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第10回 冥府の門だった!!

 低く大気を震わせる雄たけび。

 肌がピリつき、大地すらも揺れているような錯覚を覚える。

 ゴトリと音をたて地上へと落ちたケルベロスの大きな頭。切り口から大量の粒子が溢れ、頭を失った体は力を失う。

 空間の裂け目から飛び出した炎帝も、召喚銃から空へと放たれたワイバーンも、間に合わなかった。

 そして――、


「クソっ!」


 白虎を纏う周鈴も。水の壁に阻まれ、たどり着けなかった。

 悔しさを前面に出す周鈴だが、すぐにその視線は別の方へと向く。

 加速する周鈴を阻んだ水の壁を生み出した張本人、ヴァンパイアのジルへと。

 ギリッと奥歯を噛み締める周鈴に対し、ジルは青白い顔に薄ら笑みを浮かべる。


「あなたの相手は――」


 ジルの声を遮るように破裂音と衝撃が広がり、


「周鈴!」

『周鈴!』


と、一馬と白虎の声がほぼ同時に周鈴へと届いた。

 声と同時に、音の方へと体を向ける。その間、僅か数秒。だが、周鈴の眼前には、長刀の柄を噛み締める鬼姫が迫っていた。

 その鬼姫の体越しに、頭を失ったケルベロスの巨体が拉げた形で宙を舞い、彼女が強靭な脚力で一気に間合いを詰めた事は容易に想像は出来た。

 あまりの一瞬の事で、紅もキャルも反応に遅れ、彼女達が召喚した炎帝とワイバーンも対処に遅れる。

 油断があったわけではない。鬼姫がケルベロスの首を刎ねた衝撃と、ケルベロスを救えなかったと言う事実をまだ呑み込めていなかったのだ。

 眼前に迫る鬼姫。意識はあるのかないのか、その目からは感じ取れない。ただ、鬼気迫るその表情はまさしく鬼神。

 周鈴の眼には全てがスローに映る。走馬灯を見る様に、思考だけが高速で動き、今までの事を思い出す。


 ――死。


 鬼姫の咥えた長刀がゆっくりと周鈴の首筋へと迫る。

 思考は動くが、体が動かない。耳に届く一馬の声。紅の声。キャルの声。

 だが、何を言っているのか、ハッキリとは分からない。ただ、このままだと死が待っているのは分かる。

 炎帝が動き出す。その振動が地面を伝う。

 ワイバーンが羽ばたく。風の流れが変わる。

 けれど、両者は間に合わない。

 奥歯を噛み、周鈴は諦めたように、ゆっくりと瞼を閉じる。


『諦めるな!』


 唐突に脳内に響く白虎の声。

 その声に瞼を開くと、その瞬間に目の前で爆風が吹き荒れ、周鈴と鬼姫の体を後方へと吹き飛ばした。

 その原因は周鈴の背後で漂う風の剣。その一本が鬼姫の一撃を受け止め、爆散したのだ。

 すぐさま体勢を整える周鈴は、左足を後ろに引き、右膝を地に落とし、左手を地面に着き顔を上げる。

 視線の先――土煙の中に鬼姫の姿を確認。相変わらず口には長刀を咥え、血のような真っ赤な眼が周鈴を見据える。

 二人の視線が交錯し、次の瞬間、凄まじい衝撃が上空から鬼姫を襲う。

 ワイバーンが巻き起こした突風が衝撃となり、地上へと降り注いだのだ。

 激しく土煙が舞い、地面は砕け大きく陥没する。当然、それをまともに受けた鬼姫は地面に――ひれ伏さない。両足は足首まで地面に減り込みながらも、ギリギリの所で衝撃に耐えていた。

