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舌破り  作者: 東 吉乃


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忍び寄る害意・1


 気持ちの切り替えが上手くできないまま、第一関門の日が来た。

 偽装結婚が順調に滑り出せるかどうか、明暗は今日のこの日にかかっていると言っても過言ではない。少しでも訝しまれたら一巻の終わりだ。努々(ゆめゆめ)気を付け、姿勢を正して挑まねばならない。

 正直なところ、絶対に氷室は隙を見せないだろう。あの人はその程度のことは朝飯前でやってのけるはずだ。であれば不安材料は何かというと、それは即ち幸自身に他ならないのである。最も信用できないのがよもや自分自身だなんて、味方に背中を撃たれるどころの騒ぎではない。

 いつボロが出てもおかしくない、そんな息詰まる一戦だ。

 今日は朝起きてからずっと、折に触れ深呼吸を繰り返してきた。しかし何度やっても気持ちは一向に落ち着かず、それどころか時間が経つにつれてそわそわする。


 氷室さんは稜さん氷室さんは稜さん氷室さんは稜さん氷室さんは稜さん氷室さんは稜さん……


 何度念仏のように呟いたことか。氷室と稜、二つの単語がゲシュタルト崩壊を起こしている。しかしそれでも不安は拭い去れない。うっかり名字を口走ったとしても一発目は誤魔化せるだろうが、二回三回と続ければ、まして言い直したりしようものなら、確実に怪しさが募ること請け合いだ。

 両親との会話についてはもう投げた。そんなもの、あの如才ない氷室に任せておけば何の心配もない。

 ただひたすらに幸が注力すべきは、「婚約者に見える親密さを醸し出すこと」そのものなのである。

 初対面ながら冷静で頭の切れる氷室と、実の娘のくせに最大限にテンパっている幸。両者を比べてどちらがより墓穴を掘る恐れがあるかと問われれば、答えは一択であり満場一致で後者となるだろう。むしろ率先して会話の主導権を握れと命令されたところで、それは確実に踏み抜くと端から分かっている地雷原を全力で走り抜けろと言われるも同義だ。絶対に頷けない作戦、まさにミッションインポッシブル。

 できることを確実に。

 まず一本。

 まだ慌てるような時間じゃない。

 氷室さんなら、氷室さんなら何とかしてくれる。

 どこぞのスポーツ漫画で読んだような、我ながら意味不明な台詞を呟きつつ、幸は時計を見た。さっき起きたばかりなような気がするのに、もうそろそろ家を出なければならない時刻が迫っていた。

 恵美子は早めに家を出ているので、もう雄三の病室に到着した頃合いだろう。幸が氷室を迎えにいく旨伝えると、恵美子は何故かやたらと嬉しそうに笑って、「じゃあ先に行って待ってるわねー」などと言い残してさっさと行ってしまった次第だ。

 どんな展開になるかなど想像もつかない。

 同時に、想像の向こう側にあるものを悶々と思い悩んでもどうしようもない。もう一度幸はリビングの時計を見て、氷室との待ち合わせに遅れないように立ち上がった。



 気もそぞろな幸が合流地点である駅に着いたのは、落ち合う時間の十五分前だった。さして広くはないロータリーを見渡すが、それらしい黒塗りはまだ見えない。そのことに僅か安堵し、幸は駅前に置かれている簡易ベンチに腰掛けた。

 何とはなしに、左手薬指に視線を落とす。

 先日贈られたばかりの真新しい指輪は真昼の光にも負けじと輝いた。見れば見るほど綺麗だ。そして考えまいとしていたことが、否応にも頭に浮かんでくる。


 どうしてそんなに寂しそうに笑うのですか、なんて。


 あの夜、幸が涙を流したその理由。たった一つの問いがどうしても口に出せず、代わりのように零れたのがその雫だった。

 高価であると一目で分かる指輪を事もなげに贈ってくれた氷室は、それを特別なこととは思っていないのだろう。庶民の幸には九割以上が理解できない部分だが、薄く、本当に薄くではあるものの、素直に受け入れて良いことなのだと感じられた。当たり前だと思うのではない。何となくではあるが、氷室は嫌々そうするのではなく本当の厚意でしてくれているのだと信じられたからだ。

