忍び寄る害意・2
「幸を宜しく頼みます」
雄三の一言で、約束は完成された。はい、と簡潔に応えた氷室は、その後小さく息を吐いて目元を緩めた。
信じていいと断言した氷室は本物だった。
前から凄い凄いとは思っていたが、冗談抜きでこの人は本当に凄い人だった。完全に氷室一人で最難関を切り抜けたも同然だ。幸は援護射撃どころか応援を差し挟む余地さえなかった。
放心している幸を他所に、両親と氷室はさっさと雑談に入っている。あまりに鮮やかすぎた流れに今、幸はただその光景を呆然と眺めるばかりだった。
「本当に、稜さんはしっかりしていて頼もしいわー。幸は小さい頃から変なところで手がかかったものだから」
「変なところ、ですか?」
氷室がキーワードを拾い、幸と恵美子を見比べた。視線に気付き、幸はそれまで空中に四散させていた意識を取り戻した。
この流れは、確実に昔の恥ずかしい話を披露されるパターンだ。大変に切れる頭を持つ氷室とは違い、ただでさえ平時から残念な行動や言動を晒している身である。過去に遡及してまで恥の上塗りなどしたくない。
話をはぐらかそうと幸は口を開きかけたがしかし、上機嫌な恵美子の方が早かった。くそっ。
「ええ。しょっちゅう迷子になってたの」
呆れ顔で恵美子が頬に手を当てた。片や雄三は追随するような物言いはしないものの、苦笑するに留めている。「そんなことないだろう」という否定は勿論出てこない。心の中で「くそっ」と悪態をついたものの、自然と幸の肩は縮こまることとなった。
この件に関しては、確かに多大な心配をかけてきたのが事実なのである。
「最近は随分とマシになったけど、昔は出かけた先でちょっと目を離した隙にすぐ迷子だったわ。建物の中はまだ良くて、田舎に帰った時は山から谷まで一通り迷子になったのよねえ」
幸にしてみれば実に懐かしい話だ。常々から平凡な人生を歩んできたと自負しているが、この点だけはある意味で自慢できるかもしれない。
幼かった幸は、山を彷徨い、谷で行き倒れかけ、海に漂流したことがある。
冷静に考えてもはや迷子の域を逸脱している。どこから見ても立派な遭難だ。
いずれも最終的には事なきを得たが――そうでなければ今、幸はここに座っていないわけだが――ともかく、ニュースに上る主要な遭難先を一通り押さえた人間など滅多にいないだろう。少なくとも幸の友人に同じ経験を持つ者はいなかった。ていうかそもそも一回でも遭難したことがある者さえいなかった。後は樹海を経験すれば武勇伝として昇華できそうだが、同時に次こそは無事の生還を果たせなさそうでもあるので、これは完全に余談である。
暴露された恥ずかしい過去に、氷室が意外そうな視線を寄越してきた。
「道を覚えるのが苦手なのか?」
「いいえ」
「地図は」
「それくらい読めますよ当たり前じゃないですか」
「北を上と認識していたり」
「馬鹿にしてますね? 地図を回したりとかしませんよ」
「それでどうしてそこまで盛大に迷子になれるんだ」
「私が訊きたいくらいです」
今でも覚えている数々の迷子記憶。最も大がかりだったのは小学校三年生の夏休み、雄三の田舎である青森の本家に行った時のことだ。
川でも山でも何でもござれの田舎では、大自然が遊び相手となる。他のいとこたちと毎日朝から晩まで外で駆け回るのが恒例で、特に本家の裏山が縄張りだった。それだけ遊んでいれば、ある程度の範囲は庭と呼んで差支えない程度に慣れもする。幸は年中組の立ち位置だったが、上のいとこには中学生や高校生の年長組がいて、彼らにしてみれば親代わりにチビ共の監督がメインだったのだろうけれども、心強かったものだ。
あの日もいつものように、山で遊んでいた。
前日から作り始めた秘密基地を完成させる為に、手分けして木の棒やら葉っぱやらを集めていたことを覚えている。
幸の記憶では、絶対に深みの藪には入ってはいなかった。いとこたちの声はすぐ傍で聞こえていた。しかし、気が付けば五人はいたはずのいとこが誰一人として周囲におらず、景色も見慣れた山腹ではなかった。
狐につままれたようだった。
さすがに焦って下りようとしたが、踏み入れたことのない場所の上に道もなく、まして背が低く体力もない子供の幸はあっさりと迷った。日中は蝉の声が煩いくらいだったくせに、日が傾くにつれて彼らの鳴き声も一つまた一つと消えていき、やがて夜が訪れると物寂しい虫の鳴き声が時折響くだけだった。
足が痛くて歩けず、大きな木の根元に座り込み必死に涙をこらえた暗闇。
人生で最も忘れたい記憶だが、あまりに鮮烈すぎて忘れられない。
時間の感覚は覚えていないが、夜が明ける前に幸は保護された。親戚一同とご近所さんが総出で山狩りをしてくれたのだ。どの方角に迷ったのかも分からなかった為に捜索は困難を極めたが、たまたま幸が迷う途中に落としたらしい麦わら帽子が途中で見つかり、そこから幸を見つけるまでは早かったという。