 遅れて、炎帝が振り上げた右前足を、駆けてきた勢いそのままに鬼姫へと叩きつける。

 紅蓮の炎を纏った鋭い爪が、僅かな咆哮と共に鬼姫を襲う。だが、炎は散り、炎帝の右前足が弾かれる。


「ッ!」


 表情を歪める紅の右手から鮮血が溢れ、その手には鋭い刃物で切られた傷が浮かぶ。

 炎帝の右前足が鬼姫の咥えた長刀で切られたのだ。

 痛みは伴うが、炎帝はすぐに両前足の爪を地面へと突き立て、咆哮と共に口から炎を吐く。

 吐き出された逆巻く炎。熱風が吹き荒れ、地面を焦がし、土埃が舞う。

 だが、鬼姫はそれをいとも容易く両断する。

 両断された炎は火の粉を散らせ、やがて熱風だけを残し消滅。それに遅れて、上空ではワイバーンが更に両翼を大きく掻き、巨大な風の刃を放った。

 高音の風音が響き、それは一瞬で地上へと落ちる。激しい土煙と砕石が舞う。

 だが、鬼姫は無傷で佇む。長刀を一振りし、風の刃も容易く両断したのだ。

 地面に刻まれた鋭利な刃物で切られた跡。その真ん中に佇む鬼姫は、長刀の柄を噛み締める口角の合間から熱を帯びた吐息を荒々しく漏らし、その顔をゆっくりと周鈴の方へと向ける。

