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舌破り  作者: 東 吉乃


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幸せの誓い


 先陣を切るのは幸の役目だった。

 閉じられている扉の前で、幸は深呼吸をする。目の前には「佐藤 雄三」という名札が掲げられている。

 雄三は先日の危篤騒ぎの後、個室に移った。よって、今日の挨拶も周囲に気兼ねなく病室でできるのだが、そうと分かってはいても緊張する。

 少し耳を澄ませば、中で談笑している両親の声が漏れ聞こえる。どうやら体調は悪くないらしく、そのことに幸は少しだけ安堵した。

「大丈夫だ。俺がついている」

 緊張を解す為か、氷室の気遣いが掛けられる。

 やっぱりこの人は優しい人だ。

「ありがとうござ」

「お前がどれほど斜め上の失敗をしようとも、必ずフォローは入れてみせる。大丈夫だ、俺の本気を信用していい」

「……信じてはいるんですけど、なんかこう、色々どうかと思う表現が随所に聞こえるのはなんでですかね」

 確実に良い場面だったはずなのに、どうしてこうなった。

 言いかけた礼も彼方にぶん投げたままだが今更問答しても仕方がないので、覚悟を決めた幸はとうとう白い扉をノックした。



「お父さん、お母さん、来たよ。入ってもいい?」

「あら早かったのね。勿論よ、顔だけ出してないでほら、お入りなさい」

 まずは斥候のように幸が病室を覗き込むと、上機嫌の恵美子が立ち上がって扉に歩み寄ってきた。その向こうでベッドに座っている雄三も、柔らかく笑って頷いている。許可を得た幸が背中を振り返ると、氷室も一つ頷いたので、幸は扉を大きく開けた。

 とうとう氷室の姿が両親の目に堂々と晒される。

 どんな反応をするか、怖さと興味が半分ずつだ。

「失礼します」

 機先を制したのは氷室だった。

 声に反応した恵美子は、予想していたらしい目線の高さをすぐに修正し、驚いた顔をして見せた。まったく素直な反応だ。

「初めまして、氷室と申します」

「まあ、とっても背が高くていらっしゃるのね。初めまして、幸の母の恵美子です。こんな場所ですみませんけど、どうぞこちらにお掛けになって」

 恵美子が示したのは、雄三のベッドの奥にある簡単なソファとテーブルの応接だ。

 雄三もそれに合わせてベッドから降りようと身体を動かすが、氷室がそれを柔らかく制止した。

「ありがとうございます。ただ、ご負担になるのが申し訳ありませんので、どうかそのままでお願いできますでしょうか」

 氷室は、雄三の背もたれのように斜めに起されているベッドを指さした。

「どうかそのまま。お時間を頂戴できただけで、これ以上望むべくもありません」

「でも」

 戸惑って言いかけた恵美子が、雄三を窺う。すると雄三は穏やかに笑って、一つ頭を下げた。

「お気遣いありがとう。そうさせてもらいます」

 言って、雄三は元の通りに背中をベッドに預けた。それを見た氷室がほっとしたように頬を緩める。恵美子が慌てて壁に立てかけてあった折り畳み椅子を用意し、三人で雄三の傍に座ってようやく場が落ち着いた。



「氷室 稜と申します。大変な時に私の我儘でお時間を頂戴しまして、申し訳ありません」

 簡潔に述べて、氷室が頭を下げた。それを見て、幸も慌てて頭を下げる。

 ややあって隣で居住まいが正された気配を感じ、幸は顔を上げて窺った。背筋を伸ばし、胸を張り、軽く握られた拳を腿の上に置いた氷室が目に映った。

 精悍な横顔、視線は真っ直ぐに雄三に向けられている。雄三はベッドの上に座っているので、僅かに見上げるような角度だ。

 真摯な態度に、氷室から幸の両親に対する尊敬が滲み出る。

 それだけで何故か幸は涙が出そうになった。

「良い年をした大人がこれまでご挨拶に伺いもせずにいたこと、まずはお詫び申し上げます。ですが、今日は大切なお願いがあり、こうして参りました」

 淀みのない低い声が、小さな個室に柔らかく響く。

 雄三の向こう側に座る恵美子が、既にハンカチを胸に握りしめている。今にも泣きそうだ。片や雄三はというと、これまでに見たことがないほど穏やかな顔で、真っ直ぐに氷室を見つめていた。

