第7回 ターゲットはケルベロスだった!!
「ぬわぁぁぁぁっ!」
濃霧の中、一馬の悲鳴に近い叫び声が響く。
「うるさいぞ! 黙って掴まってろ!」
背から聞こえた一馬の声に、周鈴は怒鳴る。
「そ、そんな……こ、事……うぷっ!」
周鈴に背負われた一馬は、右手で口を押さえる。
「うわっ! 馬鹿ッ! 絶対、吐くなよ!」
横目で一馬の状況を確認し、周鈴は一層怒気を強めた。
現在、一馬は白虎を纏い激走する周鈴に背負われていた。
低い姿勢で疾走する為、揺れは激しく、風も激しく頬を伝う。
それでも、一馬は必死に周鈴の肩を掴み、堪えていた。
そんな周鈴の背後には九本の風の剣が浮かび、揺らめく。すでに一本消費し、その瞬発力は飛躍的に上昇していた。
濃霧で視野も悪いこの状況で、疾走する姿は無謀で命知らずに見える。だが、周鈴には見えている。流れる風の道が。
故に、この濃霧の中でも、周鈴は岩壁にぶつかる事なく疾走する事が出来ていた。
これこそ、白虎が提案した策だった。
ただ、範囲が広い為、風の流れも弱い所があり、風の剣一本分の速度アップで安全に進んでいた。
(この先に分岐がある)
白虎の声が頭に響き、周鈴は「了解」と答え足を止める。
流石に範囲が広い為、分岐では足を止め、風を流す必要があった。
一旦、背から下ろされた一馬は、その場に四つん這いになり、「ぜぇ、ぜぇ」と荒く両肩を上下させる。
気分は最悪だった。
そんな一馬をしり目に、周鈴は二つに分かれた道を見比べる。
見比べると言っても目で確かめるわけではなく、風の流れでだ。
流石に、魔力を帯びた濃霧では、それ以外で確かめる方法はなかった。
「どっちが正しい?」
腕を組み首を傾げる。
どちらの道にも流れる風に人の姿を確認出来た。
ただ、それが誰なのかは分からない。確認のしようがなかった。
この間も、消費された風の剣の使用時間は刻々と過ぎる。故に、あまり長く迷っている時間はなかった。
(流石に、範囲が広すぎて人の存在しか把握できない。ここから先は運ね)
「運……ね。あんまり、いい方じゃないんだけど……」
周鈴はボソリと呟き、小さく息を吐いた。
そして、右手を腰に当て、重心を左足へと傾ける。
「さてさて……どっちに進むべきか……」
周鈴が呟き、考え込んでいると、纏っていた風が消える。
風の剣一本分の強化時間が終了したのだ。
「これで、一本分か……」
(流石に、この魔力の中だと効力が切れるまでの時間が短くなっているな)
「そうなのか?」
(まぁ、私の力が魔力を帯びたこの濃霧で半減しているのだろう)
頭に響く白虎の声と会話する周鈴の声だけが濃霧の中に響き、一馬は目を細める。
周鈴が白虎と話しているのだと言う事は分かっている。それでも、周鈴一人の声しか聞こえない為、とても危ない人のように感じた。
そして、普段、自分もそんな風に見られているんじゃないか、と考え気分が落ち込んだ。
しかし、それも数秒で、すぐに気持ちを切り替え、ゆっくりと背筋を伸ばし、瞼を閉じ、静かに息を吐き出す。
濃霧に含まれる魔力濃度が薄まっているのか、僅かにだが気配を感じとる事が出来た。
強烈な程強い気配があれば、意識していなければ気付けない程の気配もあった。そして、その中に紅とキャルの気配も見つけ出す。
何をもって、そう判別出来たのか。それは、一馬にもよく分からない。ただ、この二つの気配が、二人のものだと、直感したのだ。