 炎帝とワイバーンを無視してまで、周鈴を標的としたのは、その身に白虎を纏い、最も強敵だと判断したからだろう。

 右足を踏み込み、上半身が前へと傾け、


「白虎っ!」


と、周鈴が叫ぶ。それに呼応するように背後に漂っていた風の剣が二本消滅し、残りは一本だけとなった。


『来るぞ!』


 白虎の声が頭に響き、


「分かってる!」


と、返答した周鈴は地を蹴る。

 加速する周鈴に対し、鬼姫は一歩目で間合いを詰める。


「ッ!」


 驚く周鈴は瞬時に切り返し、右へと方向転換。それを見て、鬼姫は右足を地面へと着き、周鈴を追うように体を左へ向け、左足を踏み出す。

 その一歩で鬼姫は周鈴の背後に着く。


「くっ!」


 頭を下げ、周鈴は小柄なその体を更に縮こませる。刹那、その頭の後ろを、鬼姫が振り抜いた長刀が横切り、僅かに灰色の髪が舞う。


『気を抜くな!』

「分かってる!」


 白虎にそう返し、周鈴は更に切り返し、今度は左へと方向転換する。

 それを追うように鬼姫も向きを変える。また、右足で着地し、左足で踏み切る。

 徐々に周鈴の速度は上がっていくが、それでも、鬼姫は一瞬で間合いを詰め、長刀を振り抜く。それを、周鈴は上手くかわしているが、捉えられるのも時間の問題だった。


「クソっ!」

『十分に加速しているが、それでも、向こうの方が速度は上だ』

「くっ!」


 振り抜かれる長刀を、白虎の化身である白蓮と呼ばれるナイフで受け流し、また方向を左へと変える。

 それを追うように鬼姫も右足を着き強引に方向を変える。が、ここで異変が起こる。

 右足を着いた瞬間に、鬼姫の右膝から力が抜け、その体は激しく横転する。

 突然の出来事に周鈴は困惑し、動きを追うので精一杯だった一馬達もようやくその姿を確認する。


「な、何が……」


 一馬が呟く。


「どうやら、限界ですか……」


 ジルが吐息交じりに呟き、右手で頭を抱える。


「急にどうしたんだ?」


 不思議そうに歩を緩める周鈴。


「炎帝さん」

「お願いします!」


 瞬時に好機だと判断する紅とキャル。その声に炎帝は口の中に炎を収縮させ、ワイバーンは自らの体の前に風を圧縮する。

 炎帝とワイバーンの行動を確認し、周鈴も攻勢に出る為、足元に大量の土煙を巻き上げながら反転した。

 呼吸は僅かに乱れ、その視線は鬼姫が横転し舞った土煙の向こうへ向く。

 その瞬間、炎帝は咆哮と共に炎を吐き、ワイバーンは圧縮した風を両翼で叩き破裂させるとともに鋭い巨大な風の刃を地上へと放った。


「ようやく……」


 体の感覚を確かめる様に右手を握ったり開いたりを繰り返し、ジルは口元へと不敵な笑みを浮かべる。

 スッと左腕が振り上げた。すると、鬼姫の周囲にドーム状の水の膜が張られ、それが炎帝の放った炎を受ける。

 炎が水の膜を沸騰させ、水の膜は炎の勢いを奪っていく。

 大量蒸気が沸き上がり、周囲を白煙が包む。そこに、ワイバーンの放った風の刃が勢いよく突っ込むと、


「水爆」


 ジルは静かに呟き、翳した左手を強く握りしめた。

 その瞬間、白煙が次々と爆発を起こし、その爆風が風の刃を呑み込む。それにより、風の刃は形状を保てず消滅する。

 と、同時に、炎帝の放った炎が消滅し、水の膜が弾けた。

 周囲には熱風と蒸気が漂う。

 奥歯を噛み息を呑む一馬の頬を汗が伝い、顎先から静かに落ちる。

 血の滴る右手を押さえ、苦悶の表情を浮かべる紅。

 初めてのワイバーンの召喚で消耗し、大きく呼吸を乱すキャル。

 追撃の為に重心を落とし、膝に力を溜める周鈴。

 四人の視線が集まる中、蒸気の向こうから背筋も凍るような静かな声が響く。


「悪いですが、ここまでです」


 白煙の中に血のように赤い瞳が浮かぶ。

 その眼を見て、一馬は全身の毛が逆立つのを感じる。


「もう、私達の目的は達しました。あなた方と戦う理由がない」


 穏やかな口調だが、その声は刃物のように鋭くこの場にいる者をけん制していた。

 ジリッと左前脚を炎帝が前へと出し、ワイバーンも僅かにだが高度を下げる。

 その動きをジルは鼻で笑う。


「分かっていないみたいですね」

「それは、お前の方じゃねぇのか?」


 ジルに対し、周鈴が口を挟む。


「この状況で――」

「あなたの方こそ、理解していないようですね」


 周鈴の言葉をジルが遮り、周囲の空気が一瞬で凍り付く。


「こちらが、見逃してやると、言っているんだ。大人しく従え」


 今までの丁寧な口調とは違い、命令するような威圧的な声が響く。

