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舌破り  作者: 東 吉乃


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33/64

約束の形、仮初めの

「練習はともかくとして、少し出るぞ。準備しろ」

 結局どう頑張っても「稜さん」の一言が出ず唸っている幸に対して、氷室が話の矛先を変えた。

 急な展開についていけず、幸は目を白黒させた。俯いていた顔を上げると、氷室が立ち上がっていた。動きが早い。それとも幸がぼんやりしすぎているのか。

「え? 氷室さ」

「……」

 咄嗟に出た幸の呼びかけは、氷室の激烈な視線で遮られた。

 すごい。

 瞳の一閃で人を黙らせるなんて芸当、ちょっとやそっとじゃできないと思う。固まりつつどうでもいい感想を幸が脳内で呟いていると、促すように氷室が二の句を継いだ。

「さん付けで落ち着いたんだろう」

「ええと、はい」

「……」

「わ、分かりました分かりましたからそんな物騒な顔しないで下さい稜さん!」

「やれば出来るじゃないか」

 ヤケクソというか破れかぶれだった感は否めない。が、どうあれ結果として幸が名前を呼んだことに、氷室は非常に満足気な表情を浮かべて見せた。

 冷や汗がすごい。

 垂れているわけではないが、気分的に額を拭いつつ、幸は尋ねた。

「ひ……ちが、えーと、り、稜さん?」

 どんだけどもってんだ、と頭の中の冷静な自分が突っ込んでくる。んなこたあ自分が一番分かってんだよべらぼうめ、でも如何ともし難いんです! とこれまた脳内で応酬を試みるが、こんなしょうもないことで恥ずかしさが雲散霧消してくれるわけもない。

 そんな幸の複雑な心境を知るべくもない氷室は、いつも通りの涼やかな顔で小首を傾げた。これは話の続きを待っている時の仕草だ。

 とりあえず幸は脳内小劇場の幕を下ろし、氷室に向き直った。

「あの、出るってどこに? 私も一緒ですか? え、なんで? 結ちゃんは?」

「とりあえず銀座。一緒に行かなきゃ意味がない。指輪を買いに行く。結は預ける」

 立て続けにこぼれた幸の質問を、氷室は一つずつ丁寧に拾ってくれた。

 意外と律儀な人だ。

 だが目下のところ注目すべき点はそこではない。

「指輪……?」

「そうだ」

「え……、え? 稜さん?」

 氷室が何を言わんとしているのかが全く理解できず、幸はもはや質問さえまともに言えない状態だった。

 そんな幸を見て、氷室が軽くため息を吐いた。

「結婚するんだ。婚約指輪も結婚指輪も必要だろう」

「それは……本当の結婚ならそうなのかもしれないですけど、でもそんな、お芝居なのにそんなの、申し訳なさすぎます」

 本当の結婚なら。

 お芝居なのに。

 自分で言った言葉が何故か胸に刺さった。しかし痛みには気付かないふりで、幸は首をぶんぶんと横に振った。

「絶対に駄目です、勿体なさすぎます!」

「勿体ないかどうかは俺が決めることだ。面倒は見てやると言っただろう」

「そうですけど、でも」

「この期に及んで四の五の言うな。親父さんを安心させたいんだろう」

「う……はい」

「そうであれば猶更俺の言う事は聞いておけ。十以上も年上の男が婚約指輪も用意できない、まして結婚指輪さえないなんて、世間一般からすればとんでもない不良物件だぞ」

 安心させるどころか不安を煽ってどうする。

 続けられた氷室の説教に、幸はただ絶句するしかなかった。



 そうして二人ですったもんだしていると、ライオン扉が遠慮がちにノックされた。それまでのやり取りで動揺してしまい、初動が遅れた幸に代わり、「来たか」と呟いて氷室が応対に出た。

 扉が開かれる。

 その向こうに立っていたのは、見覚えのある小柄な女性――氷室の母の、志乃だった。

「お母さん!?」

 出迎えようと慌てて幸は立ち上がったが、勢いがつきすぎたその反動で、座っていた木の丸椅子が後ろに吹っ飛んだ。

 がたがたがたぁん、と。

 それはそれは盛大な音を立てたが為に、結はびっくりした顔になるわ、氷室は顔を顰めて振り向くわ、幸はコケそうになるわであわや大惨事になりかけた。

「あらあらまあまあ、大丈夫?」

 そんな中、一人動じない志乃はさすがだ。

 いつの間にか目の前に来ていた志乃に、床に片膝をついていた幸は見上げる格好でごまかし笑いをするしかなかった。手を差し伸べられて、ありがたくそれを借りて幸は立ち上がる。

