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舌破り  作者: 東 吉乃


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その後の氷室の夜・前


 氷室がマンションに戻ったのは、夜の十時を回ってからだった。

 結は疲れて寝てしまっているだろう。環境の変化もさることながら、間違いなく慶次が全力で遊んでくれているはずだ。熊のような体格で傍目には威圧感たっぷりだが、慶次は男女問わず子供に何故か受けがいい。それは娘の結も同じで、今日のような短時間の留守番ならば何の心配もない。

 玄関の鍵を開けて中に入ると廊下の電気は消されていた。リビングに繋がる扉は閉じられていて、四角い飾り窓から光だけが漏れている。はしゃぎ声や暴れる音は聞こえてこないので、予想通り結は夢の中らしい。

 そっとリビングの扉を開けると、ソファに座る慶次がいた。

「ただいま」

 この台詞を吐くのはかなり久しぶりだ。都合一年以上言っていないはずだ。誰も待っていない暗い部屋に戻っても、ただいまという気にはなれなかった。

 他人事のように少し驚きを感じながらの氷室の声に、慶次が顔を上げる。氷室の帰りを認識した慶次は、見ていたらしい雑誌をテーブルの上に放り投げた。

「おーお帰りー」

「結……は寝てるんだろうが、お袋は」

「一緒に撃沈」

 言いながら、慶次が玄関に向かって指を差した。どうやら物置にしている部屋に布団を敷いたらしい。

「悪かったな」

「可愛い姪の為ですから。どうせ時間に自由が利く自営業ですし?」

 わざと丁寧な口調をしてみせつつ、ついでに「家政婦として雇われてやってもいいけど?」などと言う。氷室が一言「頼む」と言えば、この弟は普通にやるであろうことは目に見えている。一瞬――本当に一瞬、頷いてしまいそうになった自分を叱咤しつつ、氷室は目を眇めるに留めておいた。

 正直なところ、急に始まった娘――結との新しい生活をどう軌道に乗せるか、考えあぐねている。

 手放すつもりは毛頭ない。だがこれまで月に数回しか会っていなかった相手が突然毎日一緒に暮らすとなっても、色々な準備がまるで整っていない。ただでさえそうなのに、まして氷室自身は偽装結婚などという、これも平時ではまずあり得ない特殊な状況下に置かれてもいる。

 よって、慶次の言った通り、取り急ぎ氷室は自営業の家族を頼った。

 氷室を含め四人の子供を育てた専業主婦の実母と、仕事の依頼が来ない限り時間に融通の利く弟。これ以上は望むべくもない布陣だ。

 ちなみに慶次の仕事は父親の真が今は完全に上位互換なので、三か月でも半年でも頼めば力を貸してくれるだろう。おまけに運転手やら荷物持ちやら遊び相手やら、便利というか使い勝手が大変に良い人材でもある。

 氷室自身の仕事も、極論を言えば一月二月休んだところでどうとでもなる。だがそれでも男親一人では生活を整えられる自信が薄かった上に、色々な手続きやら何やらでずっと結と一緒にいてやれるわけでもない。

 であるから、家族の存在がこの上なく有難く身に染みる。

「……すまん。面倒かける」

 気持ちは素直な言葉になった。しかし慶次は笑って、大きな手をそれはないない、と振った。

「気にしなくていいと思うぜ。親父なんか『これも修行だ』とか適当なこと言ったし」

「俺の面倒を見るのが修行?」

 思わず氷室は怪訝な顔になった。

 確かに慶次は父親であるしんの跡、つまり氷室家代々の家業を継ぐ為に修行中だ。それは真と一緒に依頼主のところに出向いたり、どこぞの滝壺やら風洞やらに赴いたり山に籠ったり、傍から見れば理解に苦しむようなことをまあ色々とやっている。