 その場にいる全ての者が呑まれる。聖霊である炎帝や、魔獣であるワイバーンも。

 それ程、ジルの殺気はおぞましく体に纏わりついた。

 呼吸を乱すキャルは、胸を押さえ膝を落とし、白衣の裾には土が付着する。

 召喚士ではないキャルは、すでにワイバーンをこの世界に維持する余力はなく、大きく開いた口を固く閉じ息を呑むと同時に、ワイバーンの姿が弾け粒子となった。

 俯き両手を膝に付く紅。赤い袴の右膝部分に右手の血が滲み、膝が震える。無数の手が体を絡めとるそんな感覚に襲われていた。

 それでも、召喚士として何とか炎帝の存在を維持する為、意志を強くもつ。

 対照的なキャルと紅を気に掛ける一馬は、下唇を噛み眉を顰める。自分には打つ手がなく、ジルの放った殺気に気圧されないようにするだけで精一杯だった。

 炎帝も流石に分が悪い事は理解している。故に僅かに渋い表情を見せていた。

 だが、周鈴は――周鈴だけは闘争心をむき出しにし、重心を更に落とし、両足に力を蓄える。

 その眼は強く、鋭く、ジルを睨んでいた。

 呆れた様子で吐息を漏らすジルは、冷やかな眼を周鈴へと向け、右腕を肩の高さまで上げる。立てられた人差し指の先が、周鈴へと向けられた。


「いい加減――」


 ジルがそう口にし、指先に水を集めるのとほぼ同時だった。

 低い姿勢から最後の一本の風の剣を爆発させ、初速からトップスピードに乗り周鈴が駆ける。

 と、同時にジルの後方で地面が砕ける乾いた破裂音が轟き、その横を疾風と共に鬼姫が跳躍する。低く周鈴へと向かい。


「お、鬼姫さん!」


 突然の事に驚き、困惑した様子のジル。それは、ジルにとって想定外だった。

 何より、右足が折れた鬼姫がいまだに動ける事が不思議で仕方がなかった。

 口に咥えた長刀を顔を左に向け振りかぶり、真紅の髪を振り乱しそれを振り抜く。

 勢いをそのままに振り抜かれた長刀を、右手で逆手に持ったナイフ白蓮で受けた周鈴は、それを軸に前転するように跳躍する。

 勢いを殺す事なく素早く無駄な動きもなく。

 それにより、二人の位置が入れ替わり、低く跳躍し間合いを詰めていた鬼姫は左足を地面に着きブレーキをかけ、すぐに反転。

 前転した周鈴は空中で体を捻り、着地すると同時に鬼姫に向かい走り出していた。

 顕著に出る動き出しの差。

 白虎を纏い加速する周鈴と、両腕、右足の折れた鬼姫。

 明確に表れる差だが、鬼姫はもう一度左へと顔を向ける。意識など無いだろうが、彼女の潜在意識が諦めると言う事をしない。

 故に周鈴も全力をもって迎え撃つ為、僅かに震える右手に力を込める。先の一撃で右手首が痛んでいたが、目の前の鬼姫の状態と比べれば耐えられないものではない。

 突っ込む周鈴に、鬼姫は振りかぶった長刀を振り抜く。今までのような力強さ、鋭さはない。

 右足が折れている為、踏ん張りが利かなかったのだ。

 それを、白蓮で受け止めた周鈴は、左足を滑り込ませるように一歩踏み出し、左手に握ったトンファーを振り抜く。

 鈍い音が広がり、鬼姫の体が僅かに右に折れる。右脇腹に折れた右腕ごとトンファーが減り込む。

 衝撃に殴打したトンファーと、殴打された鬼姫の骨がどちらも軋んだ。

 それでも、鬼姫は噛み締めた長刀を離す事はない。だが、体の方は限界を迎え、踏ん張る左膝から力が抜け、そのまま両膝を地面に着き、ガクンと頭が頭を垂れた。


「全く……世話が焼ける!」


 苛立ち息を吐くジルは、周鈴に対し右手をかざす。


「大人しくしてくれないか!」


 声を荒らげ、右手を握り締めると、周鈴を水疱が包み込んだ。

 無抵抗の周鈴の口から僅かに気泡が漏れる。

 すでに、纏っていた風が消滅し、ここが限界だと周鈴は判断したのだ。

 水疱で包んだ段階で、周鈴の纏っていた風がない事を理解したジルは、静かに鼻から息を吐くと、


「全く……無駄な手間を……」


と、ゆっくりとした足取りで鬼姫の方へと歩みを進める。

 その間、一馬達は声を発する事なく、ジルを目で追う。

 水疱の中の周鈴。その口から気泡が溢れる。虚ろな眼がジルを見据え、


(僕が一矢報いたかったのは……コイツになんだけどな……)


 ボコボコと口から気泡が漏れ、薄ら笑いを浮かべるジルと視線が合う。

 ギリッと奥歯を噛み締める周鈴に、白虎も賛同する。


(同感だな。私としても、あの男に一撃入れておきたかった)


 白虎の言葉に周鈴は「だよな」と心の中で呟き、目を細める。


(どうにか、一矢報いる事は出来ねぇのか?)

(残念ながら時間切れだ。時期に武装も解ける)