 食事もそう。

 誰もがその名を知っているホテルの最上階で、見たこともないような夜景とどれもが美味しい繊細な料理。あれもきっと、氷室の厚意として受け取って間違いない気がする。

 それらの中で、最後にかけられた言葉だけが異彩を放っていた。

「結婚してくれ」

 その一言が、あれほど切なく聞こえたのは何故だろう。そんな未来があればいい、幸が心の奥底で密かに願望として抱いているからだろうか。絶対にないと分かっているくせに、諦めの悪いことながら。

 多分、幻聴だ。

 氷室はいつもと同じ調子で言ったのに、幸の耳が勝手に希望的観測としてそういう風に受け取ってしまっただけ。そそっかしい自分が、常にはない「好き」という感情にふわりと浮かれて、だから。

 心の中で並べ立ててみるも、幸の胸の苦しさは消えなかった。

 本当は違うと気付いている。

 自分の一方的な勘違い、そうであれば良いと切望する。それほどに、初めて耳にした辛さの滲む氷室の声だった。

 けれど気付いたところで、まさか幸にできる何かがあるわけもない。現に、垣間見えた弱さは上書きされた言葉に隠されてしまった。「本当の相手であれば良かったが、」と申し訳なさそうに気遣ってくれた氷室は、もうその時点でいつもの優しい氷室だった。



 と、柔らかなクラクションが二回、すぐ傍で鳴った。幸が顔を上げると、歩道を挟んでその向こうに黒塗りの高級車が停まっていた。助手席の窓が開いており、その向こうの運転席に座ってこちらを見ているのは誰あろう氷室だった。

「すみません、今行きます!」

 少しだけ声を張り上げ、幸は慌てて車に走り寄った。

「ぼーっとしてて気付きませんでした」

 もう一度「すいません」と幸は頭を下げつつ、幸はドアを開けて助手席に乗り込んだ。

「構わない。それより待ったか?」

「いいえ、三分も待ってません。大丈夫です」

 氷室の声に滲んだ申し訳なさを払しょくしようと、幸は慌てて首を横に振った。

 むしろ内心では早めに出てきて本当に良かった、と胸を撫で下ろしている。中間地点で待ち合わせという表向きながら、実態は迎えに来てもらっている。面倒をかけた挙句に待たせるなど、それは本当に申し訳なさすぎる事態だ。

 ともあれ結果オーライである。

 それじゃあ行きましょうか、と道案内をすべく幸が横を見ると、氷室が目を見張った。

「お前、それはどうした」

 眉を顰める氷室の視線は、幸の右手に刺さっている。

「これですか? 実は昨日、帰り道でちょっとコケちゃいまして」

「コケた?」

「はい。特に何も無かったんですけど、すっ転びました。間抜けですよねー」

 あはは、と笑って幸は右手を掲げた。中指と薬指には包帯が巻かれている。その下には湿布が貼られており、実は密閉空間にいると湿布の匂いがふんわりと漂うのだ。別段胸が悪くなるような匂いではないものの、アロマと言えるほど良い香りでもないので、単純に傍にいる氷室には申し訳ないなあと思う。

「臭くてすいません」

「まあそこは……特段気にならないから気にしなくていいが」

 言いつつ、氷室がギアをドライブに入れた。

「とりあえず案内してくれ。詳しくは道々に聞こう」

 え、そこ突っ込むんですか、とは言えなかった。

 幸にしてみれば何もない道で無駄にコケたというだけの、単なる残念な体験でしかない。聞いても面白くもなんともないんだけどなあ、との思いを込めて見るものの、正面に向き直った氷室の横顔は相変わらず端正で、思わず幸は目を逸らした。

