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舌破り  作者: 東 吉乃


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32/64

この羞恥に耐えきってこそ


 結が目を覚ましたのは、幸が茶を噴いてからおよそ二時間後だった。

 寝汗をかいていたので、水分補給がてら三時のおやつにと幸が林檎ジュースを出すと、結は嬉しそうにそれを飲んだ。一連のやり取りは応接でやっていたが、振り返ると氷室がなにやらパソコンで調べものをしている。

 真面目な顔から察するに、多分仕事だろう。

 しばらくはそっとしておいた方が良いと判断し、幸は結に向き直った。

「結ちゃん、お父さんお仕事してるから、私と遊ぼっか」

「おしごと?」

 小首を傾げた結は、僅かに寂しそうな表情を見せた。が、氷室の様子を一瞥して、すぐに結は「うん」と頷いた。

 聡い子だ。

 空気を良く読む。きっと賢くもあるのだろう。だがその聞き分けの良さが、どうしても彼女が置かれていた境遇を思い起こさせる。

「何して遊ぶ?」

 一瞬沈みかけた思考を振り払いつつ、右手に塗り絵、左手に人形を持って幸は問いかけた。

 目移りするように双方を見比べた結は、ややあってから塗り絵を選んだ。希望を受けた幸は、一緒に持ってきた色鉛筆のセットを手に取り、蓋を開けた。

 途端に結がわあ、と歓声を上げる。

 幸の小学校入学祝いにと雄三が買ってくれた、七十二色の立派なセットだ。

 学生時代に幸が使い倒したので色鉛筆の背の高さはバラバラになってしまっているが、黒地の箱の中に織り成されるグラデーションはそれでも目に鮮やかだ。見ているだけでも楽しいし、沢山の色の名前を覚えられるのも嬉しかったものだ。

 塗り絵帳は当時流行っていたアニメものだ。

 既に放送もされていないし今の流行りからは外れているだろうが、それでも結は真剣にページを繰っている。それを幸が目で追っていると、当時の幸が忘れたのか飽きたのかほとんどのページが手つかずのままだった。

 やがてとあるページで手を止めた結が、遠慮がちに幸を見上げてきた。

「さっちゃん」

「ん、なあに?」

「これ、さっちゃんの。いいの?」

 一瞬真意を掴みかねて「何が?」と聞き返しそうになったのを、寸でのところで幸は飲み込んだ。

 そういうことか、と。

 合点がいった後、果たしてこれは躾の賜物なのかそれとも何かを過剰に気にしているのかと勘ぐってしまう。そしておそらくは後者であろうことを肌で感じてしまうが故、幸は殊更に穏やかに見えるよう口角を上げた。

「結ちゃんにあげる。好きなページを好きな色で塗っていいよ」

「……いいの?」

「うん、いいよ。結ちゃんが一緒にご飯食べてくれたから、ありがとうのお礼ね」

「ほんとう!?」

「うん。ほら、そのリボン、何色にしよっか」

 促してやると、結の意識はすぐに目の前の塗り絵に移った。



 どうしてこの子を置いていけたのだろう、と。

 赤の他人である幸が憤っても何の解決にもならないが、それでも考えずにはいられなかった。


 家族でいられる時間は限られているのに。


*     *     *     *


 三十分ほど付き合ってからふと幸が背中を振り返ると、頬杖をついてこちらを見ている氷室と目があった。横に視線を落とすと、結は塗り絵に夢中になっている。氷室が何事かを言いたげにしているので、幸はそっと結の傍を離れて所長机に寄った。

「どうしました?」

「少し話を詰めるぞ」

「あ、はい」

「今週末の挨拶のことだ。場所は病室でやむを得ないと思っているが、いいか」

 外に出られるような状態じゃないだろう、と気遣わしげに氷室が続けた。

 幸は一つ頷いて応えた。

「決まりだな。時間は、そうだな……午前と午後、親父さんの体調が比較的良いのはどっちだ?」

「えっ……と」

 一々驚かないようにしようと思うのに、つい反射で幸は言葉に詰まってしまう。

 些細なこと、と捨て置くにはあまりにも濃やかすぎる。気付くと心臓が跳ねる。きっと訊けはしないのだろうが、この優しい人がどうして二回も離婚しなければならなかったのかが不思議でならない。