 白虎の言葉に残念そうに眉を曲げる周鈴は、ふと地面に転がるケルベロスと視線が合う。

 首を切断され頭だけとなったケルベロスだが、その眼が僅かに動き、大きく裂けた口をゆっくりと開く。


「全く……覚醒したかと思えば――!」


 歩みを進めていたジルだが、右足を踏み出した瞬間、唐突に膝から崩れ落ちる。

 体から力が抜け、右膝を地に落とすと同時に両手を地に着き、苦悶の表情を浮かべていた。

 何が起こったのか理解するのは一瞬だ。目が合う。頭だけとなったケルベロスと。


「きさ――」


 立ち上がろうとするジルに不敵に笑むケルベロス。

 頭だけとなって尚、息を吸った。ほんの一呼吸。それだけで、ジルの全身から力を奪ったのだ。

 パチンと水が弾け、囚われていた周鈴が解放される。

 瞬間、周鈴は歯を食い縛り、濡れた灰色の髪の毛先から雫を飛ばしながら、手にしていたナイフ、白蓮を投げた。

 小柄な体が弾けた水を吸った土の上へと落ち、泥が舞う。


「ゼェ……ゼェ……」


 泥にまみれる周鈴は瞬時に眼をジルの方へと向ける。

 ジルの右脇腹に周鈴が投げた白蓮が深々と突き刺さっていた。


「グッ……」


 ただでさえ、力が入らない中で貰った一撃に、ジルの表情が歪む。

 それを見て、周鈴は満足そうに口元を緩め、意識を失った。すでに限界だったのだ。

 時を同じくして、白虎の武装も解け、周鈴はいつもの服装へと戻り、ジルの右脇腹に刺さってた白蓮も消滅した。

 膝を震わせゆっくりと立ち上がるジルは、深く息を吐き出しケルベロスと周鈴を順に睨む。

 だが、ジルはすぐに鬼姫のもとへと歩みを進める。そうしたのには理由があった。

 それは、すでに口の中に炎を集める炎帝の存在があったからだ。

 これ以上戦う意味もなく、無駄にダメージを蓄積させるのは避けたかった。

 右手をかざし、ゆっくりと振り下ろすと、空間に裂け目が生じる。

 遅れて、両前足の爪を地面に突き立てる炎帝は、咆哮と共に炎弾を放つ。


「ここまでのようですね。次に会う時は決着を着けてさしあげますよ」


 そう言い残し、ジルは鬼姫を連れ空間の裂け目へと姿を消し、同時に空間の裂け目は塞がる。

 炎弾は遅れてそこに到達し、そのまま岩壁を砕き、炎は飛び散った。

 ジル達がいなくなり、静寂がその場を包む。

 疲弊し座り込むキャルは肩で呼吸をし、下唇を噛み締める紅は血の溢れる右手を押さえる。

 そんな二人よりも疲労の色が濃いのは一馬だった。今までの疲れが、心労が、一気に溢れ出した。

 意識が飛びそうになるが、それだけは何とか堪え、深く息を吐き出す。


「また……守れなかった……」


 ボソリと一馬が呟く。

 今回も後手に回り、何も出来なかった。

 そう思い、一馬は唇を噛む。


『すまぬ。主よ。我が不用意に手を出したばかりに……怪我を負わせてしまって』


 ゆっくりと紅の方へと顔を向けた炎帝が、申し訳なさそうに頭を上下に動かす。

 鬼姫の一撃を受けてから、炎帝の動きが鈍ったのは、紅の事を気にしての事だった。

 接近して致命傷を受けてしまえば、契約者の紅の命にもかかわる。だから、下手に近づく事も出来ず、遠距離から炎を放つ事しか出来なかったのだ。

 申し訳なさそうな炎帝に対し、困ったように眉を八の字に曲げ紅は微笑する。


「謝らないでください。私は、軽傷ですから」


 指先から赤い雫が落ちる。

 紅は軽傷だと言ったが、実際は深手だった。未だに出血が止まらず、傷口を押さえる左手も血で真っ赤に染まっていた。

 もちろん、炎帝もその事は分かっていた。鬼姫の一撃を受けた張本人だ。傷がどれだけのものなのかは分かっている。

 それでも、何も言わないのは、主である紅の気遣いを無下にしないためだった。

 霧がなくなり、広々とした空間の真ん中に、粒子となり崩れていく頭を失ったケルベロスの体が横たわる。

 誰もが言葉を噤む中、唐突に声が響く。


『すまないが、少し我の提案を聞いてもらえないか?』


 突然聞こえたケルベロスの声。

 その声に、一馬はハッとし顔を上げ、紅と炎帝は怪訝そうに声の方へと視線を向けた。

 転がるケルベロスの頭部。その切断口から粒子が漏れ、ケルベロスの頭部も消滅しようとしていた。

 そんな状況でも平然とケルベロスは口を動かす。


『我は時期に消滅する』


 分かり切った事を口にするケルベロスに、一馬は唖然とし、紅は一層眉を顰める。