 この人は何をしていても大概様になるが、群を抜いて格好良いのが運転をしているその姿だと幸は密かに思っている。

 無言のドライブで緊張を高めるより、失敗談の披露で多少なりともウォーミングアップできれば良いか。

 滑るように走り出した車の中、幸はそう考えて要所で案内を入れつつも、昨夜の自分に何が起こったのかを報告することにした。



「さっきの駅から家まで歩いて十分くらいなんですけど、普通に歩いてたら右足首がぐきってなったんですよ。もーびっくりしました。足首は折れたかと思うくらい痛かったし、いきなりだったんで何も掴むところとかなくて思いっきり前のめりに倒れたんです。そしたら手のつきどころが悪くて、二本も突き指しました」

 不幸中の幸いだったのは、回りに誰もいなかったことである。

 誰かに見られていたら、かなり恥ずかしい状況だった。

「でも左手じゃなくて良かったって思います。うっかり指輪に傷がつくのも嫌だし、結構腫れてるんで外せなくなるところでした」

「そんなに酷いのか? 折れてたりは」

「あ、流石にそれはないと思います。もしそうだったら痛くて寝れなかったでしょうし」

「そうか」

 言葉はいつも通りだが、それなりに鎮痛な氷室の相槌だった。

「そう言えば、さっきの駅でも一瞬危なかったんですよ」

「駅? まさか待たせた間に何かあったのか」

「あー、大丈夫です今日じゃなくて昨日です。電車から降りる時ホームに落っこちそうになって、改札出た後の階段でも足踏み外しそうになって。どっちもぎりぎり大丈夫だったんですけど、その後に何もない道でコケたんで、ぼんやりしてたんでしょうねー」

 ある意味で厄日と言った方が良いかもしれないくらい、昨日の幸は精彩を欠いていた。話題にするには珍しくて良いが、間抜けであることに変わりはない。

 笑い話の態で披露したものの、氷室のことだ。「注意力散漫だもう少し真面目に歩け」くらいの小言が飛んできそうである。予想を立てて幸は若干身構えたのだが、しかしそれは外れた。

 横顔でも分かるほど、氷室の顔が険しくなった。

 何かを深く考えているようでもある。

「……どうかしました?」

 覗き込むように様子を窺うと、氷室は「いや、……」と言葉少なに返してきた。

 歯切れが悪い印象を抱いたが、その後は特に詳細を突っ込まれるでもなく氷室が話題を変えたので、幸もそれ以上気にすることはなかった。


*     *     *     *


「だ、駄目です稜さんちょっと待って下さい」

「ここまで来て今更何を」

「そう言われましても……!」

 幸は左手を自分の胸に当てて、深呼吸した。完全に呆れ顔の氷室は、スーツのポケットに片手を入れて待ちの姿勢だ。

 ここは入院病棟の一階、エレベータホールである。大きな病院である為にエレベータは全部で四基あり、往来する見舞客も多い。邪魔にならないように隅に身を寄せてはいるが、それでも通りすがりの視線がビシバシと飛んでくるのが肌で感じられる。

 そりゃそうだ。

 休日の午後、入院患者への見舞客はそれなりに多い。見舞客は家族や友人、知人がほとんどであるから、気心が知れている。つまり、改まった格好をしているというよりは、常識の範囲内で普段着の人間が当たり前に多い。

 そんな中に、やたらと背が高く(それだけでも一瞬人目を惹くというのに)、無駄に顔が整っていて(よってさらに視線が集まることとなり)、しかもスーツにネクタイ姿の男がいれば、まあ目立つ。

 他でもない隣に立つ幸自身が驚いている口だ。氷室の長身に、ダークグレーのスーツが似合うことと言ったら。それも適当に選んだ云点セット、というお手軽なものではなく、明らかに氷室の体型に合わせて誂えられたものだと一目で分かる。長躯に相応しく肩幅ががっしりとしていて、そこから逆三角形の体型が続く。そのまま下肢に目を転じれば、これまた羨むほど長い足が。当然ついている顔に関しては言わずもがな、故に「え、モデル?」とか「え、何かの撮影?」とか、囁かれる好奇心がそこかしこから聞こえてくるのも無理はない。

 横にいる幸がある意味で一番動揺しているのだ。

 いわゆる制服効果というやつだろうか。初めて見るその姿は、見慣れていないこともあって無駄に幸の心拍数を上げにかかってくる。

 本当に性質の悪い相手だ。ただでさえテンパっているのに勘弁してもらいたい。このまま両親に会いに行ってしまえば、間違いなく幸は何事かをやらかしそうである為、心を落ち着ける為にこうして立ち止まった次第だ。

