第1回 海だった!!
「いーやーだ! アタシも行く!」
燭台の炎が揺らめき、火の粉が舞う。
静かな一室に響く、幼く愛らしい声。
ピョンピョンと跳ねる小柄な少女。
短い黒のスカートの裾がヒラリヒラリと、腰の位置まで伸びる真紅の髪と一緒に揺れる。
黒光りする靴の踵がカッカッカッと彼女が跳ねる度に、石畳の床を叩く。その音が殺風景で広々とした一室に反響し、やがて消えていく。
「いやいや。鬼姫さん。彼は遊びに行ったわけじゃないんですよ?」
ピョンピョンと跳ねる鬼姫に、そう言うのはヴァンパイアのジル。
美しい青白い顔には、困ったように引きつった笑みが浮かんでいた。
鬼姫の我儘はいつもの事だが、今回は少しだけ違った。
「うっさい! ぜーったい、アタシも行くっ!」
「はぁ……鬼姫さん。いい加減に――」
「行くのっ! アタシも! カズキと! 一緒にっ!」
パタパタと両拳を小さな胸の横で上下に激しく振りながら、怒鳴る鬼姫に、流石のジルも頭を抱える。
いつも我儘ばかり言う鬼姫だが、ここまで激しく駄々を捏ねるのは初めてだった。故に、ジルも少々困り始めていた。
ムスーッと両頬を膨らせ、唇を尖らせる鬼姫は腕を組みそっぽを向いた。
呆れるジルは、深い深いため息を吐き、ジト目で鬼姫を見据える。
「今日はどうしたんですか? やけに食い下がるじゃないですか?」
ジルのその言葉に、鬼姫は、「だって、だって!」と繰り返し、ぎゅーっと瞼を閉じ、下唇を噛んだ。
そして、むふーっと一気に鼻から息を吐きだすと、潤んだ瞳をジルへと向ける。
「この前、倒れたじゃん! また倒れたら大変じゃん! 顔色だってまだ悪かったし……」
早口で一気にそう声を荒らげ、鬼姫はもう一度下唇を噛んだ。
小さく鼻から息を漏らしたジルは、腕を組むと頭を右へと傾ける。
「確かに、あなたの言う通り、カズキは前回倒れたけど……それは、四個もの魔法陣を一気に開いたからで……」
「そんなの関係ないもん!」
「いやいやいや……。幾らカズキでも、一度に四個もの魔法陣を開けば倒れますから……。今回はそんな事にはならないでしょうし、心配する事ないと思いますよ?」
小さな子供に言い聞かせるように、ジルはそう言うと、優しく微笑する。
普段の鬼姫ならば、こんな扱いをされれば、「子供扱いするな!」と子供のように怒鳴るが、今回はそれがなかった。
それだけ、鬼姫の思考はカズキに固執していた。
これは、重症だと、すぐに察知するジルは、困ったように眉を曲げる。
「あんたは心配じゃないの? カズキの事」
「私ですか? まぁ、彼の事は信じてますから。逆に聞きますが、鬼姫さんは、彼の事、信用していないのですか?」
鬼姫の質問に、ジルは当たり前のように返答し、逆に質問を返す。
その言葉に一瞬、鬼姫の表情は不快そうに変わるが、すぐにそれは不安へと変わる。
「し、信用し、してる……けど――」
「なら、今回は大人しくしている事ですね」
「でも――」
「カズキを信じているのでしょ?」
「そ、それは……そうだけど……」
「なら、待ちましょう。はい。この件は終わりです。いいですね」
念を押すように、ジルは鬼姫の顔を右手で指差した。
いいように言いくるめられた鬼姫は、ムッとした表情を浮かべる。流石にここまで言われては、何も言い返す言葉がなかった。
長く続いた落ちていく感覚が、唐突に終わりを告げ、一馬は足から地上へと落とされた。
真っ暗で上下の感覚すら分からない空間から投げ出された形の一馬は、すぐにその場に倒れ込み、ゆっくりと瞼を開く。
長い闇の中にいた為、ほんの僅かな明かりでもとても眩く、視界は真っ白だった。
それでも、一馬は今、自分が何処にいるのかを理解する。
「…………う……み?」
耳に届くさざ波の音。