 さざ波立つ心を鎮める為、幸は脳裏に雄三の顔を思い浮かべた。

 起き抜けの午前中よりは、本を読む余裕のある午後の方が良さそうだ。

「えーと、多分午後の方が良いです」

「分かった。じゃあ二時に伺う。病院の名前と棟と部屋番号は」

「え、」

「時間になったら直接行くから」

 だからさっさと必要な情報を寄越せ、と氷室が視線だけで矢の催促をしてくる。が、あまりにも手間がかからなさすぎるというか捌けているというか、これでは申し訳なさすぎる。

 街頭インタビューやアンケートじゃないんだから。

 頭で突っ込みつつ、放っておけばこのままどこまでもさっさと進めてしまいそうな氷室を、幸は慌てて引き留めた。

「勝手に来いっていうのは流石にあんまりです。私、氷室さんのマンションまで迎えに行きます。道案内くらいします」

 幸としては精一杯の誠意を出したつもりだが、氷室は怪訝な顔をする。

「明らかにお前が遠回りだぞ。非効率極まりない」

 そして言ってのけるのがこれだ。

「この場面で効率持ち出すのもどうかと思うんですけど」

「そうか? まあ問答するのも面倒だ。中間地点で拾うから、そこから先は頼む」

 面倒だと言いつつ基本的に幸の主張を汲んでくれるあたり、本当に言葉面とその内包する感情が合致しない人だ。

 ちぐはぐさが不思議な人だが、もう慣れた。そういうわけで幸はさっさと頭を下げる。

「そうして頂けると助かります」

「ああ。それと、名前」

「名前?」

「どう呼ばれたいか、だ。最初の挨拶の時くらいはさん付けにするが、それ以外の場面でさん付けは他人行儀過ぎて怪しい。俺の方が年上でもあるし。幸と呼び捨てか、さっちゃんとかがいいか?」

 趣旨は分かる。何を言いたいのかは十二分に理解した。それでも尚、幸は胸の内で盛大に叫んだ。

 真顔で訊くことかソレ。

 あまりの羞恥プレイに幸は思わずぐぐいっと押し黙った。すぐには回復できそうもない。どの面下げてこの人は「さっちゃん」とか言ってるんだろう。どう見ても似合わない言葉遣いであることを、本人がまったく気にしていないのが問題だ。

 こんなに鋭利な容貌を誇る人間が「さっちゃん」とかそれこそ「ちゃんちゃら可笑しいわ」の世界であって、シュールにも程がある。

 お願いだからこの雇い主にはもう少し自分自身の価値を認識してもらいたいものだが、多分これは言っても無駄だろう。よって、軌道修正は幸が頑張るしかないのである。

「……呼び捨てでお願いします」

「分かった」

 軽いなオイ、とは流石に突っ込めなかった。

 その代わりに辛うじて幸が言えたのは、「偽装結婚て色々大変なんですね」という毒にも薬にもならない感想だった。それに対する氷室の相槌はというと「普通の結婚はもっと面倒だ」ときたのだから、微妙極まりない。本来慶事であるべき結婚式について、こんな罰当たり甚だしい会話をする人間がこの世界に一体何組いるだろう。



「それで、幸」

「……」

「おい。何を呆けてる」

「あ、いえ。すいません、いきなり名前呼ばれてびっくりしちゃって」

「慣れろ」

「そんなこと言われてもですね、なんかやたらと恥ずかしいのはどうしたらいいんでしょうか」

「気合と根性で慣れろ」

 ものすごい大雑把な励ましが来た。

 どうしたもんかと幸が頭を抱え込みかけると、予想外に真面目な氷室の追い討ちがかけられた。

「呼ばれる度に挙動不審になってたら確実に怪しまれるぞ」

「……ですよね」

「怪しまれるだけならまだいい。事と次第によっては一層面倒になるからな」

「えーと、一層面倒というのはつまり一体どういう状況が想定されるんでしょうか」

「お前が無理して結婚しようとしてるんじゃないかとでも勘繰られてみろ。本当はまだ迷っているのに、親の為に我慢して踏み切ったのか、なんて一瞬でも考えさせたらそこで終わりだ。この話はなかったことになるだろうし、そうすればお前の親父さんは娘の花嫁姿を見ることはできない。親心というのはそういうものだ」

 冷静な分析に、幸は胸をどんと衝かれた。

 あの状態の両親に、逆に心配をかけさせるような真似は絶対にできない。ということはやはり氷室が言う通り、気合と根性でこの恥ずかしさを克服しなければならないということだ。