 しかし当の本人はそんな幸の心情を露とも知らず、ただ怪訝そうな顔で悠然と佇んでいる。天は二物どころかいくらでも与えるらしい、その何気ない立ち方さえも様になっている。

 一度自覚してしまうと色々ときつい。

 周囲から向けられる明らかに羨望の眼差しに、「いいでしょう見て見てこれが(仮とはいえ)私の相手よ」などと優越感に浸るような余裕はない。むしろ「気持ちは分かるが頼むからまさかの目で見るのはやめてくれ、自分の努力で手に入れた人ではないのだから」と叫んでしまいたい衝動に駆られる。ついでに言えばその衝動のお陰で現在の状態が仮初めであることを再認識し、無駄に心を抉られるという一連の様式美を経て今に至る。

 幸の心境はともかくとして、今までも薄く感じてはいたが、如実に理解したのは今日が初めてだ。

「……稜さんて、大変だったんですね」

 今日ようやく理解しました。

 未だ跳ね続けている心臓を手で押さえつつ、脱力気味に幸は呟いた。すると、氷室が「何のことだ?」と首を傾げる。その様子を見て、またしても幸の度胆は抜かれることとなる。

 これだけ注目を集めているというのに、何事もないかのように平然としているなんて。

 それは取りも直さず、こういった状況が氷室にとっては日常であるということを示している。凡庸すぎる幸にはまるで縁のなかった世界で、美しく煌びやかなのだろうと勝手に羨んでいた景色の現実は、実際にはとても居心地の悪いものだった。

「何もしてないのにじろじろ見られるのって、全然嬉しくないんだなあって」

 氷室が目を二度三度瞬いた。やはり幸の言わんとしているところを掴み損ねているらしい。

 幸は思わず苦笑いをしながら続けた。

「稜さん、スーツが凄く似合ってるんです。すいません、実は私もちょっとしばらく見惚れてしまいそうなくらい」

「……そうか? 別に普通だろう」

「んー……普通ではない、かと。気付きませんか? さっきから通る人みんな、稜さんのこと見てます」

「そうか? 全く気にしていなかったが」

 それまで幸にだけ向けていた視線を、そこでふと氷室が周囲に投げかけた。丁度エレベータ待ちをしていた三人組の若い女性がいたが、彼女たちは慌てて目を逸らした。そして聞こえてくる興奮の声は、「やだ、こっち見た!」「何あれ凄いかっこいい」「でも趣味が……」という隠しきれていない本音の数々だった。

 尚、最後の台詞が幸の胸に物凄い勢いで刺さったが、直接言われたわけでもないのに食って掛かるわけにもいかず、ぐっと堪えるしかない。

 密かに凹んでいる幸に視線を戻した氷室は、肩を竦めた。

「良くある話だ、別に気にしなくていい」

「……でも」

「俺の容姿に誰が何を思うのも勝手だが、彼らが俺の苦労を背負ってくれるわけじゃない。横に立つお前に関しても同じことだ。だから何を言われようとも気にする必要などまったくない」

 高い位置から見下ろしてくる瞳は静かで、優しかった。ともすれば苛烈に聞こえる言葉であるがしかし、幸は何も言わず肯定の意を示す為に頷いた。

 出逢ったばかりの頃の幸だったら、そこまで言わなくても、と遮ったかもしれない。

 けれど今はもうそんなことはできなかった。

 ほんの少しではあるが、氷室が経験してきた苦労を知ってしまったからだ。逆の見方をすれば、そんな物言いになるほど氷室の周囲は何もしてはくれなかったということだ。きっと憐れむ必要などないと氷室は言い捨てるだろうし、幸自身も憐れみなんてそんな上から目線な感情など抱けるわけがない。