「こちらこそ、見ての通りの有様できちんとお迎えできずに申し訳ない。わざわざこんな所まで来てくれて、本当にありがとう」

「いえ。幸さんの為ならばどこへでも伺わせて頂きます」

「そう言ってもらえると、不肖の娘ながら嬉しいものだね。幸とはどこで? 稜君はもう社会人だと幸からは聞いてますが」

 和やかに始まったかのように見えた会話が、いきなり最高難度の質問に入った。

 幸の思考は完全に停止する。どうしよう、馴れ初めとか全然考えていなかった。というより、打ち合わせをしていなかったが、大丈夫なのかこれ。

 じわりと背中に滲む汗を感じつつ、幸はそっと隣を見る。すると氷室は少しだけ幸を見て頬を緩めた後、特に焦った素振りも見せずに雄三へ向き直った。

 演技派だ。

 多分、両親の目にはただ仲睦まじい二人に見えていることだろう。照れて声を出せない娘と、全て受け止める年上の婚約者、まるでそんな風に。

 だが内実は違う。アイコンタクトの内容を直訳すると、「何も思いつかないので何とかしてください宜しくお願いします」「任せろお前は口を挟まなくていい」という質実剛健なやり取りだ。こんな舞台裏を見せられる訳がない。

 不自然にならない程度の間を置いてから、氷室が雄三に視線を戻し口を開いた。

「一年半ほど前でしょうか。幸さんの大学から就職関係の講演を依頼されまして、それがきっかけです。いわゆる診療所のようなものを個人で経営しておりますので、その経験談を、という趣旨の講演でした。就職に備えて広く業界を知る、という取り組みのようですね。勿論、私だけではなく他の事業主や各業界のサラリーマンなど、色々なところに声はかかっていたようですが」

 あたかもそんなイベントが開催されたかのように氷室は語る。事実は一割くらい――氷室が事業主であるというただその一点のみに於いて、だが――混じってはいるが、それ以外は清々しいほど真っ赤な嘘だ。就職関係の講演など、本当にありそうなネタを持ち出すあたりが周到である。

 その弁舌の鋭さに驚きつつも、幸は必死に頷いた。

 ほう、と感心したように相槌を打つ雄三も、目を丸くしている恵美子も、完全に信じているようだ。

 第一波は難なくかわすことができた。しかし胸を撫で下ろしたのも束の間、次の難問が恵美子の口から無邪気に飛び出てきた。

「じゃあ幸は一年生の時から稜さんと? ずっと彼氏なんていないって言ってたのに、どうして内緒にしてたの?」

 教えてくれたら良かったのに、と恵美子が続ける。本気で責められているわけではないことは百も承知ながら、さりとて「いーじゃん別に」で済まされない内容である。とりあえず幸は、まずは照れ隠しを装って「あはは」と笑って間を稼いだ。

 やばい。

 内緒も何も、彼氏がいなかったのは事実なのだ。どうしてと問われたところで真正面からの回答は「それが事実です」ということになるのだが、それを言うと今日のこの日に全く繋がらないので口が裂けても言えない。零点どころかマイナス側に百点満点の回答だ、それは。

 やばい。

 焦った挙句、藁にも縋る思いで幸は隣を見る。

 氷室が僅かに眉を持ち上げ、意外そうな顔を作る。その後表情を柔らかくして、恵美子を見やった。どこまでも演技派だ。表向きは「お前というやつはしょうがないな」風の顔だ。だが幸の耳には、「任せろ」という力強い声が確かに聞こえた、ような気がした。

「お付き合いさせて頂いたのは、幸さんが二年生になってからです。年の差もありますし、私も仕事の方が少し慌ただしかったので、ご説明しづらい状況だったかと。今はようやく落ち着きましたので」

「まあ、そうだったの」

「ええ」

 苦笑しながら申し訳なさそうに肯定する氷室に、それ以上恵美子からの追求はなかった。

 正直ほとんど答えになっていなかったのに、落ち着き払って「そういうものなんです」と言い切れば説得力は増すらしい。幸は目から鱗が落ちる思いでやり取りに耳を傾けた。

「そういえば稜さんはお幾つ? この子ったら、何にも教えてくれなくって」

 上手い具合に恵美子の興味が逸れた。内心で幸はガッツポーズを決める。

「今年で三十二になります」

「そんなにお若いのに、ご自分で会社を?」

「ただの自営業です。上場もしておりませんし言うほどの規模ではありませんので、そうおっしゃって頂けるのはお恥ずかしい限りですが」

 穏やかに謙遜し、氷室が苦笑する。

 紳士然とした物腰に早くも恵美子は陥落したらしい。ひとしきり感激して、うんうんと頷くばかりである。



 この辺りで雑談は切り上げて、そろそろ本題に入りたいところだ。焦る幸は氷室に目配せをしようと試みたが、しかし無情にもそれは雄三の追加質問で失敗に終わった。

「稜君。試すような質問で申し訳ないが、幸には少なくともあと二年の学生生活が残っている。当然、就職活動もこれから始まる。場合によっては東京ではない場所で幸が就職する可能性もあるが、そこは」