 立ち上がってすぐ、幸は頭を一つ下げた。

「この前は突然お邪魔した挙句、あんな形でおいとましてしまってすみませんでした」

 氷室の実家を訪れてから、まだ半月も経っていない。記憶は鮮やかに残っている。色々と失礼なことをした、と幸はずっと気にかかっていたのだ。

 窺うように覗き込む幸を見て、志乃はころころと笑った。

「こちらこそ何のお構いもできなくてごめんなさいね。気にしないで、またいつでも遊びにいらっしゃい」

「すみません、ありがとうございます」

「お袋、慶次は?」

「車を停めてるわ。もうすぐ来ると思うけど」

 氷室の問いに答えつつ、志乃がライオン扉を振り返った時だった。つられて同じ方向に視線を投げた幸の視界に、何かこう、大きな影が飛び込んできた。

 語弊を恐れずに言うのならば、熊。

 このオフィス街にまさかそんな筈はと思って幸が目を瞬くと、その熊は人懐こい笑顔を浮かべて言った。

「よお兄貴、久しぶり」

 熊は人間だった。衝撃だった。

 そしてその衝撃も束の間、次の衝撃が幸を貫く。

「悪いな、慶次」

 返事をしたのは氷室だった。

 つまり、熊の兄貴が氷室。ということは、熊は氷室の弟さん。熊なんて呼び捨てにしている場合じゃない、熊さんだ。いや、熊にさん付けってそもそもおかしくないか。じゃあなんて呼べばいいんだろう。

 軽く幸がパニックになっていると、志乃の隣に並んだ熊さんがやっぱり人懐こい笑みのままで自己紹介を始めた。

「初めまして。俺、稜兄さんの弟の慶次です」

 氷室を指さしつつ、慶次と名乗った熊さんはその大きな手を幸の目の前に差し出してきた。

 見上げた幸の口は、思わずぽかんと開いた。

 すごい。兄である氷室もかなり背は高い方だが、弟の方がもっと高い。というか、大きい。氷室はどちらかと言えばボクシング選手のような無駄なく引き締まった体躯をしているが、一方でこの弟はラグビーで国体に出てますと言っても疑う余地なく信じてしまいそうな、がっしりとした体形だ。

 泥棒も裸足で逃げ出しそうとでも言おうか。

 ただ、よくよく見れば顔立ちはやはり整っていて、氷室との血の繋がりを十二分に感じさせた。こちらは兄の鋭い顔とは対照的に、日に焼けて精悍ではあるが爽やかで、二重の印象的な力強い目だ。

 見上げつつ見惚れつつ、幸は握手に応えた。

「は、初めまして。ええと、この四月からこちらで働かせてもらってます、佐藤 幸です」

「幸さん……さっちゃんか。宜しくどうぞ」

「さっちゃ……!?」

「毎日あの兄貴の相手だと大変でしょう」

「あ、いえ大変だなんてそんなことは。むしろ私がお世話になってばっかりで、本当にいつも氷室さんにはご迷惑ばかりかけてまして」

「おい」

 と、横から飛んできた明らかに説教じみている声に、幸の背中はぎくりとなった。

 恐る恐る声の方に顔を向けると、目を眇めて不機嫌顔の氷室と目が合った。目が合う前から分かってはいたが、しかし想定の範囲内ですなんて冗談でも言えないような雰囲気だ。

 幸と氷室の間に流れた微妙な空気に、慶次が「ん?」と首を捻る。

 その一方で志乃はといえば、さっさと応接に行って結とにこにこ会話を始めていた。笑顔を見せている結を見る限り、初めて会うわけではないらしい。当たり前といえば当たり前だが、毒気の無い穏やかな二人に和みつつ、幸はこの場を収めるべく口を開いた。現実逃避ばかりしているわけにもいかない。

「……すいません、稜さん。口が滑りました」

「分かってるならいい」

 すぐさま訂正したお陰か、大魔神の怒りはあっさり解けた。

 そのやり取りを横目で見ていた慶次が「……へえ?」と含み笑いをしていたが、弁明をしようにも上手い言葉が見つけられず、結果幸は恥ずかしさと相まって黙り込むしかなかった。氷室は氷室で特に説明する素振りも見せないから、幸がむきになるのも微妙だった、というのもあるが、修行だと思えば何のその。