「分かりました。精進します」

「まあ頑張れよ」

 余裕たっぷりの氷室が小さく笑った。

 その余裕は経験値の差か、それとも年の差の所為か。幸としては微妙に悔しいのだが、真正面から見れるほど氷室の笑顔にまだ慣れていない。故に、とりあえず目を瞑って耐えるしかない。

「なんで氷室さんは平気なんですか……」

「その呼び方も今後禁止する」

 ようやく振り絞った幸の言葉は、予想外の方向に持っていかれた。

「へ?」

「お見合いでもないのに、結婚までしようとする相手を名字で呼ぶ奴がいるか」

 真正面から正論だ。

「……おっしゃる通りで」

「飲み込みが早くなってきたな。いいことだ。呼び捨て、さん付け、ちゃん付け何でもいいからとにかく名前で呼べ」

 涼しい顔で言い放った氷室の台詞に、ちょっと待てと言いたくなる。どう考えてもどうかと思う選択肢が一つ紛れ込んでいた。

 ちゃん付けて。

 こんな身長高くて顔も鋭い側に整っている、親しみやすいというよりは完全に近寄り難い雰囲気の大人の男を「ちゃん」付け。呼ぶ前から分かる、絶対に似合わない。萌えられる程度のギャップなら良いが、萌えを遥かに超越したギャップであること間違いなしだ。

 が、しかし。

 世の中には「怖いもの見たさ」という言葉がある。結果は早晩知れているが、それでも幸は抗い難い好奇心に負けてとうとうそれを口に出した。

「稜、ちゃん」

「うん?」

「……ほんとに返事してくれるんですね!?」

 びっくりしたびっくりした。

 重ねて言うくらいびっくりした。度胆を抜かれている幸を横目に、しかし呼ばれた当の本人はまったく意に介さない風だ。挙句の果てに言われたのが、

「ちゃん付けで決定か?」

 だなんて。

 おかしいだろどう考えても! とまたしても心で叫びつつ、幸はぶんぶんと首を横に振った。それを見た氷室が、あれ、とでも言いたげな顔で小首を傾げる。

「違うのか。まあ呼び捨てでも構わんが」

「お願いですからそんなにハードル上げないで下さい。さん付けでお願いします……」

「普通だな」

「呼び方に奇抜さを求められても困ります」

「それもそうだな」

 く、と氷室が笑った。

 これはあれだ、確実に分かってからかっている時の顔だ。

「じゃあ呼んでみろ」

「は!?」

「練習」

「っ……」

「そんなことでいいのか。怪しまれたら、」

「わわわ分かってますってば! でもそんないきなり言われても、こっちにも心の準備ってものがですね!」

「たかが名前を呼ぶ程度のことで何をそんなに狼狽えることがあるんだ」

「逆に聞きたいんですけど、どうしてそんなに冷静でいられるんですか」

 互いが互いに怪訝な顔で見合って、しばしの沈黙が訪れる。

 黙っている間に、幸は心の中で呟いてみた。


 稜さん。


 瞬間、頬が熱くなった。くすぐったいっていうか恥ずかしい。全力で。心の声でこれなら、肉声に出した時の破壊力はいかほどか。

 本気で結婚するわけじゃない、あくまでもお芝居だと念仏のように繰り返してみるも、この恥ずかしさはちょっとやそっとで拭えそうにない。

 人生経験の差、というものなのだろうか。

 幸自身は華やかな恋愛遍歴とは無縁だった。一応高校生の時に付き合った彼氏はいるにはいたが、特段何かが進展することもなく、最終的には手さえも繋げず仕舞いで自然消滅を迎えた。相手から申し込まれた形で始まった交際だったが、その時でさえ名前を呼ぶには至らなかった。それくらい、幸にとっては名字ではなく名前を呼ぶというのは、特別なことだ。

 少しの間過去を振り返って幸が悶絶していると、更に追い討ちがきた。

「幸」

 呼ばれたものの、幸はとうとう目を合わせられなかった。

 呼び捨てにされるのは珍しくない。老若男女問わず、これまでの人生で何度もそうされてきた。けれど、声に滲む今までにはなかった距離の近さに、ただ戸惑うしかない。


 そんな優しい声で。


 その優しさに気付いたことが、どうしてこれほど苦しいのだろう。

 期限付きの距離。

 これならまだ、叶わない恋の方が良かったかもしれない。

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