 千本ノックか。

 思わず声に出しそうになったが、幸は気合で飲み込んだ。

 次々と投げかけられる質問に、早くも幸の神経は完全にすり減っている。そんな幸を横目に次から次へと絶妙に打ち返していく氷室の安定感に舌を巻くが、この問いは素直に厳しい。色々と隠し事がある為、不用意な回答は許されない。

 そもそも、幸が今は休学していること。

 あくまでも今は雄三が最優先で、幸が先のことなど考えていないこと。

 とても重要なことを隠し通しながら、どのように雄三を納得させることができるのか。

 本来であれば、学生の内に結婚するなど雄三は許さなかっただろう。言葉尻からも分かるように、安易に永久就職するのではなく、自立した社会人になるべきであると考えているのだ。その持論を抱えている雄三を考えると、今投げかけられている問いは十歩も百歩も譲っていることが分かる。

 譲る理由は間違いなく、雄三自身の身体のままならなさにある。遠からず訪れる未来を知りながら、それでも尚問い質す。

 それが親心なのだろうか。

 そうだとすれば、どんな答えに頷いてくれるのだろう。



「どこであっても離れることはありません」

 きっぱりと氷室が言い切った。

「仕事は私一人がいれば成り立つ自営業ですので、場所は選びません。どこへなりと身軽に行けます。ご心配には及びません」

「君が幸についていく、と?」

「家族の形は様々です。何があっても幸さんを養えるだけの甲斐性はあるつもりですが、だからといって彼女が望むことを叶えられない、そんな狭量な人間ではありたくないとも思います」

 雄三がはっとするように息を飲んだ。



 少しの沈黙の後、氷室が居住まいを正した。その時が来た。自然と幸にもそれが分かり、背筋が伸びた。

「幸さんのお父さん、お母さん」

 呼びかけに、両親の視線が氷室に集まった。

「本日は幸さんとの結婚をお許し頂きたく、こうして伺わせて頂きました。穏やかな幸さんと一緒に、温かい家庭を築いていきたいと心から思い、お願いする次第です」

 一度言葉が区切られる。

 恵美子が手に握りしめていたハンカチで、そっと目元を拭う。雄三は口を真一文字に引き結び、真っ直ぐに氷室を見つめている。決意の程を確かめるようだ。

 氷室もまた真正面からそれを受け、真剣な顔で雄三を見ている。


「その名に違わぬよう、必ず幸せにするとお約束します」


 雄三が僅かに目を見開いた。それまで雄三に合わせていた視線を外し、思わず幸は真横を見た。

 決意に固く引き締まる頬。

 とても演技には見えぬほど。

 その決然とした表情を目の当たりにして、不意に幸の目から涙がぽろぽろと零れ落ちた。


 いつかこの人に伝えたことがあった。自分の名は、「そのようにあれ」と両親が願って付けてくれたものなのだと。何の変哲もないただの会話を覚えていてくれたことに驚き、同時に人生できっと一番大切な約束の場面でそれを口にしてくれる誠意に、ただ心が立ち竦む。

 その優しさに。

 その誠実さに。

 全てを尊重されたことに心が震えて、言葉が何一つ出てこない。

 自分の名前は何の変哲もないと思っていた。ありふれた漢字、ありふれた読み。平均的な人生を過ごしてきた自分に似合いの、本当に普通の名前。

 普通のものに、どうしてこの人はそれほどに重い意味を見出すのだろう。

 どんな日々を過ごしてきたのなら、そこまで他人の気持ちを尊重できるようになるのだろう。

 この人に返せる何かがあれば良いのに、何も持っていない。相手が喜ぶ何かをしたい、今日ほど強く思ったことはない。思うしかできない自分が歯痒い。そういえば、この人が何を嬉しく思い笑ってくれるのかさえ知らない。

 感動する心の片隅に、恥じ入る自分がいる。

 これでよくも「本当に結婚できたら」などと僅かでも期待できたものだと、自分が自分を詰る。誠意を見せてくれる相手に、自分は何一つしてはこなかった。思慮が足りなかった自分にようやく気付いて、けれど過去に戻ってやり直すことはできなくて、結果として自分は大切なこの瞬間に返せる言葉を持っていないのだ。


「……ありがとう。ありがとう、稜君」


 絞り出すような声の向こう、目元を赤くした雄三が顔をくしゃりと歪めながらも笑っていた。


 幸の涙は止まらなかった。

 氷室が無言でそれを拭ってくれることに、悔恨が重なった。「泣くな」と囁くその指がどこまでも優しかった。

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