「結。お父さんは少し出かけるから、今日はお婆ちゃんと慶次叔父さんと一緒に、先に帰っててくれるか」

 出かける前に、氷室が結の頭を優しく撫でた。

 結は一瞬、彼女の祖母である志乃と叔父の慶次を見てから、視線を目の前に戻した。

「おとうさん、ちゃんと帰ってくる?」

「ああ」

 不安気な細い声に、肯定の言葉は間髪入れず力強かった。幸の耳には、「絶対に」と続いて聞こえたような気がした。

 そのやり取りを聞いているだけで、何故か涙が出そうになった。

「絶対に帰る。だから何も心配しなくていい」

「うん」

「いい子だ」

 もう一度、大きな手が小さな頭を撫でる。

 優しい光景だった。

「それじゃあ、お袋、慶次、頼む」

 立ち上がった氷室が言うと、慶次が「はいよ」と軽く応えた。そのまま彼は結の傍に寄って、力強いその手で結を軽々と抱き上げた。

「よぉーし結、今日は慶次おじちゃんと一緒にカレー作ろうな!」

 所謂、「高い高い」というやつだ。

 しかし常人より遥かに身長の高い慶次がやるものだから、迫力が凄い。しかし結はそれが楽しいようで、途端にきゃあきゃあと歓声を上げて笑った。

「お袋。これ、鍵」

「はいはい。気を付けていってらっしゃいね」

「ああ。行くぞ、幸」

 慶次と結のダイナミック高い高いに目を奪われていた幸は、何が起こったのか分からなかった。

「……え」

 身体を前に引っ張られつつ、幸は背中を振り返る。

 より一層高さを増した今にも天井に届きそうなハイパー高い高い二人組と、にっこり笑って手を振ってくれる志乃が見えた。

 前に向き直ると広い背中が至近距離にある。そして左手が温かい。手を引かれているのだと理解した時には、もう声を出すことはできなかった。


*     *     *     *


 目的地に向かって滑るように走る車内で、氷室がおもむろに口を開いた。

「今夜、時間あるか」

「時間ですか? 特に予定とかは入ってないですけど」

「じゃあ夕食に付き合え。遅くなるだろうから、親御さんに連絡入れておけ」

「え……でも、結ちゃんは」

「お袋と慶次がいるから大丈夫だ」

 でも、と言いかけて幸は思い留まった。

 何も帰らないわけじゃないのだ。氷室は「絶対に帰る」と結に約束していた。反故にするような人間じゃない。本当は色々とあまりにも申し訳ないので辞退したいのが本音だが、大丈夫だと言い切られると幸としてはそれ以上強く物申すことはできない。

 あるいは夕食を摂りながら、偽装結婚に向けて詳細を詰めるのかもしれない。

 そう考えると、この流れは自然なような気がした。

「分かりました。ちょっとメール打ちますね」

 言われた通りに携帯を引っ張り出して、幸は恵美子へとメール画面を開いた。その時に見えた時刻は夕方の四時を過ぎていて、これでは確かにいつもの時間には帰宅できなさそうだった。



 やがて氷室の運転する車は、煌びやかな通りに入った。

 その華やかさだけで幸の目は眩みそうだったが、度胆を抜かれたのはその直後だった。車を降りて少し歩いたかと思うと、目の前に現れたのはそちら方面に疎い幸でも名前を知っている宝石店だ。

 大きなアーチを描く入口と、それを飾る門構え風の扉が格調高さを物語っている。全面ガラス張りの向こうに透ける店内は、足を踏み入れる前から上流階級御用達であることがそれと知れる佇まいだ。

 こんな場所、普通に生活してたら絶対に来ない。

 一生縁がなさそうなものの筆頭に、入る前から腰が引けている空気を察してか、氷室がまたしても幸の左手を捕まえてきた。

 今度はそれに気を取られている内に入口に到着すると、中から店員が扉を開けてくれた。一般人の幸には、何気ないその動きさえもとてつもなく洗練されているように映る。頭を下げて「いらっしゃいませ」と落ち着いた声で迎え入れてくれた店員は、顔を上げるなり何かに気付いたような仕草をしてみせた。

「氷室ですが」

「氷室様、お待ち申し上げておりました。こちらへどうぞ」

 氷室が名乗ったことを受けて、もう一段階丁寧さが上がったような気がする。

 これほどの一流ブランド店で何故そんな待遇で迎え入れられているのか幸には皆目見当もつかないが、とりあえずは促されるままに奥の部屋へと通された。

 案内されたのは二人掛けの席だった。

 まるでホテルのようにレディーファーストで、幸が椅子の前に立つと絶妙のタイミングで腰かけられるよう、椅子が動かされた。

 座ってから所在なく辺りを見回すと、天井から幾筋も降りているライトの筋が眩しいことに気付いた。交錯する光が七色に光っているようで、ただ綺麗だ。こんな場所に普段着で来てしまったことに、幸はひたすら萎縮していた。

