第10回 妹への想いだった!!
雄一は思い出していた。
あの日の事を――……
「オレはサイキョーだから! どんなときも、どこにいても、おまえたちのピンチにはかけつけてやるよ!」
幼い雄一(当時小学一年)がそう言うと、
「サイキョーはかんけいないんじゃ……」
と、幼い一馬が呟き、「なんだよ!」と、雄一は唇を尖らせる。
この日、雄一は上機嫌だった。一つの噂を耳にしたからだ。マンホールが異世界に繋がると言う噂。そして、実際に異世界に行ったと言う生徒が隣のクラスにいると知った日だった。
多くの――いや、誰もがそれはエイプリルフールの嘘だと、信じていなかったが、雄一は信じていた。すぐにでも話を聞きに行きたかったが、あいにく、その子は今日学校には来ていなかった。だから、明日は家に行ってでもあって、話がしたい。そう思っていた。
だが、そうはならなかった。
「ゲホッ! ガハッ!」
突然の暗転と共に、雄一は咳き込み血を吐いた。激しい胸の苦しみ、呼吸が出来ない。そして、意識は落ちていく。
「ゆーいち!」
一馬の名前を呼ぶ声を最後に。
走馬灯のような記憶を思い出し、雄一は闇夜を一閃する。
青白い閃光が海岸から海岸へと一直線に駆け、その衝撃で再び海面が割れた。
激しい波が岸へと打ち付け、砂浜を呑み込む。
眩い一瞬の閃きに、巨大な鬼も殆ど反応は出来ていなかった。
何かが迫っているのに気付き、右手を伸ばしたが、それは、その手を通過し、一瞬で消えていった。
一回、二回と、大きな目玉を覆う瞼。光は消え、再びの闇が周囲を包み込む。
体に痛みはなく、巨大な鬼はもう一度瞬きを――そして、瞼を開いた時、異変に気付く。
巨大な鬼は見上げていた。空に微かに輝く青白い炎と、その傍に佇む自らの体を。
耳に届く波と波とがぶつかる音。
激しく舞い上がる水飛沫。
硬直していた時が動き出し、巨大な鬼の頭が砂浜へと跳ねた。
大きな目玉が見開かれ、噛み締めた牙が唇の合間から覗く。
「き、きさ――」
巨大な鬼は言葉を発しようとした。だが、切断面に残された蒼い炎が、それを阻むように一気に顔を覆いつくした。
それと同時に、頭を失った巨大な体も蒼い炎に包まれ、その肉体は崩れていく。
伸ばした右腕が砂浜に落ち、続けて両膝、最後には体が……。
そして、「うおおおおっ!」と断末魔を上げ、巨大な鬼は消滅する。
それを見届け、空を舞う雄一は「ゲホッ」と大量の血を吐く。背に生えていた翼は消え、マントへと戻り、その手から滑り落ちた紅蓮の剣が砂浜に突き刺さり、そして、雄一は砂浜に叩きつけられた。
体を包む蒼い炎は消えない。その肉体を焼き尽くすまで。
燃えているはずなのに、雄一は寒気を感じ、体が僅かに震える。ずっと纏っていた朱雀が消えたのを感じ、雄一は深々と熱気のこもった吐息を漏らす。
視界が狭まり、命が燃え尽きるのを感じる。
そんな中でも雄一が想うのは、妹である夕菜の事だった。
美しい歌声が響く中、一馬とフェリアはようやく階段を下り終え、長い横穴を進む。
入り口の建造物と階段とは違い完全な洞窟となっており、足場は凸凹とし滑りやすくなっていた。
光も差さず、真っ暗なその中で、一馬の右手に持ったスマホのライトだけが光を放つ。
転ばぬように、足元を照らしゆっくりと一歩一歩進む二人の間に言葉はない。
ただ美しい歌声だけが洞窟内に反響し広がるだけ。
歌の主に近づいているのか、その声は外で聞いていた時よりも明らかに大きく鮮明に聞こえた。
「ゼェ……ゼェ……」
大きく開いた口から荒い呼吸を繰り返す一馬。
