第7回 深夜の襲撃だった!!
アレから数時間が過ぎ、陽は完全に落ちていた。
目を覚ました一馬は、紅に準備された部屋に案内され、質素な食事をとっていた。
一馬が目を覚ましたのはつい十分ほど前で、まだ眠気眼だった。コクッコクッと頭を上下させる一馬の姿に、紅はクスクスと笑う。
食事を終えた一馬は大きな欠伸を一つした。右目の目尻から涙を一粒零した一馬は、右手で頭を掻き目を細める。
「んんーん……今、何時だろう……」
両腕を頭の上へと伸ばし背骨をボキボキと鳴らす一馬に、紅が部屋の外へと目を向け小さく頷く。前回幾つ鐘がなったのかを思い出し数えていた。
それから、紅はすぐに一馬へと笑みを向け、
「もうすぐ零時かと。確か、前回、二十三回鐘の音が聞こえましたから」
「そっか……じゃあ、もう夜中か……」
脱力し伸ばしていた腕を下ろした一馬は、静かに息を吐いた。妙に体がだるいのは寝すぎの所為だと、一馬は左手で首を揉んだ。使い慣れていない枕じゃなかったのが悪かっただろうか、などと考えていると、紅が心配そうな目を一馬へと向けていた。
一馬はすぐにその眼差しに気付き、慌てて笑みを浮かべる。
「だ、大丈夫だよ? ちょっと、寝過ぎただけだよ」
「そ、そうですか? あんまり無理はしないでくださいね」
不安そうに胸の前で手を組む紅に、一馬は困り果てる。どうにも紅は心配性と言うか、過保護と言うか、やたらと一馬を心配していた。
この世界とは無関係な一馬を危険な目にあわせたくないと、言うのは分かっている。だが、幾らなんでも心配し過ぎだと、一馬は感じていた。
落ち着かない様子の紅は、目を伏せるとホッと息を吐く。それから、安堵した様に微笑み一馬の顔をジッと見据える。そんな紅の顔に、一馬も微笑した。
小さな部屋には穏やかな空気が流れていた。寝過ぎた為か、一馬の目は冴えていた。だが、紅は右手で口を覆い眠そうに欠伸をする。
「大丈夫? 俺はもう大丈夫だし、紅は寝た方がいいんじゃない?」
「そ、そうですか? じゃあ、私は――」
その時だった。
鬼の襲撃を伝える甲高い鐘の音が何度も何度も響いたのは。
穏やかだった空気は一変し、紅の表情は強張る。眠気など吹っ飛び、紅は静かに立ち上がった。拳を握り締め、肩を震わせて。
立ち上がった紅の顔を見上げ、一馬は静かに口を開く。
「また、襲撃?」
「はい……でも、なんで……まだ、半日も経ってないのに……」
訝しげな表情を浮かべる紅に、一馬は落ち着いた口調で尋ねる。
「それって、おかしい事なの?」
「はい。私の知る限り、鬼は一日に何度も襲撃してくるなんて事はありません。
守人に倒された鬼でも、蘇るのには数日掛かりますし……。何より鬼も無尽蔵に生み出されるわけじゃありません。
それに、聖霊である炎帝様の力で消滅させられた鬼は蘇りませんから……半日じゃとても……」
右手を顎に添え、折り曲げた人差し指を唇に当てる紅が、薄らと開かれた唇から吐息を漏らす。一馬にはその姿が妙に色っぽく見え、頬を赤らめた。
こんな状況でそんな風に思うなんてと、一馬は頭を左右に振り頬を両手で叩いた。その音で紅の視線が一馬へと向けられる。
「ど、どうかしたんですか?」
「い、いえ……な、何でも……」
頬に手の跡を残した一馬が紅へと微笑んだ。その顔に小さく首を傾げた紅だったが、すぐに昼間の事を思い出し部屋を飛び出した。
「す、すみません! 私、い、急がないと――」
「えっ? あっ、ちょ、ちょっと待って!」
