず、膝の上に肘を置いて緩く指を組んでいる。どこを見ているのかは分からないが、俯き加減に佇む姿がやたらと様になっている。

 これでコーヒー飲めませんというのが摩訶不思議だ。雰囲気はとてつもなく鋭利なのに、嗜むのはほっこり温かい緑茶という信じ難いこのギャップときたら。

 幸がこっそり見惚れていると、手元でざああ、と不吉な音がした。

「……ああ!?」

 思わず声が出る。

 急須から溢れ出て零れるお高い茶葉に、幸は軽く絶望した。

 細長い袋の目算三分の二がぶちまけられた光景は、中々に壮観だ。濡れてはいないけど、一回零したものを使って良いのか。お客様に出すのに零したものを出すのもどうなのか。キッチンの上はまだしも、床にいったやつは駄目だろうなあ、やっぱり。

 勿体なさに凹みつつ思案しながら、とりあえず上に零れた葉を避難させようと手でかき集めていると、背中の近い位置から声がかかった。

「どうした」

 振り返ると、氷室がキッチンの入口に立って首を傾げている。どうやら幸の悲鳴を聞きつけたらしい。

「て、手元が少しばかり滑りまして」

「手が滑った? ……ああ、そういうことか」

 一瞬怪訝な顔をしてみせたものの、幸の手元を確かめた氷室は合点がいった様子をみせる。

 またしても失態を見られたことに重ねて凹みつつも、明らかな呆れ顔をされないだけまだマシか。

「掃除機はどこにある」

 そうこうしている内に、さらりととんでもない台詞が出た。

「え!? いえ、氷室さんは座ってて下さい!」

「じゃあこっちは俺がやるから、掃除機持ってこい」

 氷室が指さす先には、湯気を立てて沸騰を告げるやかんがある。

「でも氷室さんはお客様で」

「いいから」

 疲れているんだろう、と続いた気遣いの言葉には驚かなかった。その大きな手で頭をぽんぽん、と撫でられた衝撃の方が大きすぎて。

 慌てて幸が見上げると、そっと見下ろされる柔らかな視線にぶつかった。

 おそらく本人にその気はなくとも、切れ長の瞳のせいで平時の氷室は普通にしていても迫力がある。造形も甘いというよりは鋭くて、さながら狼のようだ。氷室本人も、顔が物騒に見えやすいことは自覚していた。けれど身長差のせいだろうか、今のようなほど近い位置関係で伏し目がちに見つめられると、立ち竦んでしまいそうなほど優しく見える。

 これは性質が悪い。

 心臓が跳ねすぎて痛い。

 こんな風にすることも、多分氷室にとってはそんなつもりは毛頭ない仕草なのだろう。片や平凡すぎる幸には刺激があまりに強すぎる。もう少し、自分の容姿を考えて行動してもらいたいものだ。


 病院を出る時に、従業員特別手当の名目で抱きしめられたこともそう。

 迷惑や手数をかけている申し訳なさもさることながら、ああいう行為をさらりとされると恥ずかしさに七転八倒しそうになる。

 今この瞬間もそう。

 疲れているから手を滑らせたのではなく貴方に見惚れていたから手元が狂ったのです、とは言えるはずもない。


「すっすいませんじゃあこっちお願いします私掃除機とってきますから!」

「ああ」

 息継ぎもできずに捲し立てた幸とは対照的に、氷室は落ち着き払った声でやかんに手をかけた。

 その余裕の五パーセントでも分けて貰えたら良いのに。

 どうせできないことと理解しつつ、暴れまわる心臓を鎮める為に幸は掃除機に向かってダッシュした。


*     *     *      *


「俺の両親の挨拶だが、来週の土曜で良いか」

 ゆったりと緑茶を啜りながら氷室が言った。

 茶葉ぶちまけ現場はその後氷室の活躍により綺麗に片付けられ、今は何事もなかったように二人でゆっくりとしている所だ。氷室がソファ、幸はテーブルを挟んだその向かいの絨毯に座っている。