ここにきて、今までの疲れが一気に体を襲っていた。柚葉を召喚した事、青龍を纏わせた事に加え、色々な不安などから、精神的にも体力的にも、一馬は限界が近い。
足は鉛のように重く、一歩一歩の歩幅は小さく、踏み出される足も引き摺り気味だった。
一方、フェリアも表面には出さないが、魔力の消耗による疲れが見え隠れしていた。
一馬よりは幾分か余力があるが、それでも些細な程度で、こちらも足取りは重い。
唯一の救いは、歌声が近づいていると言う事と、明確な目的がある事。それを目指し、二人はゆっくりと足を進めていた。
――洞窟の奥地。
波の音も届かぬその場所は、不気味に発光する巨大な魔法陣が描かれ、その中心には一人の少女が祈りを捧げるように胸の前で両手を組み、声高らかに美しいメロディーを紡いでいた。
美しい瑠璃色の長い髪が僅かな明かりを浴び、艶やかに煌めき、彼女の白い肌はその輝きを受け、淡い瑠璃色に染まっていた。
そして、何よりも特徴的だったのは、その下半身。彼女には足が無く、あるのは美しい鱗が煌めく尻尾。彼女は、いわゆる人魚だった。
そんな彼女の歌声は反響し、何重にも折り重なる。それでも、その音色の美しさは変わらない。
そんな一室に風を切る音が響き、巨大な魔法陣をカツンッと靴の踵が叩く。
突如、響き渡るその音に、彼女は歌うのをやめ、その視線を音の方へと向けた。
「誰?」
静寂の中に響く、美しくも幼さの残る声。
澄んだ淡い赤い瞳が真っ直ぐに向けられ、黒いローブに身を包む男はゆっくりと歩みを進める。
「君のお姉さんには、本当に手を焼かされているよ」
「ッ! あなたが、お姉ちゃんを!」
少女の目が怒りに滲み、淡い赤い瞳が僅かに光を帯びる。
そして、その美しい姿には似つかわしくない鋭い爪を指先から伸ばす。
「敵意むき出しだね」
「お姉ちゃんを返して!」
「ああ。いいよ」
男は右手を顔の横まで上げる。すると、空間が裂け、そこから少女に瓜二つの人魚が投げ出される。
美しい瑠璃色の髪はくすみ、鱗は何枚もはがれ、体にも傷のつけられたその人魚に、少女は叫ぶ。
「お姉ちゃん!」
弱り切った人魚の少女は顔を上げ、
「……セイラ」
と、弱々しく呟く。
セイラと呼ばれた人魚の少女は、赤い瞳を潤ませる。
そんな彼女の前で、ローブの男は彼女の姉である人魚を右足で踏みつけた。
「お姉ちゃん!」
セイラが叫び、ローブの男を睨む。
「感動の再会。そして、永遠のお別れだ」
大手を広げ、高らかにローブの男が宣言すると、セイラの周囲に小さな空間の裂け目が幾つも生まれ、
「や、やめて!」
セイラの姉の叫び声と同時に、
「さよなら」
と、ローブの男が呟き、両手の指をパチンと鳴らす。
すると、セイラの周囲に現れた複数の小さな空間の裂け目から、一斉に弾丸のようなものが放たれ、彼女の体を撃ち抜く。
「セイラッ!」
セイラの姉の絶叫が響き、セイラの体から血飛沫が上がった。
その声は洞窟内に反響し広がる。当然、そこにいた一馬とフェリアにもその声は聞こえた。
歌声が途切れてすぐだった為、二人は歌っていた主に何かがあったのだと悟り、顔を見合わせ歩を速める。
ほどなくして、二人はあの場所に辿り着く。
黒いローブを纏う男と、血まみれに倒れるセイラに寄り添うセイラの姉がいる不気味に輝きを放つ魔法陣のある広場に。
呼吸を乱す一馬は、状況を把握しようとその瞳を右へ左へと動かす。
一方、フェリアは唇を噛みその金色の髪を揺らめかせ、右手を黒いローブを纏う男へと向ける。
「やめておけ」
