Episode Ⅰ 「正樹の嘘」
小学1年生の正樹は、落とした箱をぼんやりと見つめていた。
(…どうしよう…)
体が震えた。今日、学校で「家にある珍しい物」の発表会があった。正樹は、ずっと家に代々伝わっているという小さな「壺」を持って行った。
重いものじゃないので、親も快諾してくれたのだが…。
発表が終わった帰り道、正樹は両手で持っていた壺の入った箱を、車が傍を通り過ぎたことに驚いて落としてしまったのだ。
落とした途端、壺の割れた音が聞こえた。
…茫然と立ち尽くしていると、同級生の海斗が通りかかった。
「!?…どうしたの!?落としたの!?」
海斗が驚いて正樹に言った。正樹はうなずいた。とたんに涙が溢れ出てきた。
「…帰ったら…怒られる…。」
「!!」
海斗は落ちている箱を見つめた。
そして、黙ってその箱を持ち上げ、揺らしてみた。…がちゃがちゃという音がした。
「……」
2人はしばらく黙っていた。正樹は泣きじゃくっている。海斗はふと辺りを見渡した。
そして、正樹に箱を手渡しながら言った。
「…僕がぶつかった事にしようよ。」
「!?え!?」
正樹は驚いて海斗を見た。
「僕がぶつかって落としちゃったってことにすれば…怒られないかも。」
「でも…!」
「僕も一緒に家に行くよ。…一緒に謝ったら、ばれない。」
「…でも…海斗君…そんなことして、お母さんに怒られない?」
「…僕は怒られ慣れてるもん。」
「!!」
「さ、行こう!…ほら、泣きやんで。」
「う、うん!」
正樹は海斗と家に走った。
……
「まぁーっ!」
玄関先で頭を下げる2人に、正樹の母親は思わず声を上げた。
「…僕が急いでて…走ってたら、正樹君にぶつかって…ごめんなさいっ!」
そう言う海斗の隣で、正樹も箱を持ったまま頭を下げている。2人ともぎゅっと目を閉じていた。
「…仕方ないわねぇ…」
母親のその言葉に正樹は思わず顔を上げた。海斗も顔を上げている。
「ちゃんと謝りに来てくれたから…。でも、これからは気をつけてね。壺だったからよかったけど、ぶつかって2人とも怪我をしたら大変なことになるからね。」
「…はい!気をつけます!」
海斗はうれしそうにいい、正樹を見た。正樹もほっとした顔で海斗を見た。
……
正樹は晩御飯を前にうなだれていた。
海斗の前では母親は許してくれたが、今、怒られるかもしれない…と思ったのだった。
母親は白ご飯を口に入れながら「あら?正樹どうしたの?」と言った。
「…壺…おじいちゃんの大事な…」
「ああ、いいっていいってっ!代々伝わっているといっても、大した壺じゃないのよ!」
「!?…え?」
正樹は驚いて、顔を上げた。
「ごめんね。発表会だからって言うから、あれしか思いつかなくて…だって、他になかったのよ。正樹に恥をかかせたくなかったし。」
「…そう…そうなんだ…!」
正樹はほっとして、やっと箸を取った。母親は笑った。
……
正樹はベッドに入って、海斗の事を思っていた。
もしかすると、正樹が落としたことを正直に言っても大丈夫だったかもしれない…。明日、海斗に会ったらそう言おう。と思った。
だが、海斗がどうして自分にそこまでしてくれたのかわからなかった。
海斗はあまり学校に出てこない。今日は発表会を見たかったのか、たまたま学校に来たのだった。
発表会で、海斗は何も持ってきていなかった。だが、皆の「珍しい物」を見て、目を輝かせていた。正樹の持って行った壺も「傍で見せて」と自分から手を上げて言い、正樹が「いいよ」と言うと、嬉しそうに駆け寄ってきて、じっと壺をいろんな方向から見ていた。
先生がそんな海斗に「鑑定してるの?」と言うと、クラス中が笑った。海斗も照れくさそうに笑っていた…。
ただ正樹が不安なのは、海斗の腕や足にあざができているのを、時々見たことがあるからだった。
お父さんが厳しい人…というのも聞いた事がある。
一度、担任の先生が家に行ったということも聞いた。…だが、その後も海斗の親が警察に捕まった…というような事も聞いていないから、大丈夫だろうと思っていた。
(明日、海斗君が来てたら「ごめんなさい」って言おう。…あ「ありがとう」かな…?)
