その後の氷室の夜・後
「いーじゃん結婚すれば」
ソファに戻ってプルタブを引いたと同時、慶次が軽く言った。
思わず氷室は目を見張ったが、一瞬考えて意図に気付く。変化球だがこれに引っかかるほど付き合いは短くない。
「と、誰が言ってるんだ。シロか、それともつーさんか」
「あれ。俺だとは思わないの?」
「お前はそもそも今回の件に関して反対だっただろう」
偽装結婚、止めはしないがやめておくに越したことはない。そう言ったのは他でもない慶次だ。たかだか数日で急に鞍替えするとは到底思えないわけで、そうすると別の誰かが言っていると考えるのが筋だ。
肩を竦めた慶次は、あっさりと答えを吐いた。
「つーさん」
「……だろうな」
予想通りだ。
自分の先祖をつかまえて言うのも何だが、つーさんこと豪は神格級のシロとキンを従えているあたり、冗談抜きでかなり強力な守り人だ。その辺を適当に彷徨っているような類は氷室に近づくことさえままならないらしい。というか、多少腕に覚えのある輩が悪巧みをしたところで、そもそもつーさんに決闘を申し込む前にシロとキンが相手を「ぶっ飛ばす」もしくは「千切っては投げ千切っては投げ」無双をしてしまうので、鉄壁というか盤石の守りなのである。
一族の中で「力を持ちながら見えない目」というのはともすれば火種ばかり引き寄せがちになるが、氷室自身はつーさんのお陰で面倒事はまったくと言ってよいほど経験がない。
だがこの守り人、いかんせん軽い。軽すぎる。
明治時代出身のくせに「いーじゃん」など、新しい時代に順応するにしても程がある。
「危ないかもよ」
と、存外に真剣な声が慶次から発せられた。
自由奔放な先祖にどうしたものかと頭を抱えていた氷室は、思わず顔を上げて慶次を凝視した。今のはつーさんじゃない。多分、慶次自身の言葉だ。
「危ないって、何が」
「さっちゃん」
「何故だ」
「あの子優しいだろ。足、引っ張られやすい性質だ。そのせいであの子の背中には今誰もいない」
「誰もいないだと?」
驚きのあまり、氷室の声は僅か高くなった。
どんな人間にも背中に立つものは必ずいる。氷室一族のように異能を持つ人間などは三人が多いが、一般人であっても一人ないしは二人が普通だ。
「そんな状態があり得るのか」
「俺が見たのはさっちゃんで二人目。珍しいっちゃ珍しいけど、あり得ないわけでもない」
「その一人目とやらはどうなったんだ」
「んー、聞きたいか?」
慶次の眉が八の字に下がった。あまり楽しそうな話ではないが、乗りかかった船だ。従業員兼仮とはいえ婚約者が危ないと聞いてしまっては、氷室としても放っておくわけにもいかない。
「参考までに聞いておく」
「交通事故に巻き込まれた。一命は取り留めたけど、結構重い後遺症が残ったよ」
婉曲に語尾が濁されたが、芳しくない状態だったのだろう。骨折程度で済んでいるのなら、それを言えば良いことだ。
「……そうか」
思わず深いため息が出た。
例えば世の中の交通事故全てが、そういった常ならざる世界からの干渉を受けているとは言い難い。だが逆に、そうと気付いていれば避けようのあるのが、あちらの世界絡みの事故でもある。
「そもそも何故そんな状況になっているのか分かるか」
幸の背中に今、誰もいないという特異な状況。今というからには、過去のある時点まではいた筈だ。
「うーん……どうも半年くらい前まではいたみたいだな。親父さんが体調はっきり崩したくらいのタイミングまで。影響がさっちゃんにも出そうだったところを気合で跳ね返したらしいけど、どっちかっつーとほぼ相討ちってのが正しいかな」
慶次の視線は氷室の頭上にある。
おそらくつーさんにでも訊いているのだろう。
「その時には一人しかいなかったから、誰かに引き継ぎもできなかったっぽい」
「引き継ぎ?」
「そう。紹介状とかそういうイメージで、縁故のある誰かに『後は宜しく』ってね。それができてりゃ空白期間はなかっただろうけど、正直そんな悠長なことしてられないくらい切羽詰ってたみたいだ……親父さん、随分悪いんだな。いずれにせよこういう場合の後任は抽選になるから、しばらくは期待できんわ」
「そういう、……システムなんだな」
紹介状とか抽選とか。
一般人よりは接する機会が多くて慣れているとはいえ、周波の合わない世界の話は時として飲み込むのが難しい部分もある。まあ理解度については説明者が誰なのかにもよるのだろうが。
どうにか飲み下した氷室に対し、慶次は、
「そう。そういうシステムなの」
と、あっさり言い切った。
「つまりすぐに状況は改善しないということは分かった。何とかならんのか」
「つーさんの言う通り、結婚するのが一番手っ取り早いぜ?」
そうすればシロもキンもつーさんもやりたい放題できるのだ、と。やりたい放題というと悪事の方向にしか想像が働かないが、彼らの力を考えると――向かうところ敵なし「無双」という意味で――その表現もあながち間違いではない。
だが氷室としてはこの提案に「はい分かりました」と簡単に頷くわけにはいかない。
「却下だ。相手のある話であって実現性は限りなく低い」
「しょっちゅう背中が代替わりした挙句に最後の一人まで吹っ飛ばされたさっちゃんのことを考えたら、一番良い案なんだけどねえ」
そこで気になる単語が耳についた。
「……代替わり?」