黒いローブを纏う男はそう言い、フェリアを見る事なくセイラの姉の方へと歩を進める。
ギリッと奥歯を噛むフェリアは、右手に魔力を集中する。
「何故、あなたがここにいるの!」
フェリアが静かに尋ねる。
だが、ローブの男はそれを無視し、セイラの姉へと語り掛ける。
「君が悪いんだ。セリア。君が歌う事を拒まなければ、妹はこんな目に会う事はなかった」
静かでとても威圧的な声に、セリアと呼ばれたセイラの双子の姉は、ローブの男を睨む。
「アクア――」
フェリアの手のひらに水が収縮されると同時に、
「今、こっちが話してるんだ。邪魔するなよ」
と、ローブの男がフェリアの方へと右手を向け、パチンと指を鳴らす。
その瞬間、凄まじい衝撃がフェリアの体を後方へと弾いた。
「ガッ!」
鳩尾を抉られるような衝撃に、フェリアの口から唾液が飛び、激しく地面を転げる。
「フェリア!」
状況を確認していた一馬が慌てて、フェリアの方へと駆け寄る。
意識はあり、「ゲホッゲホッ」と苦しそうに咳き込むフェリアに、一馬は少なからず安堵した。そして、ローブの男を睨みつける。
彼が一体、何をしようとしているのか、一馬は考える。目的は歌。それだけは分かっているが、それなら先程まで聞こえていた歌は、目的の歌ではなかったのか、そんな疑問を抱く。
そして、視線はセイラとセリアの双子の人魚へと向く。血まみれのセイラを抱くセリア。その肩が震えていた。
「さぁ、どうする? 今なら、まだ助けられるかもしれないぞ? セリア。君の歌で」
「私は……」
俯くセリア。
その目に映る血濡れたセイラ。その姿に、セリアは潤んだ瞳を隠すように瞼を固く閉じ、唇を噛み締める。
セリアは歌が嫌いだった。いや、歌う事が嫌いだった。
何故なら、歌う事が好きで好きで、毎日のように歌の練習をする妹セイラを傍で見てきたから。
人魚である彼女達の歌には不思議な力があり、彼女達の歌声は人を魅了する。
そんな中でもセリアの歌声は特別で、セイラはよく比較の対象にされていた。それを聞くのか嫌で、セイラが悪く言われるのが嫌で、いつしかセリアは歌う事をやめた。
それもまた、セイラのせいにさせ、二人に里を逃げ出しこの双子岬に隠れ住んでいたのだ。
「いいのかい? 命は有限だよ。早くしないと――」
ローブの男はそこまで口に後、口元を緩め、左手に取り出したスマホの画面をタップする。電子音が鳴り、録音が始まる。
静かな歌がセリアの口から溢れ出す。
先程まで響いたセイラの歌声と瓜二つの綺麗な声。優しく体を癒してくれるとても静かな歌声。
音楽の事など殆ど興味のない一馬も、目を張り歌うセリアへと目が奪われる。
何が凄いのか、何故、こんなにも心が惹き付けられるのか。分からないが、彼女の妹セイラに対する想いが伝わり、一馬の目からは知らず知らずに涙が溢れ出していた。
それほど、心に響く歌だった。
魔力を帯びた彼女の歌声は、外まで――いや、この岬全体へと広がる。優しい歌声に、木々がざわめき、海は波を穏やかにする。
そして、周囲一帯に漂う鬼の残骸――負のエネルギーを浄化し、淀んだ空気すらも一変させていく。
彼女の歌う歌は“命の息吹”。あらゆるモノを癒す歌。
その歌により、セイラの体に刻まれた傷は塞がり、その場にいた一馬の左手の傷も痛み引き、傷口も塞がっていた。
ローブの男はその歌声に目を見開き、興奮気味だった。それは、彼が求めていたもの以上のものだったからだ。
しかし、その歌声は突如乱れる。
「ゲホッ! ゴホッ!」
と、咳と共に吐血した事によって。
