第6回 歓喜の声と零れた涙だった!!
一馬と紅は軽い談笑しながら、屋敷へと戻っていた。
数段ある石段をゆっくりと上がり、本堂である屋敷に近付くと、突然歓声が上がる。
「うおおおおっ!」
「召喚士様だ!」
「召喚士様!」
老若男女様々な声が上がり、何人もの人が紅の方へと駆け寄る。こんな大勢の人が一体何処にいたのかと思わせる程の人が、紅の周りに集まっていた。そんな人たちに一馬は押しやられ、石段から転げ落ちる。
「うげっ!」
二・三段と言う小さな段差だった為、軽く尻を打ちつけ右肘を擦り剥いた程度で済んだ。目をパチクリさせる一馬は、お尻を左手で擦り立ち上がる。
「あぁ……。この人達が、避難民って……奴かな?」
目を細める一馬は、小さく首を傾げそう呟いた。
一馬がそう思ったのには理由があった。それは、彼らの服装だった。紅や守人と言った朱雀の門に仕える人達と違い、その服装はボロボロで土汚れや血の汚れがこびり付いていた。何より、着ている着物の生地が見た目からも粗悪なモノだと一目瞭然だった。
ここまで格差があるのかと、一馬は複雑そうな表情を浮かべる。でも、紅を迎え入れる皆の笑顔に、安堵した。紅は一人じゃない。こんなにも多くの人に慕われているんだと、分かったからだ。
石段の下からそんな光景を見上げ、一馬は微笑む。あんなにも楽しげに――。
「アレ?」
奇妙な声をあげ、一馬は石段を上がり顔を激しく動かす。人の波に呑まれ、完全に紅の姿が消えていた。
一馬の視線が激しく往来し、人込みの中を探す。そして、空へと上げられた一つの白く美しい手が見えた。何故だか、一馬はそれが紅の手だとすぐに分かった。
「紅!」
一馬は人込みを掻き分け、腕を伸ばす。僅かに見えた紅のその手に向かって。だが、人の波が強く、一馬の体は跳ね返される。それでも、一馬は諦めずもう一度腕を伸ばす。今度は体を押し込み、強引に。そして、その手を握った。
「うぐっ!」
奥歯を噛み締め、腕に、足に力を込め、身を引く。足が地面を蹴り、腰がゆっくりと回る。それに連動し腕は紅の手を、体ごと引き寄せる。胸へと紅の体を抱きとめた一馬の体が後方に流れた。そして、一馬は思い出す。自分の後ろには段差がある事に。
(まずい! このままじゃ――)
紅の頭に右手を回し、左手で腰を押さえた一馬は、そのまま石段を背中から落ちる。鈍い音が響き一馬は激しく腰を殴打した。
歓喜の声を上げていた人々はそんな二人の様子に気付き、慌ててその場に駆け寄る。
「召喚士様!」
「だ、大丈夫ですか!」
人々の声に、一馬は腕に込めていた力を緩め、腕を広げホッと息を吐いた。一馬の上でゆっくりと顔を上げた紅は、不安そうな顔で一馬の顔を見据える。
空を見上げ、一馬は引きつった笑みを浮かべ僅かに胸を上下に揺らす。あの時は紅を守らないといけないと思って、あんな行動を取ったが、冷静になりそれが相当大胆な行動だったと気付いたのだ。その反動で、茫然自失状態の一馬は、暫く動けそうになかった。
幾分の時が流れたが、一馬はまだ石段の前にいた。その理由は未だ紅が避難してきた町の人達に囲まれているからだ。その大半が子供で、皆、無邪気な笑みを浮かべ紅と談笑していた。
強打した腰を擦り、石段に座る一馬は鼻から息を吐き肩の力を抜いた。すると、一馬の前に一人の少年が立ち止まる。歳は五歳位だろう。真っ赤にした鼻頭を右手で擦り、土で汚れた頬を膨らし腕を組み一馬を見下ろす。
そんな男の子の顔を見上げる一馬は、そのジトッとした眼差しに苦笑する。