 佐藤家には氷室の実家のように応接間などないので、こうするしかないのである。

 両親が在宅であれば幸の部屋に通しただろうが、雄三は言わずもがな、恵美子も今夜は病院に泊まることになったので、その必要はない。

「こっちはいつでも大丈夫だと思います。もし氷室さんのご両親の都合が悪ければ、平日でも全然」

「俺としてはできれば平日に早めたいところだが、親父次第だ」

 相も変わらず捉まらん、そう言って氷室が顔を顰めた。

「この前も会えなかったですよね、そういえば」

 涼月に出張した帰りに寄った氷室の実家が、幸の脳裏に浮かぶ。

 あの時、氷室の父は仕事に出ていると言っていた。昼までには戻るという話だったものの、結局別件が入ったとかで会えず仕舞いだったのだが、一体何の仕事をしているのだろう。

 氷室は「癒しの力」で相談所、妹の檀は「見える目」を活かして石の仕事。

 専業主婦風である志乃は氷室より特定の力が強いと聞くし、弟の慶次が何をしているのかは定かでないが、この流れでまさか普通のサラリーマンやってますというのは想像しづらい。体格的にも、境遇的にも。

 弟でさえ想像が逞しくなるのに、動向が中々掴めない父親とくれば、更に輪をかけて興味が募るというものだ。

「捉まらないって、また出張ですか? っていうか、お仕事って何をされてるんでしょう」

「言っていなかったか。神職だ」

「しんしょく?」

 またしても聞き慣れない単語が出てきて、幸は首を傾げた。

 幸と氷室の間において、この流れは既に珍しくない。おそらく平易な言葉を選んでいるのだろう、氷室は一瞬思案顔になった後、噛み砕いての説明に切り替えてくれた。

「世俗的な言い方……というか、通称で言うところの神主というやつになる」

「神主……って、あの神主さん?」

「どの神主を想像しているかは知らんが、神社にいる狩衣姿の男を思い浮かべているのなら正解だ」

「あ、それです。へえー、神主さん」

 幸は思わず目を丸くした。

 年に何回も神社に参拝するわけではないが、それでもすぐにその姿を思い浮かべることができる程度には知っている。但し脳裏に浮かぶのは薄らぼんやりとした和装の男性で、そもそも神主の何たるかは当然のことながら幸には分からない。

「あれ? じゃあ、氷室さんのお家って神社? でも」

 言いながら、幸は浮かんできた疑問に首を傾げた。

 神主というのはつまり、神社があってそこで神様にお仕えする人だという認識はある。ところが先日訪れた氷室の実家には、境内だとか鳥居のようなそれと分かるものは見当たらなかったと記憶している。

 幸の顔色を読んでか、氷室が説明を加えてくれた。

「お前が多分想像している境内――本殿も拝殿も、実家と同じ敷地内にある。実家の建屋が参拝客から見えないように離れているだけだ。家に入るのに使ったのは裏門で、あれは家族しか使わない」

 あれで裏門か。

 新しい情報に驚きつつ、氷室の秘密が一つ明らかになった。実家が神社というのであれば、旅館などの古い建築物にもそう驚きはしないだろう。セレブなのだと思っていたが、その予想は少し方向性が違っていたらしい。

 そうはいっても、浮世離れしているという点では同じである。神職に携わる一族なんて、普通の生活をしていたら簡単には知り合いになれない相手だ。

「参拝って私でもできますか?」

 思わず俗世間的な質問が幸の口から滑り出る。しかし氷室は丁寧に頷いてくれた。

「勿論。地元の人間しか来ないような小さい神社だが、誰でも」

「じゃあ、今度連れてってくださいね」

「ああ」

 氷室が目元を緩めて頷いた。



「それにしても、神主さんって基本的に神社にいるものなんじゃないんですか?」

 物珍しい話題に気を引かれて忘れていたが、幸は氷室に問い直した。

 そもそもは氷室の父の動向が掴めない故、挨拶の日取りをどうしたものかという話だったはずだ。神主であれば基本的に神社に腰を落ち着けていそうなものだが、どうなのだろう。