彼女が口にした歌――“生命の息吹”。
全ての生命を癒す力。傷ついた者の傷を癒し、全てを浄化する。代償は――歌い手の命。
これだけの力を秘めているのだ。当然と言えば当然の代償だ。
それでも、彼女は歌う。口の周りを血で赤く染めながらも、その美しい声が掠れようとも。
魔力は次第に弱まり、彼女の歌声も小さくなっていく。セリアの体力の限界が近い。
そんなセリアの歌声に、ローブの男は小さく鼻から息を吐く。
「ここまでか……」
スマホの画面をタップし、録音を止めたローブの男は、冷めた目をセリアへと向ける。
その小さな声が聞こえ、一馬はハッとし、ローブの男へと視線を向けた。
ローブの男の右手がゆっくりと持ち上がり、その手の平がセリアへと向けられる。
「やめ――」
「もういいよ。そんな歌、耳障りだから」
一馬が動き出すと同時に、ローブの男は冷やかにそう告げると、彼の正面に空間の裂け目が現れ、そこから風の刃が飛び出す。
それは、音もなく空気を裂き、そして、残酷にもセリアの首を刎ねた。
一瞬の出来事だった。一馬には何もできなかった。ただ、一歩、右足を踏み出す事しか。
歌が止み静寂ば場を包む。
ゴトリと音をたて、刎ねられたセリアの頭が地面に落ちる。
目を見開く一馬は、強く握りしめた拳を震わせ、奥歯を噛み締め、ローブの男へと駆け出す。
「テメェェェッ!」
一馬の口から出た感情的な言葉、声。
たまりに溜まった――、堪えていた怒りが一気に爆発した。
だが、感情的になろうが――、怒りを爆発させようが――、その握った拳を一馬が振るう事はなかった。
いや、出来なかった。
ローブの男は、向かってくる一馬へと冷めた目を向け、
「やめておけよ。感情的になっても、君には何も出来ない。誰も守れない」
と、静かに告げ、指をパチンと鳴らす。
すると、彼の周囲の空間が歪み、やがてそれが彼を呑み込む。
「待てっ!」
一馬は必死に手を伸ばす。だが、その手は届かない。
指先が彼に触れる前に、彼は空間の歪みの中に消えていった。
空虚を掴む右手を握りしめ、一馬は唇を噛む。ぶつけようのない怒りに俯き、握った拳を振り下ろす。
「クソっ……」
思わずそう呟く一馬は、ただ茫然とその場に立ち尽くしていた。
数分後、一馬はすでにそこにいなかった。
ここですべき事を終えたと、言うように、ローブの男が消えてすぐ、一馬の足元に魔法陣が現れ、そのまま一馬も消えてしまったのだ。
この魔法陣の描かれた広間に残されたのは、フェリアと人魚のセイラと、セイラの姉セリアの亡骸。
ゆっくりと立ち上がるフェリアは、金色の髪を揺らしセイラの傍へと歩みを進め、その横に血を流し倒れる頭のないセリアの亡骸を抱き上げる。
「ごめんなさい……わたくしにもっと力があったなら……」
悔しさを滲ませ、声を震わせるフェリアは、その亡骸を魔法陣の向こう側にある台座の上へと移動させ、静かに両手を合わせた。
この世界で、どのように遺体を処理しているのか分からない為、仕方なくそうしたのだ。
暫くして、
「んんっ……」
セイラが目を覚ます。美しい尾を揺らし、ゆっくりと体を起き上がらせ、セイラは周囲を見回し、ゆっくりと自分の体を確認する。
「確か……体を撃ち抜かれて……」
訝しげに無傷の体を両手で触るセイラは、やがて慌てたように「お姉ちゃん!」と顔を上げた。
当然、そこには何もない。もうあのローブの男もいない。
残っているのは、悲し気な表情を浮かべるフェリアと、台座の上に寝かされた遺体だけ。
それを目にし、セイラは目を見開く。
「お……ねえ……ちゃん……」