 だが実の兄と姪の面倒を見ることが修行になるとは、これまでと随分毛色が違う。氷室が首を捻っていると、慶次がからりと一つ笑った。

「好きなだけいればいいってさ。俺も最初は意味分かんなかったけど、こっち来たら成程なーって思ったわ」

 色々と大切な部分が省略されすぎている。

 氷室の一族全般に言えることなのだが、代々受け継ぐ能力のお陰で一般人より少しだけ多くのことが見えたり聞こえたりする分、感覚的な言葉選びになって宜しくない。

 一切合切含めて「成程」とは何なのだ。

「順を追って話せ」

「いいけど、とりあえず風呂入ってきたら?」

 俺はもう入った、という慶次の遠慮ない言葉に納得し、言われた通りとりあえず氷室は風呂に入ることにした。


*     *     *     *


 所要時間はいつも通り二十分程だった。氷室が風呂から上がってリビングに戻ると、慶次が一人晩酌を始めていた。

「兄貴も呑むだろ」

 氷室が返事をする前に、慶次はさっさと立ち上がり冷蔵庫へと向かう。特段断る理由もないので、渡されたままに氷室は缶を手にソファに腰かけた。

 ついでとばかりに二本目を持ってきた慶次は、テーブルを挟んで向かい側の床にどっかりと座る。

「それにしても色々と面白いことになってるねえ」

 またしても慶次は大雑把な言葉を投げて寄越してきた。

 面倒な前置きを飛ばして早速本題に入ったのは褒めてやりたい。だが同時に、相手にも分かるように情報を適宜開示するという能力について、この弟には全くもって期待できないのもまた事実だ。

 仕方なし、行間の空白を埋めるが為に氷室は口を開いた。

「色々?」

「うん。色々あるけど、とりあえず泣かしちゃまずいんじゃねえのー?」

 含みかけたビールの一口目が、結構な勢いで缶に戻った。俗にいう「噴いた」という状態に近い。

 むせながらどうにか氷室が視線を戻すと、悪びれもせず慶次が小首を傾げた。

「シロがご立腹。キンはそれ見て慌ててるし、つーさんはそれ見てにやにやしてる。兄貴の後ろが今カオスで、すごい見もの」

 思わず氷室は慶次を凝視した。

「あー、うん。真面目に修行してたせいか知らんけど、お陰様で前よりはっきり見えるんだわ。文句もよーく聞こえる。俺ってば意外と成長してるんだなー」

 だから聞きたいのはそこじゃない。

 やっぱり言葉足らずな慶次に、思わず氷室はため息が出た。

 一応、今名前の挙がった三者のことは知っている。氷室の後ろに立つ者たちだ。そういう意味で知っていると言うと語弊があって、その存在があることは承知している、直接目や耳で認識したことはないが、とした方がより正確かもしれない。

 実際のところ、氷室が彼らを見たことは一度もない。

 慶次と違って氷室自身はそういう才能には恵まれていないからだ。この点は、こういった異能を持たないながらも信じてくれる一般人から結構な頻度で誤解されている部分でもある。結局のところチャンネルというか周波が合うか合わないかという至極単純な話であって、氷室にしてみればできることできないことがあるのは当たり前の感覚なのだが、持たざる者はどうも一つできれば十できると想像してしまうものらしい。

 話が逸れた。

 ともかく見えないながらも氷室がその存在を信じるのは、やはり父と弟がまったく同じことを言うからだ。ちなみに見るだけなら母の志乃もできるが、彼女の力を以ってしても「対話」はできない。志乃は「傾聴」によって相手の意をくみ取ることはできても、志乃自身の考えや想いなどは相手に伝えられない。

 それはさておき。

 目下のところは氷室の背中が騒がしい件について、事実関係を確認する必要がある。



 シロとキン。学名ニッポニア・ニッポンと呼ばれる某鳥にそういう名前がいたが、それは余談であってかつ完全に別物だ。

 彼らを説明するとしたら、姿形は狐のような狼のような毛並みの良い二匹だ。鳥とはかけ離れた、あくまでも四足の。夏冬問わず通年でもふもふしているらしく、毛色が真っ白と金色ということで便宜上つけられた名前がそれである。普段の彼らはそれなりに名の知れた山を守るものだそうで、ちょっとした神格級であるというのは父親である真の談だ。

 そんな二匹が何故氷室の後ろにいるのかというと、そこで後ろに立つ三人目が絡んでくる。

 通称つーさん、本当の名前は氷室 つよし。名前で分かる通り氷室の先祖である。どうも明治初期の頃の「緑の手」だったらしく、同じ力を持って生まれた氷室の背中に立つことに決めたらしい。

 同じとは言ってもどうやら氷室より器用だったようで、薬の知識に長けており、現代で言うところの医者と薬剤師を足したようなことを生業にしていた、というのは本人談だ。治療の過程で使う薬草を取りに行っていたのがシロとキンの山だったということで、そこからどういう経緯を挟むのか不明だが最終的につーさんは生きている時から件の二匹を子分にしていた、らしい。