大人たちは幸がうっかり何かに気を取られて山の奥に入り込んでしまったのだろう、と結論付けた。自分の身に何が起こったのかを理解できなかった幸は何も言わなかったが、密かに抱え続けた疑問はある。
一体何に気を取られたというのだろう。
他でもない幸自身が一番分かっている。動物の影を追ったわけでもない。珍しい花を探したわけでもない。日頃から山に慣れている本家のいとこならばいざ知らず、平素は都会にいる幸はむしろ彼らから離れないようにいつも気を付けていた。それでどうして、あれほど盛大に逸れることになったのだろうか、と。
ここまで来たら恥もかき捨て、川と海を含めた遭難ネタをひとしきり幸が披露すると、氷室が気遣わしげに「大変だったな」と大人の対応をしてくれた。
二人っきりだったら、多分絶対もっと厳しい突っ込みが入っただろう。ある意味、このタイミングでカミングアウトしたのは正解だったかもしれない。尚、残念な方向にスーパーポジティブなのは我ながら理解している。
「迷子だけじゃないのよー」
「ちょっとおかーさん」
今度は何を暴露するつもりか。慌てて幸は口を挟むが、慶事に浮かれている恵美子を押し留めることはできなかった。
「この子ったら身体が弱くて、一年の半分くらいは熱を出したりお腹壊したりしてたの」
「半分は言い過ぎじゃ……」
抗議の声を上げるも、マイナス側に思い出補正がかかった話を訂正できるはずもない。
しょっちゅう風邪をひいたり入退院を繰り返していて大変に手のかかる子だった、と恵美子が続けると、またしても氷室が小さく驚いた顔をして幸を見てきた。
「……意外と繊細だったんだな」
「ひ……一言余計です!」
危ねえー!
言葉を斟酌する余裕もなく心の中で幸は絶叫した。油断大敵。ほんの一瞬氷室の頬も引きつりかけたが、どうにか怪しまれない程度に誤魔化した。
しかしここで話をぶった切ってはどうにも不自然である。よってその不自然さを隠すべく、細心の注意を払って幸は続けた。氷室さんは稜さん氷室さんは稜さん氷室さんは稜さん。よし、イメージトレーニングは完璧だ。
「稜さんだって、風邪の一つや二つ引くことくらいあったでしょ?」
「ない」
「え?」
「風邪もインフルエンザもかかったことがない」
「ええー……頭も良くて身体も頑丈ってなんかずるい」
口を尖らせた幸に、氷室はただ苦笑を返してくるのみだった。
そして和やかな雰囲気で、更に雑談は進んだ。
「稜さんはご兄弟はいらっしゃるのかしら」
当たり前と言えば当たり前の話題が出る。
あまり長引くとボロが出そうなので早々に切り上げたいところだが、場の空気というか流れを無視するわけにはいかない。こんなことなら事前にもう少し氷室についての情報を入れておくべきだったと歯噛みするが、後悔先に立たずとはよく言ったものだ。
一方で振られた方の氷室は、「想定の範囲内だ」とでも言いたげに悠然としている。
「私は四人兄弟の長男です。下に弟が二人と妹がいます」
「まあ、それはさぞ賑やかでしょうね」
目を細める恵美子に、氷室は首を緩く横に振った。
「賑やかというよりは煩い部類ですね、あの弟妹は」
横で耳を傾ける幸は、知った顔の二人を脳裏に浮かべた。
檀は氷室に良く似ている。切れ長の目が女性らしく長い睫毛に縁取られて、それだけで大変に華やかな顔立ちの美人だ。
はっきりとものを言う性格であることは初対面で認識した。一定の線引きはしているらしいが、それでも兄である氷室に全く物怖じせずにあれこれ言えるのは、血の繋がりというより生来の性格に起因すると思う。
慶次の方はというと、今度は同じ親から生まれたとは思えないほど氷室との体格に差がある。つぶさに見れば顔の雰囲気は似ているものの、それも兄弟であることを前提に見ればの話だ。
残るもう一人の弟にはまだ会っていないので、想像だけが逞しくなる。
「本当は幸にも兄弟を作ってあげたかったのだけれど」
ぽつりと恵美子が呟いた。少しだけ寂しそうな表情の恵美子を、雄三が優しく見つめている。
急に何を言い出すのだろう、と。
常にはない雰囲気に、幸は首を傾げた。
幸は一人っ子だ。かつて雄三に理由を訊いたこともあるが、「煩わしいというような気持ちの問題ではない」と静かな答えをもらって、そういうものかと深く突っ込みはしなかった。いとこ達を見ていて、自分にも兄弟がいれば楽しかっただろうかと想像はしても、是が非でも欲しいと思ったことはない。
そんな風に申し訳なさそうな顔を恵美子がする必要はないと思うのだが、しかし。
「私の身体に余裕がなかったのね。頑張りもしたけれど、そうこうする内にあっという間に年月が経ってしまって……最終的にはこの子一人を愛して生きていこうと決めて」
恵美子がハンカチで涙を拭った。