正樹はそう思いながら、いつの間にか眠りに落ちていた。
……
翌朝、学校に行くと何か教室が騒がしかった。
「どうしたの?」
正樹がランドセルを置きながら、となりの女子に聞くと「海斗君が…」と青い顔をして言った。
「!?海斗君がっ!?何!?」
「…死んだんだって…」
「…えっ!?」
「…朝のニュースで…言ってたんだって…。救急車で運ばれたけど、もう心臓止まってたって…」
「どうして!?どうして…」
「…ぎゃくたい…って、テレビでは言ってたけど…。お父さんが捕まったって…。」
「!?」
正樹は血の気が引くのを感じた。
もしかすると、昨日の壺の事で怒られたのではと思ったのだ。
正樹は、教室を飛び出した。
……
職員室では、校長始め、教頭、教師たちが、次から次へと鳴る電話の対応に追われていた。
担任の教師が1人、机の前に座りぼんやりとしているのを見た正樹は、担任の教師に駆け寄った。
「…先生!」
「!正樹君…!」
担任の教師は立ち上がり、正樹の両肩を掴んで言った。
「…壺を海斗君が割ったって本当!?」
「!?」
正樹は体を強張らせた。
「昨日…正樹君にぶつかって大事な壺を割っちゃったから…海斗君のお父さんが怒って…何度も殴ったって…」
「!?」
「どうして、先生のところ来てくれなかったのっ!?…来てくれたら…先生…海斗君の家に行ったのに…」
担任の教師はそう言い、再び椅子に座りこむと、顔を伏せて泣き出した。
自分のせいで、海斗が死んでしまった。
正樹は体が震えるのを感じた。同時に目の前が真っ暗になった。
……
目が覚めると、保健室のベッドに寝ていた。
母親が目を真っ赤に腫らして、傍の椅子に座っていた。
「お母さん…」
「…海斗君…黙ってたら良かったのに…自分から親に言ったのね…」
母親はいきなりそう正樹に言った。
そして、涙をぼろぼろとこぼした。
「…黙ってたら…良かったのに…!」
母親はそう同じことを言うと、肩を震わせて嗚咽を漏らした。
正樹の目にも涙が溢れ出てきた。
(…本当だ。)
正樹はそう思った。黙っていたら良かったのに、どうしてお父さんにわざわざ言ったんだろう?…それに…あれは嘘だったのに…。
(僕のせいだ…あの時…正直に言っていたら…)
正樹は声を上げて泣いた。
母親が正樹の頭を抱きしめた。
……
(海斗君…僕も行くよ。そっちに…)
正樹はふらふらと外を歩いていた。もう夜中だ。
ベッドで寝ている振りをして部屋の鍵を閉め、窓からこっそり家を出たのだった。
どれくらい歩いただろう。
正樹は埠頭にたどりついた。
潮の香りが心地よかった。海に飛び込めば、死ねるだろうと正樹は思った。
(海斗君は苦しんで死んだから…僕も苦しんで…死のう…。)
海に飛び込んだことを想像した。水が口の中に入ってきて息ができなくて、きっと苦しいだろう。
海斗は父親に何度も殴られて、どんなに痛かっただろう。どんなに苦しかっただろう…。
(…ごめんね…ごめんね…)
正樹はそう心の中で謝りながら、テトラポットに降りた。
(僕もいっぱい苦しんで死ぬからね。…でも…僕は地獄に行くから、海斗君には会えないけど…。)
正樹はテトラポットを渡り歩きながら、そう海斗に語りかけた。
…そして、テトラポットの端までたどり着くと、目を閉じ、そのまま足から落ちた。
……
苦しい。…正樹が思っていた通りだった。
水が口の中へ次から次へと入ってくる。息をしようとしてもできなかった。
両手両足を必死に動かそうとした。だが動かなかった。月明かりに光る水面を下から見上げながら、正樹は海の底へと沈んでいくのを感じた。
(あれ?…苦しくない…)
正樹は急に思った。今までのことが走馬灯のように頭の中を駆け巡った。
(だめだ…苦しまなくちゃ…地獄へ…行かなきゃ…)
正樹がそう思ったとたん、紅い目をした男の顔が突然正樹の前に現れた。両頬に傷が2本ずつある。
「!!」
正樹は驚いて声を上げようとした。だがもちろん声は出なかった。
(悪魔!?…それとも死神…!)