 どこまで本当かは分からない。

 子分というのがどういう状態を指すのかも氷室には皆目見当もつかない。

 だが少なくともシロとキンはつーさんに逆らうことなど一度もなく、見た目は完全に手懐けられた狛犬とかそういうアレ、らしい。尚、同じような外見と力のくせに、シロとキンの間にも明確な力関係が存在している、らしい。何故かキンはシロに頭が上がらないようだが、その理由は定かでない、らしいとも。

 もう一度言うが、どこまで本当かは分からない。

「シロが何に腹を立てていると言うんだ」

 結局氷室は彼らの姿を見ることはできないし、話すこともできない。

 よって慶次に通訳を頼むしかないのである。

「さっちゃん泣かせたこと。信じられねーって」

「それは……別に、わざとではなくて」

 いきなり直球で指摘されたことに対し、ものすごく歯切れの悪い言葉選びとなった。

「いくら偽装とはいえ俺が相手で不憫だと思ったからこそ、できる部分だけでもせめて人並みにと思ってだな」

 率直に言えば金にはまったく困っていない。億単位の無駄遣いはどうかと思うが、それも実際のところどうかと思いはしてもやろうと思えば可能だ。

 「緑の手」そのものは手放しに褒められた力ではないが、いざという時に困っている相手に差し出せる選択肢として有益であったことを考えると、良かったとは思う。別に悪徳商法のつもりは毛頭ない。であるからして、依頼に対する報酬は志納の形をとっているのだ。氷室としては極論、言葉の礼だけでも特段構いはしないのだが、そこはどうにも相手次第の色が濃い。社会的地位のある者、先生と呼ばれるような世界に住む者には逆に面子というものがある。

 結果として依頼者と氷室の双方に互恵の形となる。

 結果としてそれが今回の騒動においても利することとなった。

 人助けができた。

 良かった。

 そう、良かった。

 そのことは否定できようはずもない。だが同時に、心の片隅にある小さなささくれにも気付いている。

 気持ちの伴わない儀式。まるで埋め合わせるように、高価なものを贈って。過去二回を失敗している自分は、三回目の資格など無いと戒めながら。


 過ぎた願いだ。

 真っ当な家庭を持ちたいなど。


 偶然というか、結を育てられることになったのは不幸中の幸いだった。与えられた幸運に感謝して、これ以上は望むべくもない。

「偽装って言うけどさ、実際のところはどうなの」

 電話相談の時に相手を伏せたのも束の間、今般の緊急事態に対する救援要請時に、どういった事情で誰と偽装結婚をするのかを氷室は説明せざるを得なかった。

 前情報を与えているが為に、四の五の言わず今日も見送ってくれたのは承知している。

 承知してはいるが、逆に面と向かって突っ込まれるとどうも塩梅が良くない。説明する為の言葉選びが非常に難しい。

「実際も何も、偽装は偽装だ。あくまでも幸の親父さんを安心させる為でしかないし、俺は今後誰とも結婚するつもりはない。そもそもあいつにだってそんな気持ちなんぞない」

 咄嗟に嘘が出た。

 何故かは分からない。少なくとも今言えることは、秘められた想いを勝手に口にするのはルール違反だということだ。それ以上でも以下でもない。きっと、いや、絶対に。

「ふうん」

 ビールの缶を傾けつつ、慶次が小首を傾げた。

「もしさっちゃんが兄貴のこと好きだったら、シロが怒るのもしょうがないけどねえ」

「それはない。絶対に」

「言い切るねえ」

「……慶次、お前」

「ん、何?」

「親父に似てきたな」

「えーどこが」

「そういう物言いが」

 思わず氷室はため息を吐いた。

 この、何もかもを見透かしていそうな言い方は真にそっくりだ。そして実際どこまで何を知っているのかは、本人たちのみぞ知る。氷室としてはこれだけ色々な相手と話ができるのだから、色々なことを知っているのだろうと思っている。ただそれを口に出すか否かはさじ加減一つでしかなくて、だからこそうっかりこちらが説明してしまいそうになる絶妙な言葉を選んでくる。

 慶次は首を傾げてとぼけつつ、つまみのバタピーをぱりぱりと食べている。

 旨そうに食べるものだ。

 横目でそれを見つつ、氷室は二本目を取りに立ち上がった。


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