溢れる光の先に見る、絶対に来ない未来
「ご来店誠にありがとうございました。檀様にもどうぞ宜しくお伝え下さい」
店の外まで見送りに来てくれた支配人――実際はその肩書きかどうか定かでないが、既に幸の中ではその認識となった――は、やはり折り目正しく四十五度で深々とお辞儀をした。
こういう世界に慣れていないというか、初めて足を踏み入れた幸はただもう挙動不審になるだけだが、一方で氷室はというと軽く「ええ」と応えるだけだ。
豪快に購入するような所謂VIPとなると、こういう対応が普通なのだろうか。
あの目が潰れそうに眩い婚約指輪に加えて、氷室は当初の宣言通り一対の結婚指輪も幸に選ばせてくれた。後者はさすがにきんきらきんではなく落ち着いたデザインだが、だからといって安いとは到底思えない風格を漂わせていた。両者を合わせると、絶対にウン十万円では済まないと思う。
「ではまた」
「お気をつけて」
簡単な挨拶で、氷室は振り返りもせずさっさと歩き出す。何故か当然のように、幸の右手を握ったまま。
焦りつつも幸は思わず何度も後ろを振り返った。支配人はまだ頭を下げたままだ。一体いつ上げるのだろう。気になって気が気でない。およそ三十メートルくらい進んだあたりでようやく彼は姿勢を正したが、やはり店内に戻る素振りは微塵も見せず、その場で微動だにせず幸と氷室を見送っている。慌てて幸が振り向きながら頭を下げると、支配人は今度は二十度くらいのお辞儀を返してくれた。
すごい世界だ。
これがプロ意識というものなのだろうか。
「あのっ、ひ……じゃなかった、稜さん」
振り返りながら歩いていたせいで、一歩遅れた斜め後ろから幸は呼びかけた。高い位置からやや振り返り気味に視線が降りてくる。
「私、何年くらいただ働きしたら釣り合いますか?」
「は?」
氷室にしては珍しい相槌が出た。
「あんな綺麗な指輪、お値段とかもう見当もつかないんですけど、十年あっても足りないんじゃないかなって」
「別に気にしなくていい」
「は!?」
今度はいつも通り幸の素っ頓狂な声だ。同じ「は?」でも随分と違うのは致し方ない。
氷室はというとさっさと前に向き直って、「おはようございます」と同じくらい普通なトーンで二の句を継いだ。
「気にしなくていい。檀が世話になってる関係だからたまには礼もしなくてはならないんだが、生憎あの手を身に着けるような人間が氷室の家にはいない。丁度いい口実でむしろ助かった」
そういえば氷室の妹である檀はものの目利きが得意で、石を扱う仕事をしていると言っていた。名の知れたブランド店に直接石を卸しているとは思えないが、石の業界繋がりで何かしら深い関係があるであろうことは、支配人や氷室の言葉からもそれと知れる。
だからといって、素直に頷いて良いのか。
それは何かが違う気がする。
かといって、これ以上言い募ったとしても氷室が頷くとも思えない。
色々な思考が幸の脳内を駆け巡るばかりで、言葉にはならなかった。繋がれた手を振りほどくこともできずに、エスコートされるまま幸は車に戻ったのだった。
* * * *
次に辿り着いたのは、やはり幸でも知っている某有名ホテルだった。
先ほどとは異なり、今回は正面玄関に氷室が車を横付けする。停車と同時に間髪入れずドアマンが二人寄ってきて、一人は助手席の扉を丁寧に開け、幸が降りるのをエスコートした。
氷室はというと、もう一人のドアマンと二言三言言葉を交わした後、車を降りた。
流石に男性に対してエスコートはしないようだが、それでもドアマンの礼儀正しい振る舞いが歓迎の意をしっかりと伝えていた。
「行くぞ」
「え、でも車は」
幸が振り返ると、先ほどのドアマンが氷室の車に乗り込むところだった。
どうやら持ち主である氷室の代わりに、然るべき場所に移動させてくれるらしい。名前は聞いたことがあるが、こんなVIP御用達のホテル利用したこともないので、そういうシステムであることを初めて知った。
へえそうなんだ、すごい、至れり尽くせり、と。
庶民丸出しの感想を抱きつつ納得し、幸が正面玄関に向き直った時のことだった。
氷室が待っている。
左手を、幸の方に差し出しながら。
当たり前のような顔でそうする氷室に、幸は大いに戸惑った。
差し出されている氷室の手は掌が上に向けられている。ということは、多分幸の掌を重ねるのが正しい作法なのだろう。だがしかし。何の疑問も抱かずにそうするには、いささか幸自身の経験値が足りなさすぎた。とりあえず、絵や小説から抜け出てきたような完璧なスタイルを誇るこの人が自分の連れとか、今もって信じ難いというのが現在地点だ。
「大丈夫です、一人で歩けます! 迷子には多分なりませんから!」
「迷子ってお前……」
完全に呆れている声で氷室が言った。
「もし迷子になったとしても、その時は携帯に電話しますから!」
だから大丈夫です、と幸は威勢よく説得を試みたが、それは氷室のため息一つで流された。
「そういうことを心配しているわけじゃなくてだな」
氷室が心底残念そうな顔をする。
必死に頭をフル回転させて導き出した予想は完全に外れたらしい。
「違うんですか?」
「こういう場所でエスコート無しで女性を歩かせる男がいるか」
「それは、ええと、そういうものなんでしょうか。すいません良く分からないんですけど」
「そういうもんだ。まあそれだけじゃないが……いずれにせよ言う事は聞いておけ」
言うが早いか、氷室が一歩踏み出して幸の手を引いた。