震えた声でそう発し、セイラは空を泳ぎ台座の前へと移動する。
頭を失ったセリアの姿に、セイラは唇を噛み、その体に抱きついた。
「お姉ちゃん……お姉ちゃん!」
声を漏らし、彼女は泣いた。
それを、フェリアは見守る。ただ、じっと。彼女の悲しみが少しでも癒えるまで。
どれ位、時が過ぎただろう。夜が明け初め、洞窟の天井に僅かに陽の光が差していた。
ようやく、セイラの声は止み、フェリアは彼女の方へと歩みを進める。
「もう……大丈夫ですの?」
フェリアの言葉に、セイラは小さく頷き、赤くはれた眼を向ける。
「えぇ……泣くだけ……泣いたから……。それより、あなたは?」
瑠璃色の髪を揺らすセイラが、僅かに眉を顰める。
「あなたの敵ではない……と、思いますの。あなたが、人間を敵だと思っていないなら」
悲し気な眼でそう答えたフェリアに、セイラは小さく息を吐く。
「分かってる。人間にも、いい人、悪い人がいるのは――。それに、それは、私達人魚の世界も一緒だから」
「そう……ですの」
フェリアがそう答えると、セイラは少しだけ自分の生い立ちについて話した。
人魚の里の事。その時、姉の力を利用しようとしていた人魚の事。自分が姉よりも劣り、それにより迫害を受けていた事も。
それから、鬼の襲撃を受けた際に、ここに姉であるセリアに閉じ込められた事。扉が閉ざされたのは、セリアの歌によるもので、セイラがここで歌い続けていたのは、その扉を開く為だった。
何故、フェリアにそんな話をしたのか、セイラ自身分からなかった。ただ、知ってもらいたかっただけなのかもしれない。
そんなセイラに、フェリアは優しく右手を差し出す。
「良ければ、わたくしと一緒に来ませんの?」
優しいフェリアの言葉に、セイラは一瞬躊躇する。彼女の周りには、そんな優しい言葉を掛けてくれるのは姉であるセリアしかいなかったからだ。
だから、フェリアの言葉を警戒していた。
しかし、真っ直ぐフェリアの目を見て、セイラは小さく頷き、
「わ、私が……一緒で……いいの?」
と、弱々しい声で尋ねる。
「もちろんですの」
と、フェリアは即答した。
これは、一馬の願いだった。
魔法陣が足元に光り、消える際に、
「彼女を一人にしないでくれ。きっと辛いだろうし、何より一人でいると憎しみが強くなるだろうから……。彼女のお姉さんも、復讐なんて望んでない……と、思うから」
と、握った拳を震わせ、必死に怒りを堪えながら願った。
もちろん、フェリアもそれは同感だった。だから、セイラに右手を差し出したのだ。
自分が出来る事を。彼女の悲しみが少しでも和らぐよう。
差し出された手を取ろうとして、セイラはやめる。
不思議そうに首を傾げるフェリアへ、セイラは俯き瞼を閉じた。数秒の沈黙の後、彼女は意を決したように瞼を開き、真っ直ぐにフェリアの顔を見据え、
「歌ってもいいですか?」
と、胸の前で両手を握りしめる。
強い意志のこもった眼差しにフェリアは、「えぇ」と笑顔で快諾し、それに、セイラは安堵する。
そして、巨大な魔法陣の真ん中まで空を泳ぐように移動し、そこで両手を胸の前で組む。
「お姉ちゃん……私の歌で……安らかに眠って」
セイラはそう呟いた後、すっと息を吸い瞼を閉じ、静かにメロディーを紡ぐ。
美しく優しく透き通る歌声が周囲へと響き渡った。
水平線の向こうから覗く朝陽。それにより、空は明るんでいた。
砂浜に倒れる柚葉は、陽の光を浴び、目を覚ます。
「ん、んんっ……」
ゆっくりと開かれた瞼。視界に映る砂浜。頬に感じる砂の感触に、柚葉は昨夜の事を思い出していた。
