第9回 白虎の能力だった!!
一階へと降りた一馬と夕菜はその光景に絶句していた。
広間は未だに火の手が上がり、黒煙が登っていた。
壁には大きな穴が空き、捲れた床の下、地面までも大きく抉れていた。
家具もなく、部屋の原型すら留めていないその場所に、二人はただただ息を呑む。
何があったのかは分からないが、おおよその検討はついた。
険しい表情を浮かべる一馬。
その視線は自然と壁にあった大きな穴。その向こうへと向けられた。
漂う黒煙でハッキリと見えるわけではないが、明らかに外の様子がおかしいのは分かる。
異様な空気が漂い、そこには無かったはずの壁がそこには見えた。
「な、何だ……アレ……」
思わず呟く一馬に、夕菜も表情をしかめた。
だが、それは、一馬とは異なる理由からだ。
「大丈夫かな? 周鈴ちゃん……」
不安そうに呟く夕菜に、一馬は「えっ?」と思わず声を上げた。
夕菜の考えは、至極当然の事だ。それに気付く一馬は、自分の感覚が少しずつズレて来ているのだと痛感する。
周鈴の事を心配していないわけじゃない。それよりも先に、現状を把握しなければいけないと、思ってしまうのだ。
当然だが、ここでの一馬の考え方も間違いではない。状況を的確に判断しなければ、命に関わる事になると、今までの経験でわかっているのだ。
それだけ、一馬も危険な目にあっていると言う事だった。
自分がこの危険な状況に慣れていってしまっている事に、非日常な事が当たり前のようになっている事が、少なからずショックだった。
肩を落とす一馬に、不思議そうに夕菜は小首を傾げる。
「どうかした?」
「ううん……何でもないよ」
苦笑しながら返答した一馬は左手で額を抑えた。
だが、すぐに現実を見る。今は、何が起こっているのかを知らなければいけない。状況を把握しなければいけない。
夕菜の肩を借り、一馬は一歩、一歩と抉れた地面を進む。
と、その時、一馬の頭の中に白虎の声が響く。
(マスター。聞こえますか?)
白虎の声に、一馬が足を止める。それに合わせ、肩を貸していた夕菜も足を止めた。
「どうかした?」
様子のおかしい一馬に、夕菜は不安そうに尋ねる。
その言葉に一馬は少し間を空け答える。
「今、白虎の声が……」
「白虎さんの声?」
一馬の返答に、小首を傾げた夕菜は、ゆっくりと頭を右へ左へと動かし、眉を八の字に曲げる。
「私には何も聞こえなかったよ?」
「多分、直接、頭の中に――」
(マスター。現在、私達は鬼人と交戦中。私の力で何とか、周鈴に私をまとわせてはいるのですが、それも、限界に近づいています)
一馬の声を遮るように、やけに早口な白虎の声が頭に響く。
言葉を呑む一馬の顔を覗き込む夕菜だが、一馬の反応はない。ただただ真剣な表情で眉を顰めていた。
「白虎。今、どう言う状きょ――」
(まだ体調は万全ではないマスターには申し訳ないとは思いますが、ここから先はマスターの力を少々お借りします)
「ちょ、白虎?」
一馬の言葉が聞こえていないのか、白虎からの返答はない。
その代わりに急激に一馬の体を強烈な脱力感が襲う。力を吸い取られている。そんな感覚だった。
奥歯を噛み、それを夕菜に気付かれないように堪える一馬は小さく深く息を吐き出す。急激な脱力感に膝が震える。それでも、決して膝を落とす事を拒否する。
「だ、大丈夫?」
不安そうに尋ねる夕菜に、一馬は歯を見せ笑う。
「だい、じょうぶ……。うん。大丈夫!」
額に薄っすらと汗が滲む。まだ、万全じゃない為、体への負担が大きくなっているのだろう。
そう考えなければ、玄武の時との体への負荷があまりにも違いすぎた。
時間は数分程戻り――。
褐色白髪の鬼人が作り出した迷路の中に佇む周鈴は、瞼を閉じ全身に風をまとう。
足元から吹き上がる風は、白銀の憲法着の裾を揺らし、血で赤黒く染まった灰色の髪はゆるく逆立つ。
背には九本の風の剣。それが、静かに風音を鳴らす。
精神統一をし、呼吸を整える周鈴。その瞼がゆっくりと開かれ、落ち着いた面持ちで口を開く。
「見つけたぞ」