もう一度深く息を吐き、瞼を開いた一馬は脱力し濃霧に浮かぶ周鈴の影の方へと足を進め、
「こっちだよ。二人がいるのは」
と、左の道へと左手を差し出した。
その声に、訝しげな表情を浮かべる周鈴は、首を小さく傾げ眉間へとシワを寄せる。
「はぁ? 何で、そんな事分かるんだよ」
不満げに尋ねる周鈴に、一馬ははっと、短く息を吐き目を細める。
何で、分かるのか、と聞かれると、なんとなく、としか言いようがない。
二人の気配を感じる、と言えば感じるが、それが確かに紅とキャルなのか、と聞かれるとそれは判別がつかない。
そんな曖昧な答えで周鈴が納得するとは思えず、一馬は口を噤み「うーん」と唸った。
数秒の沈黙に、業を煮やしたのか、深いため息をともに周鈴が口を開く。
「なんだよ。ただの勘か?」
「いや……勘ってわけじゃ――」
「ふーん」
一馬の声を遮るように相槌を打った周鈴は、ジト目を向けたまま腕を組み、やがて鼻から息を吐くと右手で頭を掻いた。
「まぁ、時間もねぇしな……」
周鈴が呟き、一馬へと目を向ける。
そんな最中、沈黙を守る白虎は、一馬に対し違和感を覚えていた。
「急ごう。早くアイツに追いつかないと……」
この一馬の発言で、白虎は違和感の正体を理解する。と、同時に、一馬が紅とキャルの存在を感知しているわけではない、と言う事を理解した。
ただ、周鈴の言う“勘”と言うわけでもなく、一馬は最初に感じ取った二人の気配の場所を記憶し、推測しているのだ。
その証拠に、一馬は気付いていない。すでにあのフードの男を抜き去っている事に。
ちなみに、周鈴が時間がないと言ったのは、彼がすでに迫ってきているからだ。
だから、白虎は何も言わない。今は先を急ぐべきだと判断した。この際、一馬の推測が当たっていようと、いまいと、この場を離れる事が先決だと。
その考えは周鈴も同じだった。背後から迫る異様で不気味な気配。もちろん、それを放つのがフードの男である事は明白で、追いつかれるのはマズイと、周鈴は感じていた。
「一馬! 急ぐぞ!」
「えっ? ま、まさか……また?」
「当たり前だ。さっさと掴まれ!」
厳しい口調の周鈴に、一馬は眉を顰める。だが、文句を言える立場でもない為、渋々と周鈴の肩を掴む。
肩を掴まれたのを確認し、周鈴は身を屈め、それに合わせ一馬はその背に体を乗せた。
「一気に加速するぞ!」
「あ、ああ……。心の準備は――」
「ファーストギア!」
一馬の答えを聞く前に、周鈴は叫ぶ。それと同時に背後に漂う風の剣が一本消滅し、周鈴は初速からトップスピードで駆け出す。
それにより、一馬は体が後方へと引っ張られる感覚に襲われ、
「ま、まだ心の準備があああああっ!」
と、悲鳴のような声が響き渡った。
時を同じくして――……
空を切る音と共に、濃霧が揺らぎ、遅れて衝撃が岩壁を叩く。
広がった衝撃で、濃霧が一瞬吹き飛ぶが、すぐに濃い霧に呑まれる。
そんな濃霧の中、動く巨大な獣の影。四本の足で地を蹴り、重低音の足音と地響きを濃霧内に広げる。
「クソっ! 何だコイツは!」
声を荒らげる鬼人は、片膝を着き僅かに呼吸を乱す。
その声は、周囲に反響し、ゆっくりと消えていく。声が消えると二つの足音だけが濃霧の中で折り重なる。
やがて重低音の足音が止むと、青白い光が濃霧に広がった。それにより、大きな獣の影が濃霧に浮かび上がる。
「ッ! ジャック! 来るぞ!」
鬼人が叫び、右手を地面へと着く。