正樹はその男に体を抱かれ、水面に向かって勢いよく引き上げられるのを感じた。
(!?地獄ってそっちっ!?)
正樹がそう思ったとたん、宙に飛びあがったのを感じた。
正樹はとたんにむせた。そして水を吐いた。吐いても吐いても止まらなかった。
男はまだ正樹を抱きしめていた。そして正樹の背中を叩いている。
「ザリアベルっ!!間に合ったか!」
その声に、やっと落ち着いた正樹は顔を上げてみた。
目の前に白い羽を持った銀髪の男が浮いていた。
「…天使…?」
「そうだ。…俺は悪魔だがな。」
正樹の呟きに、抱きしめている男が言った。
「いきなり海に落ちたから…とりあえず助けてみた。」
正樹は目を見開いて言った。
「!!…駄目だよっ!僕は死ななきゃならないんだっ!」
「わかってる。」
男は正樹の体を少し離して、正樹の顔を見た。
「…海斗って子の為に死のうとしたんだろう?」
「!!」
「悪魔は心の中を読めるんだ。…それは、あの天使も同じだ。」
男の言葉に、正樹は男の後ろに飛んでいる銀髪の天使を見た。
銀髪の天使は、正樹に向かって手を振っている。
「アルシェだ。よろしくー。」
その呑気な声に、悪魔が横眼で天使を見て苦笑した。
そして、その天使に振り返って言った。
「これからは、お前の仕事だ。アルシェ。」
「りょーかいっ!」
天使は敬礼してそう言うと、悪魔から正樹の体を受け取った。
正樹は目を見張ったまま、されるがままになっている。
「ザリアベル!」
天使が、埠頭に降り立った悪魔に言った。
「手加減して下さいよ!」
天使の言葉に、悪魔はにやりと笑った。
「…わかってるさ。」
そう言うと、天使と正樹に背を向けて歩き出した。
カツーンカツーンという足音が響いている。正樹はその音に何かぞっとした。
「さて、君はこっちね。」
天使がそう言うと、ぱちっと指を鳴らした。
……
正樹はゆっくりと目を開いた。
「!!」
花畑の中にいる。見渡す限り、色とりどりの花が咲いていた。
「正樹君!」
その声に振り返ると、海斗がにこにことして立っていた。
「海斗君っ!!」
正樹は思わず海斗に抱きついていた。
「ごめんなさいっ!…僕のせいで…海斗君…死んじゃ…」
「違うんだよ。正樹君。」
海斗が正樹の体をゆっくりと離しながら言った。
「…死にたかったんだ…僕…」
「!?…えっ!?」
「…お父さんから…離れたかった…。」
「!?」
正樹が目を見張っていると、海斗は寂しそうに笑った。
「僕ね…毎晩毎晩、お父さんに殴られてたんだ。…外で気に入らない事があると、僕を殴るんだ。」
「!!」
「壺を割ったことも、殴られるために、わざとお父さんに言ったんだ。」
「えっ!?」
「…そのせいで…正樹君がこんなに悲しんでくれるなんて思ってなくて…。僕、早く死ねると思って…お父さんに言ったんだ。」
「!!」
「…だから…正樹君は苦しまなくていいんだよ。僕は死んだ今の方が幸せだから。」
正樹の目から涙が溢れ出た。
「うそだっ!」
正樹の声に海斗は目を見開いた。正樹は泣きながら言った。
「もうみんなと会えないんだよっ!遊べないんだよっ!それでも幸せ!?」
海斗の目に涙が溢れた。そして首を振った。
「…皆と遊びたい…もっと…学校に行けばよかった…」