真剣な表情でそう告げる周鈴に、白虎は静かに答える。
(あとは、時間との勝負だ)
「ああ。分かってるさ!」
周鈴はそう叫ぶと、右足でスタートを切る。
初速からスピードの乗る周鈴は、正面に聳える土の壁を右足で蹴り、速度を落とさず方向転換する。
周鈴の蹴りを受け、土の壁は脆く崩れるが、すぐに再生し元の壁へと戻る。それを、周鈴はチラリと確認し、続けて道を塞ぐ壁を左足で蹴り、右へと方向を変える。
そうする事で、加速するのに必要な助走距離を確保していた。
白虎が褐色白髪の鬼人を褒めた理由がこれだった。彼は一目で白虎の能力を理解し、それをさせない為にこの迷宮を作り出した。
だが、それを周鈴は壁を蹴り方向転換すると言う方法で攻略する。言うのは簡単だが、それを実行に移すのには、並外れた身体能力と、壁にぶつかると言う恐怖に打ち勝つ勇気が必要だった。
当然、白虎を纏う周鈴には並外れた身体能力が備わっていた。そして、恐怖に打ち勝つ勇気も。
入り組んだ迷宮内を迷う事無く周鈴は進む。
当然だが、この迷宮には行き止まりが存在しているのだが、分岐点に来ても周鈴は速度を緩める事なく迷わず道を選択する。まるで、自分の選択する道が正解だと知っているかのように。
(そろそろ、五分だ)
周鈴の頭の中に白虎の声が響く。
その声に合わせ、周鈴は身を低くし、
「セカンドギア!」
と、声を上げた。
それに鼓動するように背後に浮かぶ九本の風の剣が光を放ち、その内、二本が消滅する。いや、正確には消費される。
周鈴を包む風が更に鋭くなり、速度もそれに合わせ一段階速くなった。
更に加速した事により、周鈴の耳には風の音以外聞こえない。頬を伝う風が、髪を撫でる風が、とても冷たく、痛い。
それでも、周鈴は奥歯を噛み、右へ左へと壁を蹴り方向を変え、突き進む。
土埃が舞い、壁は次々と破壊されては再生を繰り返す。
(体は大丈夫か?)
心配そうに白虎が尋ねる。
「僕の心配よりも時間を心配してろよ」
周鈴はそう答え、右足で壁を蹴り左へと曲がる。
その際、激痛が膝を襲い、周鈴の表情が歪む。当然だ。今、周鈴の膝には相当な負担がかかっている。加速すればするほど、曲がる際に壁を蹴るその足に掛かる衝撃も大きいのだ。
肉体の限界はとうに超えている。それでも、気力だけで衝撃に――強烈な痛みに耐え、周鈴はついに目視する。
「いたぞ!」
「チッ!」
周鈴の言葉に小さく舌打ちをした褐色白髪の鬼人は、片膝をつき、両手を地面へと下ろす。
「させるかよ!」
更に身を低くする周鈴が、奥歯を噛む。
(少し早いが、仕方ない――)
「サードギア!」
周鈴が叫ぶと、背後に浮かぶ七本の風の剣が光を放つ。
そして、その内三本の風の剣が消費され、周鈴を包む風は一層強く、鋭く変化し、その速度は更に加速する。
それは、一瞬の出来事。
疾風が後塵を僅かに残し、壁に挟まれた直線を一気に吹き抜ける。
周鈴の姿は一瞬で褐色白髪の鬼人の前から消え、鈍い金属音が響く。
「ッ!」
褐色白髪の鬼人は苦痛に表情を歪め、すぐに立ち上がり身を反転させた。
その首筋には真新しい僅かな切り傷が浮かび、微粒子の粉が舞う。
険しい表情を浮かべる褐色白髪の鬼人の視線の先には、低い姿勢で短刀、白蓮を構える周鈴の姿があった。
両肩を大きく上下に揺らし、開かれた口から荒い呼吸を続ける周鈴。その速度は、すでに褐色白髪の鬼人の眼でもギリギリ追う事の出来るものだった。
それほど、周鈴は加速し、その肉体にも大きな反動を与えていた。
対峙する二人。
時間にして数秒程。
その時がいやに長く感じる。
僅かな傷口にも関わらず、溢れ出す微粒子。それを抑えようと、褐色白髪の鬼人は左手を首へと充てがう。
「流石に……速いな……」
眉間にシワを寄せ、目を細め、静かに口を開く。
だが、その表情にはまだ余裕が窺えた。
故に、周鈴は唇を噛み、激痛に震える膝に力を込める。
「傷が浅かった……」
静かな口調で呟く周鈴は、自身の手に残る手応えに疑問を抱く。
確かに手応えはあった。重く硬い感触。なのに、褐色白髪の鬼人の傷は浅い。