 むしろ、頭だけの状態で普通に話をしている事が不思議でならなかった。


「え、えっと……」


 一馬が恐る恐る口を開くと、ケルベロスは一度視線を向けた後に、


『お主ではなく、そっちの娘の方に用がある』


と、視線を紅の方へと向けた。

 その言葉を聞き、一馬も視線を紅の方へと向ける。

 一方、紅は小さく首を傾げ、一馬と視線を合わせた。紅と視線が合うと、一馬は小さく首を捻る。


「えっと……私に、何の話ですか?」


 恐る恐る紅が尋ねる。

 すると、ケルベロスは一呼吸空けて、


『我と契約しないか?』


と、提案する。

 その言葉に一同は呆然としていた。

 何を言っているのか、理解するのに少し時間がかかり、紅は二度程首を左右に傾げ、眉間にシワを寄せ、


「えっと……もう一度お願いします」


と、ケルベロスの方へと視線を向ける。

 小さく吐息を漏らすケルベロスは、少々面倒くさそうに目を細め、


『時間が無い。今一度だけだぞ』


と、前置きをして、


『我と契約しないか?』


と、もう一度提案する。

 その提案に炎帝が口を挟む。


『待て。主は現在、聖霊である我と契約中だ。魔の者であるお主と契約など――』

『心配するな。契約と言っても、正式なものではない。我も所詮は分身体。本体ではなく、ケルベロスの力の一部だ』


 頭だけのケルベロスがそう言うと、炎帝は怪訝そうに眉を顰める。

 そして、紅も眉を八の字に曲げ、チラリと一馬の方へと視線を向けた。

 疲弊する一馬と紅の視線がぶつかる。小さく一馬は頷き、「とりあえず、話を聞こう」と、俯き加減に呟き、小さく息を吐いた。

 一馬の返答を聞き、紅は視線をケルベロスの頭へと向ける。


「それで、一体、何をするんですか?」


 紅の問いかけに、ケルベロスは静かに告げる。


『力の融合だ』

「力の……融合?」

『力も何も、聖霊と魔獣では、その性質が――』


 炎帝がそう口を挟むと、ケルベロスは呆れたようにため息を吐き、


『言ったはずだ。我は分身体で、ケルベロスの力の一部。その力――青き炎を継承する』


と、告げる。

 すると、ケルベロスの頭部は青白く輝き、次の瞬間には粒子状に散り、それが、有無を言わさず炎帝へと流れ込む。


「えっ!」

『なっ!』


 驚く紅と炎帝。

 まだ、話を聞いている段階で、ケルベロスの力を継承するかどうかは判断しかねていた。

 まさかの強制的な継承に戸惑う紅に、


『すまぬな。時間切れだ。本体が消滅する。許可なく継承するが、弱くなる事は――まず無いだろう』


 ケルベロスの声が途切れ、光の粒子が完全に炎帝に吸収された。

 残されたのは沈黙と炎帝の変化。

 首回りのタテガミのような六つの火の玉の内三つが青色の炎に代わり、それが、赤青交互に燃えていた。

 それ以外に目立った変化はない。

 不安そうに胸の前で両手を握る紅は、暫し炎帝を見据えた後に、


「大丈夫……なのですか?」


と、静かに尋ねる。

 聖霊と魔獣の力が合わさるなど、前代未聞の事。故に紅は不安だった。

 その気持ちを察し、炎帝は穏やかな声で告げる。


『案ずるな。特別変わりは無い』

「それならいいんですが……」


 やはり、心配そうに紅は炎帝を見据えていた。


「不安なのは分かるけど……弱くなる事は無いらしいし――」

「そう言う事じゃ……」


 口を挟んだ一馬に、紅は困ったように眉を曲げ俯いた。

 紅の言いたい事は、一馬も分かっていた。だから、「ごめん」と呟き視線を地面へと落とした。

 少し二人の間に気まずい空気が流れる。

 そんな二人を見据える炎帝は、ゆっくりと視線を動かした後に、小さく息を吐く。


『どうやら、時間のようだな』


 炎帝の静かな声に、「えっ?」と一馬が視線を上げる。遅れて、紅も炎帝へと目を向け、同時に言葉の意味を理解する。

 一方、一馬の方は訝し気な表情を浮かべ、それを見た炎帝は、静かに鼻先で周鈴の倒れている方を指し示す。

 小さく首を傾げ、そこに視線を向けた一馬は目を見開いた。

 何故なら、倒れる周鈴の下には魔法陣が浮かび上がり、僅かな光を帯びていたからだ。


「ちょ、待っ――」


 慌てて周鈴の方へと駆け出そうとした一馬だったが、体が見えない壁に衝突する。


「なっ! 何だよこれ――」


と、見えない壁に手を添える。

 慌てた様子の一馬に対し、落ち着いた面持ちの紅は、体の前で手を組み、


「落ち着いてください。一馬さん」


