第二章:天帝エンキの憂慮と下された密命
天界の宮殿の最深部、エンキの居室は、水が壁を静かに伝い、床には薄く張られた水が鏡のように天井を映し出す、神秘的な空間であった。水龍天帝エンキは、龍の意匠が施された、氷のように冷たく輝く水晶の玉座に座り、その顔にはいつになく濃い影が落ちていた。室内に漂う香の煙が、まるで龍の姿をとって意志を持って蠢いている。窓の外には、高天原の広大な景色が広がっているはずだが、そこから差し込む光はどこか弱々しく、灰色を帯びていた。
「集まってくれたか、アダパー、ミカエル。事態は、我々が悠長に議論を交わしている時間を、疾うに越えてしまった」
エンキの声は、深い海の底から響いてくるような、重厚で哀しみを帯びた響きを持っていた。「報告にあった通り、ユグドラシルの根源に、正体不明の『闇』が侵食し始めた。これは単なる枯死や物理的な破壊ではない。情報の欠損――すなわち、世界の『定義』そのものが消滅しようとしているのだ。ある領域では物体の重さが消失し、別の領域では言葉が意味をなさなくなっている。根から吸い上げられるべき生命の純粋なエネルギーが、虚無という名のウイルスに書き換えられつつあるのだよ」
アダパーは、天帝の言葉の裏にある「宇宙規模の恐怖」を肌で感じ取り、息を呑んだ。先ほど小川で見かけた波紋の逆流は、この巨大な情報崩壊の、ほんの些細なエラーメッセージに過ぎなかったのだ。
「アダパー、お前の緻密な計算能力と、綻びを見抜く洞察力が必要だ。そしてミカエル、お前の不屈の光の力が必要だ。二人でユグドラシルの深部――理の核へと向かい、侵食の正体を突き止めてほしい。世界の解像度が完全に失われ、すべてがただのノイズに塗りつぶされる前に。これは調査ではない、生存を賭けた絶望的な遠征なのだ」
「仰せのままに、天帝様。この命、世界の存続のために、あるいはこの夢の守り手として捧げます」二人は深々と跪いた。
部屋を去る際、ミカエルはアダパーの強張った肩に優しく手を置いた。「不安か、アダパー。君の鼓動が、静寂を乱すほどに速くなっている」
「……正直に申し上げれば、今すぐにでも逃げ出したいほどです。私はただの事務方、天界の記録を整理し、平穏な秩序を保るだけの侍従に過ぎません。このような世界を左右する大役に、自分のちっぽけな器が耐えられるとは思えないのです。もし、私が計算を誤れば、世界は……」
「君に必要なのは、山を砕く怪力でも、天を割る魔力でもない」ミカエルは、アダパーの瞳を真っ直ぐに見据えて、その奥にある魂を励ました。「天界の完璧さを、安住の地として享受するのではなく、そこに潜む不気味な欠陥を鋭く指摘できた君の『特異な視点』だ。予定調和に安住しない者の魂こそが、閉じた回路を突破し、新しい現実を呼び込むための唯一の鍵となる。自分を信じる必要はない。君の『疑う力』を信じるんだ」
そこへ、軽やかな、しかし場違いなほど奔放な足音と共に、女神イナンナが乱入してきた。彼女は虹色の絹を幾重にも纏い、挑発的な笑みを浮かべていた。彼女の背後には、地上の物語である「かぐや姫」の修練で得た、どこか浮世離れした、しかし凛としたオーラが漂っている。彼女が動くたび、空間には月の光のような微細な輝きが散った。
「ちょっと! 私を置いていくなんて、水臭いじゃない! 天帝様も、私のような自由な魂が必要だって分かっているはずよ。かぐや姫として地上で散々面白おかしく遊んできた私からすれば、この世界が消えるなんて退屈なエンドロール、絶対に許さないんだから! この物語の結末は、私が書き換えてあげるわ!」
彼女の放つ、生命力に満ちた、しかしどこか人間臭い強烈なエネルギーが、居室を支配していた沈痛な空気を一瞬で塗り替えた。アダパーは、この極端に個性の異なる仲間たちの存在に、恐怖を凌駕する一筋の希望を感じた。