そんな周鈴の疑念に、白虎が答える。
(どうやら、硬化して致命傷を免れたようだ)
「こう……か……。なるほど……。通りで、手応えが硬かったわけか……」
(随分と用意周到と言うか……)
白虎はそこまで口にして黙り込んだ。
褐色白髪の鬼人。白虎を纏い彼と対峙するのは初めてだが、彼は全てに対応していた。この迷路にしても、先程の致命傷を免れる為の硬化の仕方も、事前に白虎の能力を知っていなければ出来ないような対応だった。
その事に、白虎は違和感を覚える。確かに、褐色白髪の鬼人は見た目に反して知能的だ。その行動も判断力も素晴らしいと言ってもいいだろう。
しかし、不意に思い出される館内部での戦い方。その戦い方に、白虎は品性、知性を感じなかった。
粉塵爆発と言う手法を使用したが、アレも周鈴の心を折る為、自分は爆発でも傷一つつかないと言う圧倒的な力の差を誇示する為の行動だ。
とてもじゃないが、今、この戦い方を選択するような男には思えなかった。
だからこそ、白虎はこの迷宮を作り出した時、褐色白髪の鬼人を褒めたのだ。
「全く……危なかったぜ……」
不敵に笑み、額の汗を拭う褐色白髪の鬼人。二人が対峙に、すでに三十秒近くが過ぎようとしていた。
両者共に動かない。
周鈴はここまで来るのに酷使した膝が痛み。
一方、褐色白髪の鬼人は、周鈴のスピードを警戒して。
互いに間合いを詰める事が出来ず、ただただ身構えたまま向かい合う。
周鈴にとって、この状況は最悪だった。何故なら、白虎の加速には制限がある。故に、数秒と言えど、惜しい時間だった。
それでも、周鈴の足は動かない。
ここまで来て、やっと褐色白髪の鬼人を捉える事が出来る距離なのに、周鈴の体は言う事を聞かない。
「ハァ……ハァ……」
大きく開かれた口から荒い呼吸を繰り返し、両肩を大きく揺らす。
意識はしっかりしているし、戦う気持ちも折れていない。なのに、体だけが戦う事を――動く事を拒絶する。
そんな周鈴に褐色白髪の鬼人は白い歯を見せ笑む。
褐色白髪の鬼人は気付いたのだ。周鈴がこれ以上、動く事が出来ない程、深刻な状態だと言う事に。
奥歯を噛む周鈴の表情が険しく変わり、額には大粒の汗が滲み出す。
「どうやら、無理が祟ったようだな」
周鈴が動けないと分かるや否や、褐色白髪の鬼人は警戒を解き、大手を広げ小さく首を振った。
無防備に周鈴から視線を外し、隙だらけの褐色白髪の鬼人だが、そこを突く事は出来ない。だからこそ、周鈴は歯を食いしばり、自らの体へと怒りを募らせる。
(動けよ! 動け! アイツが! アイツが目の前にいるんだぞ!)
熱気を帯びた吐息が食いしばった歯の合間から抜ける。殺気を帯びた眼がまっすぐに褐色白髪の鬼人を睨む。
だが、周鈴に出来るのは、そこまでだった。
時間だけが刻々と過ぎ、リミットが近づいていた。
(周鈴! もうすぐ時間だ! 次の段階へ――)
白虎が促す。だが、周鈴は答えない。心まで折れてしまったのか、いつしか、褐色白髪の鬼人を睨んでいた眼は地面を見据え、噛み締めていた歯は緩み、熱を帯びた吐息だけを続ける。
周鈴の体を包む風は徐々に弱まっていた。白虎の能力の制限時間が迫っていた。
白虎の能力は、背後に現れた風の剣を消費し、使用者の身体能力を向上させる。向上させるのは主に俊敏性。そして、それは、四段階に分けて最高速度を上げていく。
一段階目は、風の剣を一本消費する事で、最大五分間のスピードアップ。体への負担は軽く、その動きもはっきりと目で追える。
二段階目は、風の剣を二本消費する事で、最大四分間のスピードアップ。一段階目よりも多少は体への負担が重く、並の相手であれば圧倒できるだけの速度で動く事が出来る。
三段階目は、風の剣を三本消費する事で、最大三分間のスピードアップ。当然、二段階目よりも倍の速度で動く事が出来、常人には耐えられない程の痛みが膝を襲う。
最終段階は、風の剣を四本消費し、最大一分間のスピードアップ。三段階目とは比べ物にならぬ、人智を超えた速度で動けるようになる。しかし、その人智を超えた速度に肉体がついていけず、一分間意識を保つ事すら至難の業だ。