 純粋な疑問を抱き幸が窺うと、氷室が苦笑した。

「神主にも色々と仕事があってな。地鎮祭のような建築関係や豊穣祈願のような年中行事は、出かけていったその場で儀礼を行うわけだ。それに限った話でもなく、依頼があれば祈願祈祷もやりに行く」

「へえー」

「……と、いうのが表向きの説明」

「へ?」

「日本全国にあるほとんどの神社は、神社本庁という組織に属している。組織に属しているということはつまり、その組織のルールに従っているわけで、本庁の傘下にある神社に奉職――神職として働く為には、階位という資格を持っていなければならん」

「はあ……資格がいるんですか」

「だが氷室の家が代々神職を務めてきた神社は、その神社本庁には属さない」

 久しぶりに幸は思った。何言ってるんだろうこの人。とりあえず神社本庁とやらに属す属さないも良く分からないが、そもそも神主が神社に腰を落ち着けているのかどうかという話がどうしてこの方向になっているのか。

 完全に幸はついていけていない。

 それを察したか氷室がもう一つ苦笑を重ねて、手にしていた湯呑みをテーブルに置いた。

「一般人は神社本庁の存在自体知らないことがほとんどだから、実家は神社で親父が神主、家を継ぐのは弟の慶次という説明だけで事足りるんだがな。お前は俺の力を知っているから、本当のところを教えておこう」

 なるほどそういうことか。

 中途半端に情報を与えられると、うっかりが出やすい。幸にとってはそういう意味で、詳しく教えてくれるというのであればそれは一も二もなく有難い話である。氷室も多分、それを見越しているのだろう。

「お願いします」

 素直に頭を下げると、氷室は先ほど幸を待っていた時のように、膝の上に肘を置いて長い指を組んだ。視線は組んだ指に落ちている。何から話そうかと考えているような沈黙が降りた。



 簡単な部分からいくか。

 そう氷室が呟いたのを皮切りに、氷室と幸の視線が交わった。

「神社本庁に属してはいないと言ったが、別に無免許運転のような非合法というわけじゃない」

「ど、どういうことですか?」

「信仰は人の心を拠り所にするものだからだ」

 本庁はあくまでも伊勢神宮を本宗として、そこに属すると決めた傘下の各神社を統括する組織であって、唯一の組織ではない。神道というのは古代の日本を発祥とした宗教であるから、組織があろうとあるまいとそこに信仰が生きていれば、神社として存在する理由となる。

 氷室の家は、代々常ならざる異能を持つものが生まれる血筋だった。

 その力は時に民の辛苦を取り除き、時に為政者を正しく導いた。

 尊敬を集めた氷室の家は、やがて民の心の拠り所となった。氷室の家もまた、力を尽くして土地と民の安寧を祈った。その様式が神道という形を為し、今日まで至るのだという。

 土地に根差した古い歴史を持ついにしえからのやしろを守る、それが氷室家の守る神社なのだ。

「成り立ちがそういうわけで、今でも神主の仕事のメインは、常ならざるものが引き起こす問題を解決することにある。普通の神社が請け負う地鎮祭などの祭祀や祈祷はやるにはやるが、あくまでもついでだ。基本的には土地に根差しているから地域住民を優先して、依頼があればどこへでも行く。古い血筋のせいで、同じく古い血筋には氷室はそういう家だと知られている」