 そうであるのに、幸の胸はただ苦しくなる。

 過去に向かっての罵倒など届くはずもないのに、何かを、誰かを詰りたくなる。



「そんな顔をするな」

 氷室の大きな手が、幸の頭をくしゃりと撫でた。

 不意の接触に幸の心臓がまたしても跳ねる。

「ほら行くぞ。何階だ」

 幸の手を躊躇いなく捕らえ、氷室はエレベータホールの真ん中に向かって悠然と歩き始めた。気後れしつつも手を繋がれているので、幸もついていく形になる。

 先ほど本音をだだ漏らしにしていた女性三人組は、隣に氷室が立ったことで明らかに落ち着きを失くしている。ちらちらと盗み見をしながら氷室と幸を見比べていることは、好奇の視線でそれと知れた。

 興味本位という慣れない不躾さに晒されて、幸は俯くしかなかった。他にやり過ごし方など知らない。

 丁度その時、エレベータが到着した。開いた扉に、氷室が「どうぞ」と簡潔に言って三人組を先に通した。声をかけられたことに浮き足立ちながら、彼女たちはそそくさとエレベータに乗り込む。その後、期待に満ちた顔で開ボタンを押しているであろう一人が「あの、」と言ったと同時に、背後のエレベータがまたしても到着した。

 「どうぞ」と言っている見知らぬ女性を流れるように黙殺しつつ、氷室は背中を振り返る。見舞い帰りであろう壮年の夫婦が降りてきたのを見て、氷室は踵を返した。

「幸、おいで」

 言いながら、氷室は幸の肩を抱きつつ空のエレベータに誘導する。何事かと慌てて幸が斜め上を見やると、穏やかに頬を緩めた氷室と目があった。

 びっくりした。

 何ですかその春の日差しのような優しい眼差しは、と思わず喉から突っ込みが出そうになった。どう見ても芝居がかっているが、立ち居振る舞いが完璧すぎて、本気なのか遊んでいるのか幸には判断しかねる。

 そんな幸の複雑な心境は、呼びかけとなって口から滑り出た。

「稜さん?」

「わざわざ同じエレベータに乗る理由もないだろう」

 その瞬間、氷室が三人組にちらりと向けた視線は打って変わって無機質だった。

 


 乗り分かれたエレベータ内、七階へとゆっくり上昇する間に幸は尋ねた。

「もしかして聞こえてました?」

「何のことだ」

 すっ呆けた言葉が氷室から飛び出てきた。幸が向けている疑惑の視線に気付いていないはずがないくせに、まるで聞こえません風を装って階数表示を眺めている。

 これは多分、どれだけ問い詰めても白状しないつもりだ。

 であれば、幸は幸で直球をぶん投げるしかない。

「……ありがとうございます」

 小さく幸が呟くと、氷室が視線を寄越してきた。

 目が合ってから三秒ほどの沈黙の後、長い手が伸びてきて、同じく長い指が幸の前髪にそっと触れた。

「礼などいらん。傍にいるのが俺でなければ、こんな面倒な思いはしなくて済んだ話だ」

「違います、稜さんのせいじゃないです」

 語気を強めた幸に、氷室が僅かに目を見開いた。

「どっちかって言うと、私が稜さんにつり合う顔だったら良かっただけの話です。むしろ分不相応なのは私の方で、なんかもう、ほんとにすいません」

 言いながら、幸はがっくりと肩を落とす。

 分かっている。小さい頃から見慣れた自分の顔は、嫌悪されるほど醜悪ではないが、同時に目を引くような美麗さもない。囲まれるようにモテた経験は無いが、それでも一人は幸のことを好きだと言ってくれた人もいた。本当に、普通で平凡という言葉が似合いだ。

 退っ引きならない事情がそうさせているだけであって、本当は氷室の方がこんな面倒事に関わらなくても良かったのである。

 せめて幸がもう少し容姿に恵まれていれば、また違った結果になっただろう。そうではない時点で、幸としてはひたすら平身低頭の心持ちだ。

「せめてもう少し美人だったら」

「どうだろうな。そのままがいいと思うぞ」

 氷室の呟きと同時、エレベータが目的の七階に到着を告げた。

 開いた扉に気を取られ、その言葉の真意は尋ねられないままとなってしまった。

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