「あたしは……」
意識が覚醒するまで少々時間がかかり、思考が動き出すまで更に時間がかかった。
倒れたまま、砂浜に頬を着けたまま数秒。
何度目かの瞬きの後、柚葉は両手を砂浜に付き、体を起こした。
「あの後……どうなったんだ……。それに……」
体を起こした柚葉は、訝し気に体をチェックする。昨夜、間違いなく体を酷使するような戦いをしたはずなのに、体に何処も異常を感じなかった。
いや、それどころか疲れもなければ、痛みもない。
右手で頭を抱え、目を細める。誰かが治療したような跡もないし、自分のいる場所が周りの砂よりも少し陥没している事から、あの時上から押しつぶされたままの状態なのはわかった。
何が何なのか分からず、途方に暮れる柚葉は、長い金髪を朝陽に輝かせ、深い息を吐く。
「とりあえず……終わったのか?」
安堵する柚葉が、ホッと胸をなでおろした時、今まで静かだった一帯に歌が響き渡る。
ビクリと肩が跳ね、柚葉は立ち上がる。
今まで聞こえていなかった歌が響いたと言う事は、まだ何も解決していない。そう思ったのだ。
そんな強張った柚葉に、
「大丈夫だ。全部終わった。時期に帰れる」
と、雄一の声が静かに告げる。
その言葉に柚葉はもう一度安堵したように息を吐き、
「そっか……終わった――ッ!」
と、声の方へと顔を向け、息を呑んだ。
「お、お前……」
柚葉は絶句する。
見開かれた眼に映るのは、佇む雄一の後ろ姿。
「怪我……ねぇか?」
ハッキリとした口調で雄一は尋ねる。だが、柚葉にその言葉は入ってこない。
ちょうど、朝陽と逆光で雄一の姿はハッキリと見えない。しかし、それはハッキリと分かる。
「そんな事より、お前、体!」
思わず声を荒げる柚葉。
当然だ。目の前にいる雄一の体は欠けていた。右足と左腕が。
握った拳を震わせ、柚葉は一歩、また一歩と雄一へと近付く。
「何考えて――」
「お前が起きるのを……待っててやったんだろ」
やはり、ハッキリとした口調で雄一はそう言う。
とても、そんな口調で話せるような状態には見えず、柚葉は足を止め訝し気に雄一を見据える。
「陽も明けてきた……鬼も消えた……もう……俺の、する事は終わった……」
急激に声が弱り、途切れる。
「お前、やっぱり――」
右足を踏み出した柚葉は、雄一の言葉にハッとし辺りを見回す。
争った跡はないが、そこら一帯に鬼がいた形跡があった。陽が昇り始めた事により消滅したのだ。
雄一が“待っていた”のは、柚葉が目を覚ます事。鬼が残るこの場所で意識を失った柚葉を守る為、雄一はボロボロの体で、鬼達を近づけないようけん制していたのだ。
それに気付き、柚葉は複雑そうに眉を顰め、唇を噛んだ。
文句など言えない。あの体で必死に守ってくれた人に、文句など言えるわけがなかった。
「悪い……お前に、頼みがある」
背を向けたままの雄一の言葉に、柚葉は「なんだ?」と静かに尋ねる。
「まぁ……あいつに限って、万一にもあり得ねぇとは思うが……もし、一馬が……暴走した時は……俺の代わりに、殴ってでも……止めてくれ。まぁ、大丈夫だとは……思うけどな」
そう言って、雄一は乾いた笑いを吐いた。
彼の足元の砂は大量の血を吸い赤く染まり、その傷口からはもう血は殆ど出ていない。
もう、流すだけの血はない。雄一の意識は遠退き、視界は暗くなる。
「あぁ……こえぇ……なぁ……。死にたく……ねぇ……なぁ……」
その体は静かに砂の上へと倒れ、雄一のその声は波の音にかき消され、誰の耳にも届く事はなかった。