「古い血筋って?」

「色々あるが、旧華族、公家、武家、そういった類だと考えていい。彼らもまた、その土地に住まう民に責任を持つ家だ」

「……そういうの、漫画の中だけだと思ってました」

「その認識もあながち間違いじゃない。そういった意識や繋がり自体、随分と薄れてきているのが現実だ」

 少しだけ寂しそうに氷室が呟いた。

「まあそれは横に置いておく。つまり親父は今もその依頼を受けている真っ最中で、ただの地鎮祭とかではないからいつ片付くかが分からん」

「あ、それでお父さん次第って言ったんですね」

「そういうことだ。ただ今回の話自体は通しているから、遅くとも金曜までには戻ってくる」

「あのー」

「うん?」

「稜さんは痛みを取ったりできますよね。お父さんて何ができる人なんですか?」

 ここまで来たら問わずにはいられなかった。

 常ならざるものが引き起こす問題。そもそもどういった類の問題が起こるのかも分からないが、何を以ってして解決に当たるというのだろう。

 先に聞いた話を鑑みるに、一つの家がこれほど長く、篤く信仰されるというからには、並々ならぬ力なのではないかと幸は思う。第六感も何もまったく持たない幸からすれば、氷室の「癒す」という力でさえ途方もなく感じられるくらいだ。

 何かこう、高度な呪文とかお札とかそういうのを駆使して、鮮やかに妖怪みたいなものを成敗するのだろうか。映画や小説にも度々題材として取り上げられる、陰陽師とかそういう感じで。もしもそうだとすれば、すごく格好良い。特撮ヒーローみたいだ。

 幸は思わず期待の眼差しで氷室を見た。

 氷室が組んでいた指を解し、右手で顎を撫でる。思案顔だ。その手の類がまったく見えないし感じない幸に対し、説明の仕方を考えているようだ。幸としては、平易な言葉を選んでくれていると信じたい。

 ややあって、上を向いていた氷室の視線が幸に向き直った。

「相手に干渉できる力、というか。平たく言うと、見えるし話もできるし問答無用で殴り飛ばすこともできる」

「……は?」

 間抜けな声が出たのは不可抗力だと思う。力一杯幸は目を見開いた。

 途中までは何となく飲み込める。だが最後が意味不明だった。

 問答無用で殴り飛ばすってなんだ。それは一体どういう状況だ。どんな相手に対してなら、そんな肉体派の手段に訴えることができるというのか。確か神主と言ったはずだ。幸が知らないだけで、実は神主ってそういう職業だったのか。ていうかもしもそうなら特撮ヒーローどころの騒ぎじゃない。


 むしろそれなんてバイオレンス神主?


 夢見た爽やかなヒーロー像が、ものの見事に粉砕された瞬間だった。どうせ夢見たのは一瞬だったが。

 引きつった幸を見て、氷室が頬を掻いた。

「あー、と。言葉が良くないな。最初はもちろん話し合いで説得を試みる。出会い頭にぶっ飛ばすとか、そこまで野蛮じゃないから安心していい」

「は、はあ」

「肉体言語はどうしても話が通じない場合の最終手段だ。誤解しないように」

「どういう解釈が誤解になるのか甚だ疑問ですけど……」

 相槌に困りつつ、幸は眉根を寄せた。


 ちょっと……いや大分、衝撃の展開だった。

 氷室の父はつまり、戦う神主さん、であるらしい。それも、肉体言語を得意とする。


 普通の神社とは違うという説明は受けたものの、これまでの常識が覆されて大変に微妙な気持ちになる。

 神主さんといえば、境内を掃除したり祈祷したり神式の結婚式を司ったり、総じてイメージは穏やかで温和だった。それがまさかの「問答無用でぶん殴る」。殴られるようなことをする方が悪いのだろうが、それにしてもどうか。