「ごめんなさい。とっても嬉しいのよ? 嬉しいのに、勝手に涙が出てくるの。ごめんなさいね、稜さん」
震える声で、しかし口元は本当に嬉しそうに微笑んでいる。
不意の光景に幸の息は止まった。
「駄目な母親ね。分かっていたのに、一人娘がいざお嫁に行くとなると、嬉しいのに寂しくて」
恵美子は重ねて氷室に謝った。
決して結婚を反対しているわけでもないし、氷室の何に不満があるわけでもない。それなのに止まらないこの涙をどうか許してくれと言って、恵美子は何度も目元を拭った。
初めて見るその姿に、幸はかける言葉がどうしても見つからなかった。
きっと幸せになるから、泣かないで、と。
この場で最も相応しい言葉を言う資格が自分にはないのだ。何故ならば、これは偽装結婚であるから。
幸はそっと唇を噛んだ。
自分で選んだこの道が本当に正しかったのか。自分の人生の門出をこれほどに祝ってくれる両親が、これを嘘だと知ったとしたら。もう戻れないところまで来てしまったのに、弱気になる自分がいる。
「大切にします。必ず」
迷いの靄を振り払うような力強い声は、氷室だった。
「……ええ。どうかお願いしますね」
言いながら泣き笑いをする恵美子に、幸の胸が締め付けられた。
* * * *
「……っ、はー……つか、れた……」
氷室の車の助手席に乗ってドアを閉めるなり、幸は深く息を吐き出した。シートベルトもせず、そのままぐったりとシートにもたれかかる。
隣に乗り込んだ氷室の方もすぐにエンジンをかける素振りは見せず、ハンドルに腕を預けていた。
結局、両親と対面していたのは時間にしてものの一時間にも満たなかった。それなのにこれほどに疲労感が襲ってくるのは、やはりNGワードや禁則事項があまりに多かったせいだろうか。
「お疲れさん。まあ及第点だろう」
涼しい顔で氷室が言う。
色々と危なかったので、及第点をもらえただけ奇跡のようだ。第一関門をクリアした喜びを噛みしめるどころか、今は何も考えられない状態である。
恵美子は今夜は病院に泊まってくると言っていた。多分、幸の式に向けて主治医に色々と相談するのだろう。時間には余裕があるので、もう少しこの場でぐったりしても良いはずだ。
「ありがとうございました……」
かろうじてそれだけを言って、幸は目を閉じた。
本当に疲れた。
どうしてこんなに疲れているのかは分からない。けれど、今はもう何も考えたくない。
「幸」
呼びかけは染み入るように優しかった。
どれくらい目を閉じていたかは定かでない。一分か、十分か。それでもぼんやりとしていた思考を繋ぎとめるのに、その声は鮮やかだった。
幸は閉じていた目蓋をゆっくりと上げた。
頭はシートにもたれかけたまま、右に顔を向ける。こちらを真っ直ぐに見ている氷室がいた。
「……はい」
返事をすると、少しの間を置いてから氷室の手が伸びてきた。
長い指が頬に触れる。
いつもの幸ならば多分、飛び上がって何事かと問うただろう。けれど今は身体がまったく動かず、声も出なかった。ただ氷室の端正な顔を目に映しながら、氷室の指を温かいと思うだけだ。
「……やめるか?」
氷室の大きな掌が、幸の頬にあてがわれた。
「泣けないほど辛いのなら、もうやめるか?」
「辛いことなんて、なにも。それに今更やめるなんて、できるわけ」
ない。
否定しようとした幸を、氷室が遮った。
「ある。俺が全ての責任を取る形にしたらいい」
「……どうやって?」
「理由なんぞいくらでも。事業に失敗してもいいし、二股まがいの詐欺でもいい。俺がお前を捨てた形にするのが一番簡単だ。慰謝料も払えるし、心配ない」
「ま、待って。待って下さい、稜さん」
思わず幸はシートから身体を起こしていた。
「今言ったのって稜さん丸損じゃないですか。どうしてそんなこと、……お金払ってでもやめたいくらい、私なにか失礼なこと言いましたか……?」
「そうじゃない」
「じゃあどうして」
頬にあった氷室の手にとりすがり、幸は詰め寄った。
氷室が言い淀む。
幸は武骨な手を握りしめる。
狭い車内にしばらくの沈黙が降りた後、やがて氷室がため息交じりに言った。
「俺が相手では、幸せになるとご両親に言えないだろう」
「そ、れは……最初から分かってた話です。お芝居、……なんだから」
「そうか?」
「そうです」
「……そうか」
分かった、と一言だけ氷室が言った。
それと同時、幸の肩がぐいと引き寄せられた。幸が握りしめていたはずの手はいつのまにか攻守逆転し、大きな手が幸の手を包み込んでいる。
耳元で、穏やかな鼓動が不意に響く。
窮屈な体勢だが、確かに引き締まった胸元に頬を寄せさせられている。抱き込まれていると言えばいいのか。気付いた時、幸の顔が熱くなった。
「稜、さん?」
「……従業員特別手当だ」
囁かれた瞬間、温かい何かが幸の身体に流れ込んできた。