「言っただろ、足を引っ張られやすいって。そういうのからあの子を守るために、今までも結構な数、殉職してるみたいだぜ。既に彼岸にいる相手に殉職って言葉使うのが正しいかどうかは分かんねえけど。あの子が今まで平和に暮らしてこれたのは、後ろが必至に頑張ってきたからだな。余計な干渉を受けやすいっつー意味ではあまり良い星の下には生まれなかったみたいだけど、一方で『幸』って名前が後ろの庇護を受ける形でまんま幸せを呼び込んでたわけだ。それにも限界が来たけど、そのタイミングで兄貴と出会ったんだろ? 縁ってすげえよなあ」
慶次は一人で勝手に納得して、うんうん、と再三頷いている。
お前、反対派だっただろう、と。
心の中で呟いた氷室は、自然、胡乱な目になっていたらしい。様子を見て取った慶次が肩を竦めた。
「俺はね、兄貴が貧乏くじ引かされることに反対してるだけであって、幸せになれるんだったらそりゃあその方が良いと思ってるよ。そこ勘違いしないでくれよな」
直球の心配に、氷室は返す言葉がなかった。
「脅かしたけど、差し当たって向こう一ヶ月は心配ご無用」
飲み乾した缶を片手で潰しつつ、慶次が沈黙を破った。
「どういう意味だ?」
「シロとキンの子分がさっちゃんの後ろにいるから」
「……は?」
氷室の知らない間に一体どういう流れでそうなったのだ。
完全に分かっていない氷室に、慶次は掌一杯のバタピーを差し出しつつ解説を始めた。
「当座の代理みたいなもん。親分には及ばないけど力はそこそこだし、二匹だし、今までに比べれば破格の条件になったと思う。それもこれも婚約したお陰で縁が繋がったから出来る芸当ってやつな」
これが本当に結婚したとしたら、本家本元のシロとキンも自由に力を貸せるようになる。慶次はそんなことを呟きつつ、しかし今度は特に勧めるような真似はしなかった。
その代わり、真面目な顔で独り言の態で続きがあった。
「兄貴とさっちゃんはさ、内実はどうあれ形式的には家族の一歩手前の状態なわけ。それも普通に考えればこのまま普通に家族になるっていうね。そうすると、力を持っている側としては極力守ってやりたくなるのが普通の感覚でしょう。逆に言えば、つーさんが問答無用でその決断をするくらい、さっちゃんは今危ないってことだけどな」
さらりと出された爆弾発言に、思わず氷室の目は険しくならざるを得なかった。
慶次の様子は当面の守りは大丈夫としながらも、最後まで一片の曇りなく楽天的とは言い難い。何かが起こってもおかしくはない、そんな一抹の不安が氷室の胸をよぎった。
* * * *
期限は氷室にも分かっている。
婚約で繋がった縁だというのなら、切れる時分は明白だ。だがそれを認識していて尚、今すぐにはどうとも言えそうになかった。
幸のことは悪くは思っていない。多少抜けている部分はあるが、彼女の真面目な性格や他者への優しさは賞賛されて然るべきだと思う。自身を良く見せようとして取り繕うような真似も一切せず、分からないことは素直に分からないと相手に訊くことのできる正直さを持っている。
直球勝負のみだが、いっそ清々しい。
彼女と過ごす時間を表すとすれば、「穏やかに安らぐ」それ以外に適当な言葉が見つからない。
好きかと訊かれれば嫌いではないと答えるだろう。愛しているかと問われると返事に窮する。自分などよりまともな男は世の中にごまんといるだろうから、悪いことは言わないそちらにしておけ、と先に出そうだ。
強く印象に残っているのは、氷室の為に泣いてくれたことだ。
涼月からの帰り道、流れで立ち寄った実家で、自分が持つ特異な力の存在を打ち明けた時。
覚悟は決めていた。結果としてバイトを辞めると幸が言い出したとしても、引き留めはしないと心に誓っていた。そんな決意を隠しながらの氷室に、幸は「嬉しい力だ」と言った。
たかが一言と人は笑うだろう。
それでも氷室は救われた。
切り捨て続けてきた人間関係。おそらく今回もそうなるだろうと予測していながら、そうはならなかった初めての相手だった。
助けてやれるものならそうしてやりたいと思う。
大前提である気持ちの部分は、相応な時間をかければやがて育まれそうな下地があるとも思う。少なくとも氷室の側には。そして裏ルートではあるが、幸の方にも土台が築かれつつあるというのも承知している。だから多分、氷室さえその気になれば、慶次やつーさんの主張することは意外と現実味を帯びている。
問題なのは氷室があと一歩を踏み込めないところにある。
自信がない。
顔は整っていると理解している。だがそれが最初の理由に来ると、終わりの理由もまた同じとなる。簡単すぎる動機は、肝心要の勝負時には防波堤にも何にもならないことを、経験は声高に主張する。
金は唸るほどある。どう贔屓目に見ても人生数回遊んで暮らせる程度には。だがこれも、先人が「金の切れ目が縁の切れ目」という至言を残している通りで、強い絆にはなり得ない。場合によっては人間関係に太い楔を打ち込むことにもなる。
誰かと人生を重ねようという決意そのものは簡単だ。
だが何を以ってして人は、その決意を最期まで貫き通せるというのだろう。
それが氷室には分からない。これほど分かりやすい容姿や財産という目に見える形のものでさえ、いざという時に何の役にも立たないのだ。一体何に対してなら永遠を誓えるというのだろうか。
変わらずに在ることを誰に誓う。
誰が保障してくれる。
誰かが誰かの一生を誓うほど、己に価値があるとは思えない。いつか宣誓が破られて痛い思いをするのなら、もう、最初からそんな約束などしたくはない。
そういうことを考えてしまい、氷室は身動きが取れなくなる。