この流れ、今日で一体何回目だろうか。触れられている部分がやたらと熱いような錯覚に陥る。どうしてこの人は、これほど何気なく距離を詰めるのが上手いのだろう。
少しだけ先を歩きながらも、歩調を実は幸に合わせてくれている所とか。
振りほどけない強さで握られる手は、でも痛くはない所とか。
そういう作法であるとしても、洗練されすぎていて幸としては気後れするばかりだ。そうしてまごついている間に、広いロビーを横切り、氷室と幸はエレベータへと乗り込んだ。
最上階のレストランで通されたのは、夜景が一望できる窓際の静かな個室だった。
週末でもイベントでもない平日夜のせいか、そこまで人は多くない。時折耳に届く別テーブルの話し声や食器の音は遠く、氷室と幸の会話を邪魔するものはない。
夜景を彩る光の粒が、さながら宝石箱のようだ。
普段は見られない景色に見惚れている内にオードブルが運ばれ、食事が始まった。幸自身はテーブルマナーが甚だ怪しかった――フォークが左、ナイフが右手程度の知識しか持ち合わせていない――が、「あまり気にしなくていい」と氷室が気遣ってくれたお陰で、手が震えて食器を取り落とすような失態は犯さない程度に落ち着くことができた。
前菜から続くスープ、魚料理と続く食事の間は、拍子抜けするくらい他愛ない話をしていた。
氷室が披露してくれた彼の弟妹の話や、互いの学生時代がどうだったか。偽装結婚の「ぎ」の字も出ず、場所がいつもの事務所ではないというだけの、全くいつもと同じ流れだった。
誰がどこからどう見ても、デートにしか見えないだろう。
けれど実際はそうじゃない。
そんな現実が圧し掛かり、幸の心は沈む一方だった。美味しくないはずがないメインの肉料理さえ、味気なく感じる程。
表面上は何気ない会話を続けながら、幸の喉には何度もせり上がってくる問いがあった。
どうしてここまでしてくれるのですか、と。
結婚の真似事を頼み込んだのは他でもない自分だ。氷室はそれを受けてくれた。だから、経験がなくて思慮が足りない部分はあれども、色々と面倒をかけるのは最初から分かってはいた。
けれどそれは、こんなにも優しくされて然るべきと思っていたわけではない。
もっと適当にそれなりで良かった。これほど何もかもを委ねさせてもらえるなんて、想像もしていなかった。
今日の一日だけで、少しずつ胸が苦しくなってきている。氷室の一挙手一投足、言葉の一つ一つが優しくて、けれどそれは決して本物の気持ちなどではなくて、嘘であっても大切にされていることが嬉しくて、けれどこれは期限付きなのだ。そう自分に言い聞かせる度、身体が締め付けられて軋む。
目の前に置かれたデザートを見ながら、幸の胸が詰まった。
ただの芝居なのに、どうしてこんなに大事にしてくれるのですか、と。
氷室の方にそんな気持ちなど無いことは分かりきっている。分かりきってはいても、この優しさの裏に僅かでもありはしないかと希う自分がいる。そんなこと、絶対にあり得ないのに。
答えが見えていることを訊くのがただ、怖かった。
フルコース締めくくりのデザートも終わり、時刻は九時になろうかという時分だった。もう何も出てこないだろうと思っていた幸の予想とは裏腹に、お盆を携えたウェイターがそっとやってきた。
そして小さな箱を幸の目の前に置く。
ウェイターは穏やかな笑みを浮かべつつ一礼し、何も言わずに退出した。
「……これ」
幸の口からは戸惑いが零れた。
小箱は純白のテーブルクロスの上、レストラン内で絞られた照明が作る光の輪の中心に置かれている。周囲が暗く、さながら舞台に当てられた一筋のスポットライトの中に立つ女優のようだ。
「開けたらいい」
静かな声に幸が視線を上げると、至極真面目な顔をした氷室と目が合った。
もう一度、手元に視線を落とす。暫時迷った後、幸は物言わぬ小箱にそっと両手を添えた。左手で支えながら、右手に少し力を籠める。固く閉じられていたかのように見えた蓋は、その外見とは裏腹にいとも容易く開いた。
光が煌めく。
綺麗だというただ純粋なその感情が湧き上がる。降りてくる光に、力ある石がまるで応えるように輝く。
目を奪われていると、一筋の影が差した。見上げると、いつの間にか氷室が傍に立っていた。そのまま端正な長い指が、小箱の中で輝く指輪に触れる。
「幸」
氷室の左手が、幸の左手を取った。
「……稜、さん?」
何をするつもりなのだろう。
思考が停止した幸は、まるで他人事のように成り行きを目に映すしかできなかった。
指輪を携えた氷室の指先が、幸の薬指に触れた。左だ。それは今まで一度も指輪を通したことのない場所。
ゆっくりと指輪は奥へと進められていく。
最奥に辿り着いた時、氷室の手はすぐには離れなかった。何かを確かめるように、優しく、幸の薬指に二度三度、撫でるように触れた。何かを囁くように見えたのは、目の錯覚だろうか。
「結婚してくれ、と……言っても詮無いが」
氷室が苦笑した。
「どうして、ですか」
かろうじて幸が出せたのは、途切れ途切れの言葉だった。
言葉を受けて、氷室が幸の頭を二度、ごく軽く叩いた。
「……俺が本当の相手だったら良かったが、流石にそれは叶えてやれそうにない」
だからせめて気分だけでも、と。
いつかきっと良い相手とめぐり逢うだろう、それまで結婚というものに夢を失くして欲しくはない、氷室は静かにそう続けた。
言いたいこと、訊きたいことは色々あった。
だが幸は一つとして口に出すことはできなかった。
声にならない想いの代わりのように、涙が一粒、頬を伝った。