「え、えっと……な、何かな?」
引きつった表情で一馬が尋ねる。すると、男の子は拳を震わせると、次の瞬間右手の人差し指を一馬へと突き出す。
「お前なんかにお姉ちゃんは渡さないからな!」
「へっ?」
男の子の宣言に、一馬が間の抜けた声を上げる。何故、そんな事を言われたのか分からず、呆然とする一馬に対し、男の子は頬を真っ赤にし、更に怒鳴る。
「お、お姉ちゃんは俺が守るんだ! お前みたいな貧弱な奴に渡さないぞ!」
「え、えぇーっと……」
戸惑う一馬は右手で頬を掻き、苦笑する。どう答えていいのか分からなかった。困っていると、ボロボロの着物を着た裸足の女の子がトコトコと男の子の隣りにやってきた。そして、その耳を摘み引く。
「困らせちゃダメだよ。くーちゃん」
「いだ、いだだだだっ!」
「ごめんなさい。くーちゃんが」
女の子は丁寧にお辞儀すると、そのままくーちゃんと呼んだ男の子の耳を引きその場を去っていった。そんな幼い二人を見送り、一馬はホッと胸を撫で下ろす。すると、そこにようやく皆から解放された紅がトボトボとやってきた。
少々疲れた様な表情で、一馬の隣りへと腰を下ろした紅は小さく吐息を漏らした。
「お疲れ様」
苦笑する一馬がそう告げると、紅は困った様に笑みを浮かべる。
「私は大丈夫です。それより、腰は大丈夫ですか?」
心配そうに尋ねる紅に、一馬は背筋を伸ばす。
「うーん……まだ、少し痛むけど……大丈夫かな」
「そうですか。じゃあ、戻りますか?」
「そうだね」
何処か嬉しそうな紅に、一馬はそう答え立ち上がる。それに遅れて紅も静かに立ち上がり、お尻を二度叩いた。
「じゃあ、行きましょうか」
紅がそう言い歩き出し、一馬はその後へと続いた。
二人は朱雀の間へ向かって廊下を進む。相変わらず、屋敷の中は重苦しい空気が漂っており、すれ違う守人達は嫌な顔をし道を開ける。その態度が一馬は許せなかった。
でも、何も言えない。紅が我慢しているのに、それを自分がとやかく言うわけにはいけない事だと、一馬は考えていた。
紅の表情からはさっきまでの笑顔が完全に消え、俯き加減だった。背中は僅かに曲がり、肩が少しだけ震えている様に一馬には見えた。
よっぽどこの屋敷に居辛いのだと一馬は感じた。それはそうだろう。あんなにもあからさまに嫌な態度なら誰だってそう思う。もし一馬がその立場なら逃げ出しているだろう。
だが、紅には召喚士としての使命がある為、逃げ出す事も出来ない。そう考えると、一馬は居た堪れなくなり、目を伏せた。
二人の足取りは重く、空気も沈んでいた。
廊下が軋む音だけが二人の間に流れ、やがて朱雀の間に辿り着く。
朱雀の間の前で足を止めた紅は、静かに一馬へと振り向くと、小さく頭を下げる。
「では、こちらでお待ちください。私は……」
「無理しなくていいよ?」
一馬がそう言うと、紅は顔を挙げ微笑した。
「私は大丈夫ですよ」
「そ、そうか?」
心配そうに一馬は紅を見据える。無理に作った笑顔が、とても辛そうに見えた。だから、一馬はそれ以上は何も聞かず、ただ笑顔を作った。これ以上、紅に無理をさせない為に。
小さく頭を下げた紅は、静かに一馬へと背を向けた。
「私は、部屋を準備してきますね」
「部屋?」
突然の紅の発言に、一馬は訝しげな表情を向ける。すると、紅は背を向けたまま答えた。
「恐らくですが、一馬さんが元の世界に戻られるにはまだ時間がかかるかと……。
ですので、今日はこの本堂の空き部屋で休んでいってください」