 緊張がまったく解けないまま少し経つと、奥からまずは男性が出てきて、そしてそのすぐ後ろにお盆のような箱を持った女性が付き従う形で、氷室と幸の目の前に来た。

 男性は壮年だ。柔和な笑みを浮かべて、一礼する。

「氷室様、この度は誠におめでとうございます。ご依頼頂きましたお品は、こちらにご準備させて頂いております」

「急なお願いでお手数おかけしました」

「滅相もございません。檀様にはいつも大変お世話になっております」

 音がしそうなほどかっちりとした礼をとって、壮年の男性――おそらく店長や支配人といった風格のその人は、隣に控えている女性店員を促した。

 指示を受けた彼女は、手にしていた箱を氷室と幸の目の前に置いた。白い手袋をはめた手が、鍵を開ける。蓋が開くとその中は一面ビロード張りになっていて、およそ二十ほどの指輪が並べられていた。

 そのどれもが天井からの光を反射して、想像を絶する美しさで輝く。

 思わず幸は無言で、溢れるその光にただただ見入った。

「どれがいい」

 横から氷室に言われて、幸は自分の耳を疑った。

「稜さん? 今なんて」

「どれでも好きなのを着けてみたらいい。気に入るのがなければ、どういうのがいいか言えば用意してくれるから」

 さらりととんでもないことを言う氷室に、支配人の男性がさも当然だとでも言いたげに頷く。

 幸は動揺した。

 そもそも指輪を準備してもらうことさえ辞退したいレベルなのに、明らかにこの店は気軽に買えるクラスの指輪は取り扱っていない。値札が一切ついていないが間違いない。幸が想定していた桁より二つ三つは確実に上のはずだ。

 なんで、どうして。

 狼狽えて泣きそうになって氷室を見ると、その手には一つの指輪が選ばれていた。

 手元にある指輪に視線を落とす、伏し目がちの横顔が端正だ。男性に宝飾が似合うというのも変な話だが、形の良いしかし歴とした男の手の中で溢れる光が、一枚の古く上等な絵画のようだった。

 幸が言葉を失っていると、ふと氷室が視線を寄越してくる。

「ほら、左手を出せ」

 言うが早いか、氷室は幸の左手をさっさと捕える。武骨な手はそれとは裏腹の繊細さで、幸の薬指にそっとその指輪をはめた。

 茫然と幸が見下ろすと、見慣れた指に見慣れない指輪が煌めいていた。

 手や指の角度を変えると、僅かな動きを拾って中心の大きなダイヤモンドが七色に表情を変える。土台はシンプルだが、中心から溢れる光は時に紫、時に橙と流れるようにただ美しかった。

 サイズは大きすぎず小さすぎず、誂えたかのように幸の指に丁度だった。

「お似合いです。サイズはいかがですか」

 柔らかい支配人の褒め言葉は簡素だが、それが故に際立ってもいた。

「あ、はい。あの、ぴったりです」

「そちらは飾りを抑えている分、石がとても良く喋ります。それ故、最高品質の石と自信を持ってお勧めしておりますが、……いかがでしょう。こちらは大きさは控えめになりますが、大小の石を組み合わせておりますので大変に華やかです」

 ご試着を、と勧められたが、幸はすぐには返事ができなかった。

 ビロードに座る華やかな他の婚約指輪たちと、今まさに薬指に収まっているものを見比べる。それぞれに個性があって、あれこれと試着するのも夢のようだ。こんな機会、人生で二度とないだろうとも思う。

 だが、幸は首を横に振った。

「ありがとうございます。私、これがいいです」

「いいのか?」

 驚いたように氷室が言った。

 幸は一回だけ頷いた。

「はい」

「……そうか? まあ幸が気に入ったのなら構わんが」

 釈然としない様子で氷室が首を傾げたが、幸は笑ってもう一度「これが気に入りました」と言った。



 そこにどんな意図があったのかは知らない。ただの偶然だったかもしれない。

 けれど、氷室が最初に選んでくれたその指輪が、他のどんな華やかな指輪より綺麗だった。


 何もかもが演技でそこに特別な想いがないのなら、せめて「最初」というのを大事にしたかった。

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