鼻腔を擽る潮の香。
それらが、まだ視界のはっきりしない一馬に、ここが海であると言う事を理解させる要因となった。
もう一つ言えば、地面の感触。自分の体が僅かに沈むような感覚から、ここが砂浜であると言う事も理解し、今いるのは浜辺であると一馬は判断した。
だが、それだけで、ここが何処の世界なのか、判別は出来ない。
ゆっくりとだが、一馬の視界は開けていく。ぼやけた視界の中に飛び込む青い海に描かれる白波の曲線。
今までの行った二カ所とは明らかに違い、とても穏やかな空気が流れていた。日当たりも良く、照り付ける日差しに一層一馬は目を細める。
「久しぶりに、太陽を見た気がする……」
ボソリと呟く一馬は、日の光を遮るように、右手を眉の上にかざす。
土の山も、火の国も、基本、空は分厚い雲に覆われている。故に、一馬のその感覚は間違っていなかった。
「それよりも……何処だ? ここは……」
ようやく、視界も良くなり、一馬は辺りを見回す。
とりあえず、土の山と火の国ではないと言う事は分かっている。ただ、情報が少なすぎて、ここが、水の都なのか、風の谷なのかは判断がつかない。
それに、一つ気になっている事もあった。
「人が……いない……」
綺麗で穏やかな海岸であるにも関わらず、人の気配が全くなかったのだ。
聞こえるのは波の音と一馬の足が砂を踏みしめる音だけ。
違和感を覚えながら、一馬はゆっくりと歩を進める。
何処へ行けばいいのか、どうすればいいのか、全く分からないが、照り付ける日差しから逃れたかった。その一心で、一馬は歩みを進める。
体が重い。まだ、体調は万全ではなかった。足元がおぼつかず、頭は靄がかかったようにボーッとしていた。
思考がうまく回らないのは、その影響もあったのかもしれない。
「ハァ……ハァ……」
ふらふらと上半身を揺らしながら、息を切らせる一馬。その足が止まったのは、十分程歩いた後だった。
ひんやりとした岩陰。額から汗を流す一馬は冷たい岩に背を預け、砂浜に腰を据える。
汗が滲んだズボンには砂が張り付くが、それを気にしている余裕はなかった。
大口を上げ、空を見上げる一馬。急激に瞼が重くなる。それでも、意識を失う事だけは必死に耐え、頭を二度、三度を振った。
「くっ……今、意識が落ちかけた……」
ボソリと呟き、立てた右膝に右肘を乗せ、その手で頭を抱える。
これ以上、体力を消耗する事は避けたかった。今までの経験上、聖霊の力が必要不可欠になる。故に、一馬は召喚し、それを維持するだけの体力を残しておかなければいけないのだ。
俯く一馬の前髪の先から汗が滴れ、砂へと落ちる。
どれ位の時間が過ぎたのか、陽は傾き、影が伸びていた。
陽が傾いたおかげか、日差しも弱まり、ほんの少しだけ辺りには涼やかな風が吹き抜ける。
「…………足音?」
静かな風の音とさざ波の音の中に僅かに聞こえた砂を踏み締める音。その音に一馬はゆっくりと顔を上げた。
「誰か……いるのか?」
靄のかかった思考の中でも、強い警戒心を持ちながら一馬は問いかける。
一馬のその声に、キュッと砂が鳴き、足音が止まった。
暫しの沈黙に、一馬は怪訝そうに眉を顰め、目を凝らす。霞む視界に一つの人影が見える。ただ、ハッキリとその顔が確認できるわけでなく、警戒心は一層強くなっていた。
大粒の汗が額から溢れ、ゴクリと息を呑む。ほんの数秒程の沈黙なのだが、一馬にはそれがとても長く感じる。
「……一馬?」
予期せぬ言葉に、思わず肩を跳ね上げる一馬。
その凛とした女性の声には聞き覚えがあった。故に、一馬の唇はその名を口にする。
「フェリ……ア……」
張り詰めていた糸が途切れ、一馬の意識は遠退く。
「か、一馬!」
前のめりに倒れた一馬に、金色の髪を揺らすフェリアは、慌てて駆け寄った。