 悶々と考えている途中、「待てよ?」ともう一人の自分が語り掛けてきた。

「あのー、さっき慶次さんがお家を継ぐって言ってましたよね」

「ああ」

「てことはつまり、慶次さんも戦う神主さんなんですか?」

「……戦う……?」

 氷室の目が僅かに瞠られる。その直後、氷室がくく、と喉を鳴らした。

「中々面白いな。その発想はなかった」

 え、と幸が首を傾げると、「戦う神主」というネーミングセンスが良かったと何故か褒められた。意味が分からないが、氷室は随分と楽しそうだ。

「氷室家の基準で言うと慶次はまだ見習いだ。出力というか精度が及ばないだけで、能力的には親父とほぼ同じだがな」

「ってことはやっぱり殴れるんですか?」

「……完全にその認識になってしまったか」

「いえあの、話し合いが最初っていうのは分かってはいるんですけど」

 あまりにもイメージが鮮烈すぎて、申し訳ないが幸自身にも如何ともし難い状態だ。

 珍しく困ったように、氷室が長い指をその額に当てた。

「まあ、……できないと言えば嘘になる。それはともかく本業が見習いというだけであって、普通の神主がやるような祭祀は慶次でもやっている。そういう意味で、対外的には神職だと言えるだろう」

「え。じゃあ慶次さんもあの神主さんスタイルになるんですか」

 当たり前だとでも言いたげに、氷室が頷いた。

 想像すると不思議な感じがする。

 あのハイパー高い高いを繰り出していた屈託のない笑顔の屈強なガタイを持つあの人が、よりにもよって神主さん。狩衣姿は似合いそうだが、多分絶対に特注サイズだろうなとも同時に思う。

「慶次だけじゃない。俺も手が空いている時は祭祀の手伝いをしている」

「ええ!?」

 戦う神主よりもでかい衝撃が幸を襲った。

「知っての通り、俺は殴るという芸当はできん。だから、」

 血気盛んな神主像から少し離れろ。

 そう言われたものの、二重の衝撃に幸は目を見開くばかりで、バイオレンス神主に関するあれやこれやの想像は今この瞬間彼方に吹っ飛んだ。


 狩衣姿の氷室。

 それは取りも直さず光源氏の実写版みたいになるんじゃなかろうか。


 こんなしょうもないことを口に出そうものなら大層呆れられそうだが、見てみたいと思ったのもまた事実だ。



 あまりにも知らない世界すぎて、聞けば聞くほど興味をかきたてられる。そしてここまで来ると俄かに気になってくるのが、未だ会ったことのない氷室のもう一人の弟である。

「ついでに教えて下さい。もう一人の弟さんって、何してるんですか?」

颯真そうまか? まだ学生だ。大学院にいる」

「卒業した後はやっぱりお家に戻って戦う神主さんに?」

 氷室が頭を抱えた。

 ぐ、と何かを噛みしめるような面持ちになる。

「だから誤解をするなと何度言ったら……俺の説明が悪かったんだな。まあいい。颯真はどうだろうな、俺や檀なんかより能力的には余程向いているんだが、本人にその気がなさそうだ」

 氷室が肩を竦めた。そして、「あいつは学者にでもなるかもしれん」などと続ける。

 聞けば聞くほど不思議な家族だ。

「近い内に会うことになるかもな」

 ふと氷室が言った。

 ただしその声はあまり楽しそうではない。見れば、表情もどこか浮かない顔だ。

「私としては嬉しいですけど……?」

 会ってはいけない理由があるのか。まさかやきもちもへったくれもないだろうにと思いつつ幸は待ったが、氷室からの明確な言葉は続かなかった。


*     *     *     *


 茶飲み話を小一時間ほどした頃合いで、氷室が立ちあがった。道路が混む前に帰るという。引き留める理由もないので、幸も立ち上がり玄関まで見送りに出た。

 靴を履き、氷室が振り返る。

 幸は上がり框に立っていたが、それでも氷室の方がまだ背が高かった。

「今日は親御さん帰らないんだろう? 戸締りはしっかりな」

「はい、大丈夫です。今日はありがとうございました」

「それと」

 言いながら、氷室が幸の右手をとった。

 触れるか触れないかの力加減で、突き指をした中指と薬指をそっと撫でる。説教されるかと幸は肩を縮めたが、小言は飛んでこなかった。その代わり、少しだけ強い視線で射抜かれる。