と、静かに口にする。

 声に振り返った一馬。だが、何かを言う前に、


『我々がここですべき事は、終わったのだ』


と、炎帝が告げる。

 だが、一馬は納得しない。


「ま、待ってくれよ! お、俺達がすべき事って……まだ、何も――」


 そこまで言って、一馬は言葉を呑んだ。


――何もしていない。


 いや、違う。何も出来なかった。

 唇を噛み、拳を握る。

 結局、何も出来なかった。

 結局、奴の思い通りに事が運び、奴の思い通りの結果となった。

 ワイバーンも、メデューサも、セイレーンも、ケルベロスも――。

 何一つ守る事は出来なかった。

 噛み締めた唇に血が滲む。

 そんな一馬に、穏やかに炎帝は問いかける。


『本当に、何も出来なかったのか?』


 炎帝の言葉に一馬は目を伏せ、紅は両手を体の前で重ね見守る。


『得たものもあったはずだ』


 その力強い声に、一馬は静かに目を開け、顔を上げる。視線が炎帝と交錯し、やがて、足元の魔法陣が輝く。


『もう時間だ。悔やむな。お前は全力を尽くした。その結果、得たものを思い出せ』


 炎帝の言葉と共に、その体が弾けるように消滅。遅れて、意識の無い周鈴、キャルの順に魔法陣と共に姿が消える。


「顔を上げて下さい。今回は力及ばずでしたが、次は必ず――」


 両手を胸の横で握った紅が、にこっと笑い魔法陣と共に消えた。

 最後に残された一馬は、思い出していた。

 キャルがワイバーンと契約した事。

 夕菜がメデューサのリザと一体化した事。

 双子岬では――色々な事があり、最後まで見届ける事が出来なかったが、フェリアなら人魚のセイラの協力を得られただろう。

 そして、今回。炎帝がケルベロスの力を得た。

 思い返し、一馬は握った拳を緩める。

 失ったもの、成せなかった事。それらを忘れてはいけない。だが、今はそれらを反省し前に進まなければいけない。

 この先、何が起こるか分からないが、必ず彼――フードの少年と対峙する事になる。

 その時、今ある力、得た者達の力を最大限に生かし、今度こそ失わない、全てを守り通す。

 そう覚悟を決め、一馬は顔を上げた。

 と、同時に一馬は魔法陣の光と共に消えた。

 残されたのは激闘の跡と、消滅したケルベロスの残り香だけだった。



 場所は変わり――もう一方のケルベロスの分身体がいる開けた谷間。

 地面には大量のメスが突き刺さり、周囲には静かな空気が流れる。

 突起した土が貫く漆黒の肢体。その体から僅かに粒子が漏れ、首は強引に切断され頭を失っていた。

 転がったケルベロスの頭部。その上に、ジャックは腰掛けていた。

 項垂れたように長い黒髪を垂らしながら、両肩を僅かに上下に揺らす。


「分身体とは言え、流石は地獄の門番と言われるだけはあったな」


 白髪を揺らす鬼人が、褐色の肌に着いた土を払いながら静かな足音を響かせジャックに歩み寄る。

 静かな足音に顔を向けるジャックは、長い黒髪の合間から鬼人の姿を確認し、小さく息を吐く。


「おいおい。俺様を睨むのはお門違いだろ?」


 肩を竦める鬼人は、頭を左右に振った。


「そもそも、お前が迂闊に奴の体に触れて負傷するから――」


 ジャックを右手で指差し、文句を続ける鬼人。

 だが、ジャックは気にした様子もなく、視線を落とすと深く息を吐き出す。

 ピクリと右の眉を動かす鬼人は、眉間にシワを寄せる。


「……おい。テメェ、俺様が悪いって言いてぇのか?」


 あからさまなジャックの態度に、コメカミに青筋を浮かべる鬼人。その表情は明らかに引きつっていた。

 しかし、ジャックは相も変わらず、深々と息を吐き出すと、


「当然だな。俺の思っているよりも、お前の行動はワンテンポ遅い」


と、目を細め、小さく肩を落とした。

 落胆した様子のジャックに、一層表情を引きつらせる鬼人は、ゆっくりと右手を握り締めると、


「ふっざけんなっ! ぶち殺すぞ!」


と、握った拳を震わせた。

 激昂し、声を荒らげる鬼人を案の定無視するジャックは、頭を右へ左へと傾け首の骨を鳴らす。

 そして、最後に大きく腕を振り上げ伸びをし、背骨をパキパキと鳴らして腰をあげる。


「さて、と。帰るか」

「土にか!」


 拳を握ったまま怒鳴り声を上げる鬼人に、ジャックは迷惑そうに眉を顰める。


「なんだ? 還りたいのか?」

「テメェを土に還すって言ってんだ!」

「悪いが、俺の体は土で出来てないんでな。お前と違って」