紅は深く頭を下げた後に廊下を駆け出した。そんな紅に一馬はそう叫び、立ち上がり廊下へと出た。廊下を駆ける紅の背中を見据える一馬は、胸の奥に妙な胸騒ぎを感じた。だからだろう。一馬が紅の後を追って走ったのは。自然と足が動いたのだ。
紅は朱雀の間へと入ると、朱雀の巨像を前に手を組み祈る。精神集中を行っていた。静かに流れる数秒の間、気持ちを落ち着かせ、心を静める。耳を澄ませば聞こえる一馬の足音。だが、その音もすぐに消える。それ程、紅は集中していた。聖霊を呼ぶと言う事は、それだけ集中力が必要なのだ。
一馬の足は朱雀の間の前で止まった。開かれた襖から朱雀の巨像の前に跪く紅の背中を見据える。部屋には入らず、廊下から。
一馬が部屋に入らなかったのは、その背中から放たれる空気が異様に見えたからだ。広い部屋なのに、とても空気が薄く、そこに入った瞬間に押し潰されてしまう、そんな風に一馬は感じた。
数秒ほどの祈りを終え、紅はゆっくりと瞼を開く。恐ろしく冷めた瞳が朱雀の巨像を見上げる。そして、紅は静かに立ち上がる。
「私に力を……皆を守る力を……」
願う様にそう口にし、紅は唇を噛み締める。どんなに願ってもその想いは届かないと分かっているからだ。所詮、目の前の朱雀は木彫りの像でしかない。そんなモノに願っても何の意味も無いと。
それでも、紅はその朱雀の姿に丁寧に頭を下げた。
「では、行って参ります」
紅はそう告げ、一馬の方へと体を向けた。そこで、ようやく紅は一馬がいる事に気付いたが、真剣な表情を崩す事無く音も無く歩みを進める。
「紅……」
横を通り過ぎる紅へと、一馬がそう口にする。だが、それ以上言葉が出てこなかった。それだけ、集中している紅は話しかけ辛かった。
一馬は、ただ黙って紅を見送った。その背中がとても孤独に見えた。きっと、戦場では常に孤独なのだと、一馬は感じ取り唇を噛み締めた。ただ、彼女を見送る事しか出来ず、何も出来ない自分に腹がたった。
そんな一馬の頭の中に妙な声が聞こえたのは、その時だった。
(我が声を聞きし者よ――)
「えっ?」
突然の声に、驚く一馬が辺りを見回す。だが、声の主はいない。その為、一馬は周囲を見回し、ゆっくりと朱雀の間へと足を踏み入れた。そして、ゆっくりと朱雀の巨像へと足を進める。何故だか、その声の主がその朱雀の巨像だと、一馬は感じたのだ。
もちろん、そんなはずは無いと、思っていた。だが、歩みは朱雀の巨像の前まで進み、静かに一馬は立ち止まる。
「ま、まさか……だよな?」
一馬が独り言の様に呟き苦笑すると、その頭にまたあの声が響く。雄々しく野太い声が――。
朱雀の間を出た紅は、鳥居へと急いでいた。
鬼の襲撃を告げる鐘が鳴り響いて、すでに十分程過ぎようとしていた。
鳥居の前には複数の守人達が到着しており、召喚士である紅の登場をまだかまだかと待ちかねていた。
この間も、鳥居の向こうに映る鬼達の影が、近付いてくるの見える。その為、守人達の苛立ちはピークに達しようとしていた。
「くっ! これ以上、待っていられるか! 俺達だけで行くぞ!」
守人のリーダー格の男がそう怒鳴ると、他の者達も「おおおっ!」と声を上げた。
総勢五十人も満たない守人達は、召喚士である紅を待たず、鳥居を潜り外へと飛び出す。
相変わらずの重苦しく濁った空気に、妙な緊張感が混ざり空気が一層悪く感じる。そして、空を覆うのは何層にも重なった不気味な暗雲だった。
紅がそこに到着したのは、それから二分後の事だった。
鳥居の前に守人の姿がない事から、紅はすぐに気付く。守人達はすでに外に出て行ったのだと。全力でここまで走ってきた紅は、息を乱し、肩を大きく上下に揺らしながら、そのまま鳥居の方へと歩みを進める。