しかも、制限時間内に段階を上げなければならず、制限時間内に段階を上げなければすべてがリセットされてしまう。当然、消費した風の剣は、効果が切れても戻らない。
故に、すでに三段階目――計六本の風の剣を消費している周鈴は、この時を逃すと一度武装を解かなければ、最終段階まで加速する事が出来ない。
白虎の体力的にももう一度、武装召喚を行う事は厳しいし、何よりも周鈴の体が耐えられない。
「クックックッ……。残念だったな。もう少しだったのに」
肩を揺らし笑う褐色白髪の鬼人は一歩、また一歩と周鈴へと歩みを進める。
ある程度の警戒心はあるものの、もう周鈴が動けないと分かっている為、その足取りは軽い。
周鈴の身長、腕の長さ、その手に持つナイフの刃渡り。それらを計算しても、届かないであろう位置で足を止める褐色白髪の鬼人は、右手を握り締める。
すると、その手の中から鋼鉄の棒が生成された。その長さは褐色白髪の鬼人の背丈ほどで、この時点でリーチは周鈴を上回る。
「俺は、思慮深いんでな。安易にテメェの間合いにゃ入んねぇよ!」
鋼鉄の棒を大きく振りかぶった褐色白髪の鬼人は、力一杯にそれを振った。風を切る鋭い音の後、鈍い音が短く響き、周鈴の小さな体が大きく宙へと舞う。
鋼鉄の棒は俯く周鈴の額を殴打したのだ。
力なく背中から地面へと落ち、二度、三度とバウンドする。額から溢れ出す鮮血が黒ずんだ灰色の髪と地面を赤く染めた。
(周鈴! しっかりしろ! 周鈴!)
白虎の呼びかけに、周鈴は体を震わせながらゆっくりと上半身を起き上がらせた。
しかし、そこまでだ。膝に力が入らない為、立ち上がる事は出来ない。投げ出したように伸びた両足はただ痛みに震えるだけ。
奥歯を噛み、深い呼吸を繰り返す周鈴。その唇が静かに言葉を紡ぐ。
「ぼく……に……かん、がえ……が、ある……」
頭を殴打され、意識は朦朧としていた。それでも、周鈴は俯きながら言葉を続ける。
「あと……なん、秒……」
(二十秒程で時間だ)
周鈴の意図を汲み、白虎は答える。
「の、こり……さん、秒……で、ハァ、ハァ……つ、ぎ……」
(分かった。残り三秒で最終段階に上げればいいんだな?)
白虎の言葉に、小さく周鈴は頷き、白蓮を握る手に力を込めた。
「まだ、起き上がる事が出来るとは、驚きだな」
血痕の付着した鋼鉄の棒を肩に担ぎながら、褐色白髪の鬼人は歩み寄る。
項垂れ、動く事の出来ない周鈴は、彼に取って格好の標的。ストレス発散の為の道具だった。
故に、褐色白髪の鬼人の口元は自然と緩み、同時に油断を生む。
時は進む。ゆっくりとだが確実に。
そして、褐色白髪の鬼人も歩みを進め、先程と同じように周鈴の間合いに入らないギリギリの位置で足を止めた。
俯く周鈴を見下ろし、褐色白髪の鬼人は白い歯を見せ笑う。
「終わりにしようか。本当は、もっとテメェを苦しめたい所だが……。まぁ、俺は暇じゃねぇんだ」
褐色白髪の鬼人はそう告げると、ゆっくりと手にした鋼鉄の棒を振り上げる。とどめを刺す為、両手でしっかりと握った鋼鉄の棒は頭上まで振り上げられ、その先か褐色白髪の鬼人の背中を二度、三度と叩く。
(周鈴! もうすぐ時間だ! 力を開放する!)
「…………」
声を発せず、周鈴は小さく頷く。
その様は、褐色白髪の鬼人には、全てを諦め、死を覚悟したように見えた。
いや、彼だけでなく、百人中百人がその光景を見たら、そう思うだろう。それほど、周鈴は絶望的な状態にあった。
「今、楽にしてやるぜ!」
不敵に笑う褐色白髪の鬼人。だが、直後にその眼は見開かれる。
風が逆巻き、周鈴の全身を突風が包む。
「コイツ!」
表情を強張らせる褐色白髪の鬼人。だが、すぐに冷静になる。動けない周鈴では、この間合いには届かないと。
(周鈴! あなたの今の体では、十秒――いや、五秒も保ちません!)
脳内に響く白虎の忠告に、奥歯を強く噛み締めた周鈴は、
「――十分!」
と、静かに言葉を発し、右手で逆手に握った白蓮を振り抜いた。