「俺も土じゃねぇわ!」


 思わず突っ込む鬼人だったが、ここで気が済んだ――いや、気が削がれ、右手で頭を抱え、深々とため息を吐いた。


「もういい……ただでさえ疲れてるのに、テメェの相手をしてたら余計に疲れる……」

「全くだな」


 肩を竦め、消えかけのケルベロスの頭から降りたジャックは、小さく頭を左右に振る。

 一瞬、殺意の芽生える鬼人だったが、それを言いたい事と唾と共に呑み込み、心を静めるように二度三度と深呼吸を繰り返す。

 それを尻目に、ゆっくりと歩を進めるジャックは岩の上に腰を下ろすと、鬼人へと目を向ける。


「落ち着いたか?」

「うっさい。黙れ」

「やるべき事は終わった。俺達も戻るぞ」


 ジャックはそう言い、深く息を吐くと、鬼人へと顔を向ける。

 その眼差しに気付いた鬼人は、目を細めると、


「なんだ? その目は」


と、怪訝そうに尋ねる。

 鬼人の返答に呆れたように頭を左右に振ったジャックは、


「察しが悪いな。お前」


と、深く息を吐いた。

 ピクリと鬼人の右の眉尻が動く。

 だが、ジャックは気にせず言葉を続ける。


「俺は負傷している」

「俺もな」

「それに、消耗している」

「こっちも同じだけどな」


 ジャックの言葉に間髪入れずに返答する鬼人は、ふんっと鼻を鳴らすと、腕を組み目を細めた。

 絶対にお前の言う事は聞かないと言う強い意志を感じ取り、ジャックは静かに鼻から息を吐く。


「いいか、よく聞け。俺は(全力で戦って)余力が無い。だから、(全く戦ってなくて)余力のあるお前が帰りの道を開くべきだろ?」


 そう言い肩を竦めるジャックに対し、鬼人はほんの一瞬考える。


 俺は(お前より弱いから)余力が無い。だから、(俺よりも強くて)余力があるお前が――


 鬼人の脳内で、自分の良いようにジャックの言葉を解釈し、くくくっと、小さく肩を揺らし笑いだす。

 突然、笑い出した鬼人を「気持ち悪い」と、思いつつも、ジャックは疲れていた為何も言わず俯いた。

 その姿を横目で見た鬼人は更に「お前には負けた」とジャックが項垂れているんだと、勝手な解釈をし、上機嫌に、「仕方ねぇーな」と空間を開き、帰りの道を用意した。



 暗闇の中、佇む黒いローブを纏った男。

 大きく開いた袖口から僅かに覗く指先から、シトシトと液体が零れ落ちる。


「頭を二つ失って、あの歌を聞いても尚、この強さ……本当に恐れ入るよ」


 カツンと靴の踵が音を響かせ、ローブの男は一歩、また一歩を歩みを進める。

 周囲に僅かに響くセイレーンの歌声。それが録音されたスマホをゆっくりと拾い上げ、体の向きを九十度右へと動かす。


「流石に……もう、死んだかな?」


 スマホのライトをオンにし、ローブの男はそれで正面を照らす。

 点々と続く血の跡。その先に黒い大きな塊が転がっていた。

 微動だにしない黒い大きな塊。それは、地面にひれ伏したケルベロスの本体だった。

 すでに、二つの頭が刎ねられ、その切り口からは粒子が溢れ出す。

 残された中央の頭も、地面へと横たわり動く事はなく、大きく裂けた口から覗く大きな牙だけが不気味に光を反射していた。


「全く……無駄な抵抗を……」


 左手に持ったスマホを右手へと向ける。その手からは大量に出血し、皮膚が痛々しく焼けただれていた。

 痛みに小さく声を漏らしたローブの男だったが、すぐにその視線をケルベロスの方へと向け、静かに息を吐き出す。


「ああ。分かってるさ。これからが、本番だ」


 独り言のように呟き、ローブの男は歩き出す。消滅していくケルベロスに目もくれる事なく、その後ろに佇む巨大な壁のような扉へと向かって。

 取っ手などは無い。本当にただの壁のような扉。

 その扉の前で足を止めたローブの男は、静かに深く息を吐き出すと、


「さぁ、開け」


と、袖口からビンを取り出す。

 翼竜ワイバーンの血の中に、メデューサの両目が入ったビンを。

 それは、突如として輝きを放ち、それに呼応するように壁のような扉の中心に亀裂が走る。

 周囲に広がる悪寒。そして、深く恐ろしい程の憎悪。扉が軋み、ゆっくりと開かれる。

 こだまする人とは思えぬ者達の叫び。

 それを聞き、ローブの男は静かに笑い、


「いよいよ、最終段階だ……」


と、踏み出す。

 冥府へと続くその門の中へと。

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