「分かっている。お前は黙ってサポートに徹しろ」
鬼人の声に対し、ジャックは静かに返答する。
それと同時に、獣の影の口から青い炎弾が放たれる。
逆巻く青い炎弾は、濃霧を払い鬼人へと一直線に迫る。
奥歯を噛む鬼人は、地に着いた右手を振り上げた。すると、鬼人の正面に地面から土の壁が五枚競り上がる。
それでも、険しい表情を崩さない鬼人。今、出来うる最善の手ではあるが、これで防げる威力なのか、と言う不安があったのだ。
当然のように青い炎弾は一枚目の壁を粉砕。乾いた音が広がり、土片が散らばる。続けて、二枚目、三枚目と容易に砕かれていく。
「くっ!」
苦悶の表情を浮かべ声を漏らす鬼人は、右へと飛び退く。五枚の壁で防ぐ事が出来ないと判断したのだ。
そして、その判断は正しかった。四枚目、五枚目と土の壁は破壊され、青い炎弾は火の粉を舞わせ岩壁へと衝突し、衝撃を広げる。
衝撃に吹き飛ぶ鬼人は、地面の上を一転二転と転がった。
一方、気配――いや、存在自体を消していたジャックは、漆黒の毛を揺らす大きな獣へと間合いを詰めていた。
(これが、今回のターゲット……ケルベロスか)
ジャックはゆっくりと足音を立てる事なく、目的の魔獣ケルベロスの背後へと回り込む。濃霧でその全貌はハッキリと把握は出来ない。だが、ジャックは疑念を抱く。
(……にしては、話に聞いていたより――)
右手をその漆黒の毛に覆われた獣へと伸ばす。生まれた疑念がそうさせたのか、はたまた興味本位の行動だったのか、それは定かではないが、ジャックの右手は獣のその体へと触れる。
「ッ!」
刹那、触れた腕が発火し、ジャックは苦悶の表情を浮かべ、その場を離れる。右腕を包む青い炎はすぐに消える。
だが、ジャックの右腕は焼きただれ、痛々しく赤黒く変色していた。
その不用意なジャックの行動に、体を起こした鬼人は叫ぶ。
「テメェ! 何やってんだ!」
濃霧で何があったのかは鬼人はハッキリと分からない。それでも、ジャックの気配やその反応から何かをしでかしたのだと言うのは分かった。
そんな鬼人の声に、小さく舌打ちをするジャックは、ただれた右腕をゆっくりと持ち上げ、感覚を確認すると、
「うるさい! 黙ってろ!」
と、怒鳴り、左手にメスを取り出した。
右腕はほぼほぼ感覚がない。肘は曲がるが指は曲がったまま動かすことが出来ず、拳を握る事は出来ない。
不用意だった事を認めたうえで、ジャックは更に疑念を強くする。
「本当に、コイツが目的のケルベロスなのか!」
声を荒らげ、鬼人へと問う。
すると、鬼人は眉間にシワを寄せ、
「知るか! そもそも、目的はコイツじゃなくて――」
鬼人の声が途切れる。唐突に眩暈が体を襲い、急激に体が重くなる。
「な、なん……だ……これ……」
その現象は、鬼人だけではなく、ジャックにも起こっていた。強烈な倦怠感と動悸。立つ事もままならず、その場に片膝を着く。
頭がグラグラと揺さぶられたかのように、視界は揺らぐ。
「ぐっ……これは……」
奥歯を噛むジャックは眉間にシワを寄せ、目を細める。そして、その眼をケルベロスの方へと向けた。
濃霧が薄れ、ケルベロスの姿が徐々にあらわとなる。
漆黒の毛を揺らす雄々しい獣。鋭い牙をむき出しにし、赤い瞳がギョロリと動く。
『ここは、魂の眠る地。貴様らのような命を冒涜するような輩の来る場所ではない』
気高き気品のある声が一帯へと響き渡り、ひれ伏すジャックと鬼人をケルベロスは高圧的に見下ろしていた。