海斗が声を出して泣いた。正樹も一緒に泣きながら、海斗の頭を抱いた。
……
拘置所の一室で寝ていた海斗の父親は、急にぞくりとする恐怖を感じ飛び起きた。
見ると2本の足が見えた。
ゆっくり見上げると、燃えるような紅い目をし、両頬に長短2本の傷がある男が自分を見下ろしていた。
「!!悪魔!?」
父親が思わずそう言った。
紅い目の男は、片膝をついたと同時に片手で父親の首を掴んだ。
「!!」
父親は恐怖で声が出ない。
「海斗からだ。」
首を掴んだまま、男が言った。
「…死んでもお前を赦さない…」
男が首を掴んだ手に力を入れた。
父親は悲鳴を上げた。
……
「…手加減するって、言ったじゃないですか…」
アルシェの人間形「浅野俊介」が、「バケット」というフランスパンにかじりつきながら言った。
「…ちゃんとしたさ。」
ザリアベルも浅野と同じように「バケット」をかじりながら言った。「バケット」がザリアベルの好物だと聞いて、浅野が買ってきたのである。
「…にしては、あの海斗君の父親…かなり気が狂ってましたよ…。どうやったら、あんなに気が狂うんです?」
「それは魂を(ピーッ)のように、(ピッ)にしてから、(ピーッピッピッ)すると、(ピッピーッ)になるから、(ピッピッ)したらいい。」
「あー…放送できない…」
浅野がうつむきながら、耳を押さえて言った。
ザリアベルはにやりとした。
「海斗は満足してたろう。」
「してましたけど…」
「ならいいだろう。…正樹って子は立ち直ったか?」
「ええ。海斗君が時々下界して、正樹君に会いに行くと約束したそうですよ。」
「そうか…」
ザリアベルは、ニコッと笑った。
「今の顔っ!」
浅野が思わず言った。
ザリアベルは無表情に戻った。
「もいっかい!もいっかい見せて!」
「無理だ。」
「えー!お願い!もう一回だけっ!」
「無理だと言ってる。」
浅野は何度も手を合わせて頼んだが、ザリアベルの表情は、もう変わらなかった。
(終)
『「児童虐待」の定義』
保護者(親権を行う者、未成年後見人その他の者で、児童を現に監護する者)がその監護する児童(18歳に満たない者)について行う次に掲げる行為をいう。(2条)
1 児童の身体に外傷が生じ、又は生じるおそれのある暴行を加えること。
2 児童にわいせつな行為をすること又は児童をしてわいせつな行為をさせること。
3 児童の心身の正常な発達を妨げるような著しい減食又は長時間の放置、保護者以外の同居人による前2号又は次号に掲げる行為と同様の行為の放置その他の保護者としての監護を著しく怠ること。
4 児童に対する著しい暴言又は著しく拒絶的な対応、児童が同居する家庭における配偶者に対する暴力(配偶者(婚姻の届出をしていないが、事実上婚姻関係と同様の事情にある者を含む。)の身体に対する不法な攻撃であって生命又は身体に危害を及ぼすもの及びこれに準ずる心身に有害な影響を及ぼす言動をいう。)その他の児童に著しい心理的外傷を与える言動を行うこと。
『殺人罪』
人を殺した者は、死刑又は無期若しくは5年以上の懲役に処する。
『傷害致死罪』
身体を傷害し、よって人を死亡させた者は、3年以上の有期懲役に処する。