胸騒ぎがしていた。何か、嫌な予感が脳裏を過ぎり、噛み締めた唇は僅かに切れ、血が流れ出ていた。
胸を打つ鼓動に、紅は鳥居の前で息を呑む。右手を胸の前で握り締め、静かに瞼を閉じた紅は、心を静める様にゆっくりと息を吐いた。
そして、鳥居を潜る。静かな足取りで、ゆっくりと。
重苦しい空気が踏み出した足へとまとわりつき、紅は息を止めた。右足が地面へと下りると、土埃が足元を覆う様に舞い上がる。淀んだ空気に紅は僅かに表情を歪め、眉間にシワを寄せた。
僅かに漂う血の臭いが、紅の鼻腔を刺激し、その嫌な予感が更に強まった。
息を呑み込み、紅は周囲を見回す。舞う土煙が徐々に晴れ、視界が開ける。すると、紅の目に飛び込む。無残に殺された数人の守人。そして、残りの守人は皆、青紫色の肢体をした閃鬼に囚われていた。
何故、その様な事になっているのか、紅は分からなかった。
ただ、理解できるのは、囚われた守人達を囲む様に、閃鬼が数十体。更にそれを囲む様に剛鬼が数十体その場にいた。だが、そんな剛鬼を更に凌ぐ大きさの鬼の影がその背後に浮かぶ。
一瞬、それが鬼だと紅は認識できなかった。まさか、これ程大きな鬼がいるなどと、紅も思っていなかった。
呆然とそんな巨大な鬼を見上げ、紅はただ息を呑んだ。
目を見開く紅に、明るく幼さの残る声が届く。
「あなたが、召喚士かしら?」
突然の言葉に紅は驚き、瞳孔を広げる。そして、その視線を激しく動かし、その声の主を探す。やがて、その視線が止まった。
そこに映る光景に紅は驚き、思考が止まる。閃鬼と剛鬼が囲う守人達の前に佇んでいるのは、一人の幼さの残る小柄な少女だったのだ。その手には姿形とは似つかわしくない、背丈の二倍近くある血に染まった刀。それを握る少女は、ニコッと無邪気な笑みを紅へと向けた。
少女の笑顔に、紅の背筋は凍る。その背後に妙な殺気、悪魔の様な顔が一瞬見えた。息を呑んだ紅は、半歩下がる。本能が自然とそうさせた。逃げないといけないと、直感するが足は動かない。それ程、異様な空気が漂い、周囲を包んでいた。
ニヤニヤと笑みを浮かべる青紫の鬼、閃鬼はその足で若い守人の頭を踏み締める。奥歯を噛み締め表情を歪める守人の姿に、紅は眉間へとシワを寄せ、半歩引いた足を止めた。
「や、やめてください! そ、それ以上――」
「アレ? 驚かないんだ?」
血に塗れた刀を肩へと担いだ少女は、身に纏った黒衣のフリル付きのミニスカートを揺らしピョンと跳ねた。子供っぽく愛らしいだが、紅の表情は険しいままだった。
自分と同じ肌の色に、自分と同じ言葉を話すその少女に、ただ驚き言葉を失っていた。過去にはありえない事だった。鬼が人間の言葉を話すなどと言う事、人間となんら変らない肌をした鬼が存在すると言う事。それらの事は、紅も初めて目にする。
閃鬼や剛鬼が新種の鬼として現れた時も驚いたが、それ以上の驚きを感じていた。知能型の閃鬼でさえ、人の言葉を話すなどなかった。そもそも、鬼には鬼だけの言葉が存在し、彼らにとって単なる家畜に過ぎない人間の言葉を理解し喋るなど誰が想像がつけただろう。
少女は左手で前髪を掻き揚げる。その瞬間に紅の視線に飛び込むのは、額の髪の生え際に並ぶ角の数だった。
今まで見た角の数で最高は五本。だが、彼女の持つ角の数は、それを遥かに凌駕する十三本だった。胸を打つ鼓動が強まり、膝の震えが激しくなる。
そんな紅へと、少女はニターッと笑みを浮かべると、愛らしく頭を僅かに傾け尋ねた。
「それで、あなたが召喚士で……間違いないかな?」
と。
不気味なオーラを放ちながら。