そう言うと紅は歩き出す。その背を見据える一馬は小さく息を吐いた。安堵から自然と出たモノだった。紅の今の言葉で、元の世界に戻れると言う事が分かったからだ。ただ、まだ戻るには時間が掛かると言う事に、落胆し肩を落とした。
それから、すぐに朱雀の間の襖を開き、部屋の奥に佇む聖霊朱雀の巨像を見据える。いつ見ても神々しく息を呑む程綺麗だった。
静まるその部屋へと一馬は一歩踏み出す。床が軋み、その音が部屋に響いた。
廊下を静かに歩む紅は、その目から涙を流していた。それは、紅の意として流したモノではなく、自然と零れ落ちたモノだった。ゆえに、紅も自分が涙を流しているのだと気付いたのは、一馬を泊める為の部屋に着いた時だった。
「アレ?」
襖を開けようとした右手の甲に涙がポトリと落ちた。その一粒の涙で、紅は自分が涙を流していると気付き、慌てて右手の甲で涙を拭った。
涙の理由など分からない。ただ、胸の奥が苦しくなり、紅はその場に座り込み肩を震わせ、声を殺して泣いた。誰も通る事の無いその部屋の前で。
心が折れそうになるのを必死に堪え、右手で胸元を握り締める。そんな紅の袖口で召喚札が赤く輝く。
『主よ……大丈夫か?』
炎帝の雄々しい声が響く。その声に、紅は両手の平で目を擦り、涙を拭った。
「だ、だい……じょうぶ……です……」
途切れ途切れの鼻声でそう返答した紅は、目を赤くし鼻を啜った。召喚札は契約した聖霊と繋がっており、その聖霊と言葉を交わしたりする事が出来る。
基本的に一枚の召喚札で、一体の聖霊と契約出来る。もちろん、聖霊の同意がなければ契約は不成立となる。紅が契約する炎帝は代々朱雀の門の召喚士に受け継がれる聖霊で、基本的に炎帝が認めれば誰でも契約出来る聖霊だった。
優秀な召喚士ならば、自分だけの聖霊を呼び出し契約するが、今の紅にそれだけの技量はなかった。
『我の前では虚勢は止めよ。我は、汝と一心同体。汝が悲しい時は、我もその悲しみを分かち合う。
それが、召喚士と聖霊のつながりと言うモノだ。それに、彼ならば汝の支えになってくれるだろう』
温かみのある炎帝の言葉に、紅はもう一度ぐすんっと鼻を啜る。
炎帝の言う彼が一馬を指している事を、紅はすぐに理解した。だが、すぐに頭を左右に振り、悲しげな目で床を見据え呟く。
「確かに、一馬さんは優しい方です。でも、これ以上、無関係な一馬さんを巻き込めません」
『無関係……か』
意味深に炎帝は呟く。その言葉に紅は首を傾げた。だが、その時、五時を知らせる鐘の音が響いた。
「もう、こんな時間……急いで、準備しないと……」
炎帝の言葉を気にしながらも、紅は空き部屋の掃除を開始した。長い間使われていなかった部屋の襖を全開にし、風通しをよくする。それから、壁の埃をはたき、床を箒で掃き、雑巾掛けまで済ませた。
その頃にはすでに炎帝の言葉は忘れていた。掃除をしたお陰か、紅の心も大分落ち着き清々しい顔で額の汗を拭う。それと同時に、屋敷内に六時を知らせる鐘の音が響く。紅は驚き、汚れた水の入った木製のバケツを手にし部屋を後にした。
バケツを片付けた紅は急ぎ足で朱雀の間へと戻った。
だが、朱雀の間へ着くと、紅は足音を潜めた。
「あっ……」
思わず声を漏らす紅は、右手で口を覆う。
開かれた襖の奥に横たわる一馬の姿があった。座布団を折り、枕にして寝息をたてる一馬の姿が。
朱雀の巨像を前に寝息をたてる一馬に、紅は思わず笑みを浮かべた。
「んんっ……むにゃむにゃ……」
寝返りをうった一馬の顔が、紅の方に向く。可愛らしく子供の様なその寝顔に、紅は穏やかに微笑んだ。