「生活に気を付けろ。いつも以上に注意深く行動するように」

 学校の教師のような台詞だ。ただし、心配されていることが真っ直ぐに伝わってくる。

 それが素直に嬉しくて、思わず幸は頬を緩めた。

「大丈夫ですよ。そう何回もコケませんってば」

「まさかが起こるのが人生だ。いいな、気を付けるんだぞ」

「任せてください。どうせこの突き指だって、週明けには治ってますから」

 あまりの心配され具合にそこまで自分は鈍臭かったかと若干凹みつつ、幸は笑顔を作って見せた。

「……気の長いやつだな」

 言うが早いか、氷室が僅かに手を握りこんだ。


 とくん、と。


 鼓動が優しく伝わってきたような気がした。

 思わず幸は握られた右手を見つめていた。傍目には何の変化も見て取れない。だが間違いなく、氷室の手から温かい何かが流れ込んできている。

 どれくらいそうしていただろうか。

 長いような短いような、いずれにせよ「離れ難い」と心が素直になった時、氷室が視線を上げて言った。

「指、曲げてみろ」

「え……もしかして」

 予感を抱きつつ、幸は言われた通りに指を曲げた。

 包帯を巻いているせいで動かしづらいが、今朝までの鋭い痛みはまったく感じられなくなっている。そのままの勢いで包帯を外し、さらに湿布を剥がすと、腫れていたはずの中指と薬指は見慣れた細さに戻っていた。

「痛いこと、苦しいことは我慢しなくていい。無理はしないで俺に言え」

 もう知っているだろう、と。取り除いてやれるのだから、頼っていい、そう続いた言葉。

 思わず幸は氷室の瞳を覗き込んでいた。

「ありがとうございます……でも」

 胸に渦巻くこの気持ちを、どう口に出せば良いのか分からない。

 幸は氷室のこの力を優しい力だと思っている。けれど氷室本人は、機会さえあれば要らないものだと思っている。それを幸は知っている。

 厚意は嬉しい。

 まさに今この瞬間に、突き指を癒してくれたことも有難い。

 だが、氷室にあんな顔をさせるこの力を使って「助けてくれ」なんて、幸はどうしても言いたくなかった。少しだけ頬を緩めて安心させるように言ってくれるから、猶のこと言いたくなかった。

 全てを聞いたわけではないけれど。

 便利だなんて、そんな一言で片づけられない葛藤があったのではないのですか、と。

 穏やかな顔をしているからといって、傷付いていないと勝手に納得してはいけないような気がしている。どうしても、「分かりました」とは言いたくない。

 それをしてもらいたくて、一緒にいるわけではないのだ。

 何と言えば、複雑に絡み合うこの気持ちがうまく伝わるのだろう。 



「……どうした」

 ほら、またそうやって低く優しい声で包み込むように。

 喉までせり上がる気持ちはしかし、肝心なところで言葉に昇華させられない。この気持ちを口に出すのが怖い。この人にとっては迷惑にしかならないであろう、この気持ちは。

 言ったところで困らせるだけだ。

 あくまでも大人の厚意で、偽装結婚に付き合ってくれているだけなのだから。

 言い聞かせる度に、幸の胸がぎゅう、と締まる。

「いいえ、なんでもないです。すみません、ご迷惑おかけしました。もうコケないように気を付けますね」

 幸は笑って当たり障りのないことを口にした。

 氷室の右手が伸びてきて、幸の頭を優しく撫でた。



 氷室はまだ何かを言いたげにしていたが、「早く出ないと道路混みますよ」との幸の指摘に、最後まで気に掛ける素振りを見せつつ帰った。

 広い背中を見送った後、幸は言われた通りに玄関に鍵をかけた。

 鍵をかけた右手を何とはなしに見やる。本当に間抜けな怪我だった。間抜けすぎて気のつけようがなかった。こんなしょうもない怪我に気を遣わせてしまい、申し訳ない気持ちで一杯になった。

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