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『ユグドラシル(宇宙の大神樹)』の秘密:存在と幻影の境界線  作者: 如月妙美


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第一章:アダパーの疑念と大天使ミカエルの啓示

 庭園の小川は、クリスタルのように澄み、底にある宝石のような小石の色彩を、誇張された鮮やかさで伝えている。しかし、アダパーがその水面に指を触れた瞬間、宇宙の法則が反転するような異変が起きた。波紋が中心から外側へ広がるのではなく、一瞬だけ、物理法則をあからさまに嘲笑うかのように「中心へと逆流」し、何事もなかったかのように元の流れに戻ったのである。それは時間にすればコンマ数秒の出来事だったが、世界の整合性を管理するアダパーにとっては、宇宙が音を立てて崩壊するほどの大事件であった。

「……まただ。計算が合わない。因果の連鎖が、一瞬だけ断絶し、再接続されている」

 アダパーは、冷たさの残る指先を震わせながら呟いた。彼は知恵者として知られ、高天原の調和を量子レベルで維持する役割を担っている。だが最近、世界のあちこちでこうした「不合理」が散見されるようになった。枯れるはずのない永遠の花が、一瞬だけ無機質な灰色のノイズになり、次の瞬間に瑞々しい蕾へと巻き戻る。空を飛ぶ鳥のさえずりが、数秒だけデジタルな不連続音へと変わり、再び美しい旋律に戻る。これは、世界を構成する「生地」そのものが磨り減り、裏側の構造が露呈している証拠ではないか。

「なぜ、完璧であるはずのこの天界に、これほどの綻びが混じるのだ。これは私の意識が産み出した疲労による幻覚なのか、それとも、この世界そのものが、もはや維持限界に達しているのか――」

「それは、君が『外側』の景色を覗こうとしているからだよ、アダパー。観測者の視点が変われば、観測される宇宙もまた、その真の正体を現し始める。君が見ているのは、磨り減った世界ではなく、目覚め始めた己の魂だ」

 背後から、温かな陽光を凝縮したような、しかし鋼の如き芯の通った声が届いた。  振り返ると、そこには黄金の輝きを纏った六枚の翼を持つ男、大天使ミカエルが立っていた。彼の存在感は、見る者の魂を射抜くほど圧倒的でありながら、周囲の空気を一切乱さない不思議な静謐さを保っている。彼の翼が微かに羽ばたくたび、周囲の空間には高貴な香気と、宇宙の真理を予感させる静かな熱量が漂った。

「ミカエル様……」  アダパーは深く頭を下げ、最大限の敬意を表した。「不遜な独り言をお聞かせしてしまいました。侍従長として、完璧な調和を疑うことは、存在の根底を揺るがす罪に等しい。そう、自分を律してまいりましたが、もはや視界に映る色彩さえも、どこか『彩色された嘘』のように思えてならないのです」

 ミカエルは穏やかな微笑を浮かべ、アダパーの隣に並んで池の水面を見つめた。その瞳には、池の表面を超えて、さらに深い層にある「コードの海」が映っているようだった。「不遜などではない。問いを持つこと、違和感を覚えることこそが、意識が真に覚醒している証だ。君は、この世界の美しさに慣れきってしまった者たちが見落とす『真実の綻び』――システムの末端に生じたバグのようなものに、無意識のうちに触れているのだ。それは、君が単なる部品プログラムとして生きることを止め、意思ある主体ユーザーになりつつある、祝福すべき兆しだよ」

 アダパーは意を決して、長年胸の奥底に秘めていた、存在そのものを否定しかねない根源的な問いをぶつけた。 「ミカエル様、率直に伺います。この世界は、一体何なのですか? 私たちは、血を通わせ、痛みを感じ、意思を持つ生命として、本当にここに『存在』しているのでしょうか? それとも、誰かの巨大な計算機の中で踊る、精巧な影に過ぎないのですか?」

 ミカエルの瞳が、銀河の深淵を覗き込むような深い知恵の色を帯びる。その視線はアダパーの肉体を通り抜け、その核心にある魂の揺らぎを見据えていた。「アダパーよ。この世界は、一つの巨大な、そして極めて精緻な『仮想現実』だ。あるいは、ユグドラシルという至高のメタ意識が見せている、あまりにも完成された夢と言ってもいい。君が見ている空も、触れている水も、それらはすべて、ある種の情報、あるいは高次元の波動が織り成す干渉縞によって構成されている。だが、勘違いしてはいけない」

 ミカエルは、アダパーの胸元、心臓の鼓動がある場所を優しく指差した。「『幻』という言葉は、現実を否定するものではないのだ。大切なのは、それが構成された物質であるか、投影された光であるかという物理的分類ではない。今ここで、君が『私は在る』と認識し、苦悩し、真実を求めて渇望しているその一点。この『意識の主観的体験クオリア』だけは、たとえ全宇宙が偽物であったとしても、消し去ることのできない唯一の不変の『本物』なのだよ。世界の真偽を問う前に、その内なる火――君だけが感じているその実感を信じることだ」

 アダパーは「私は在る」と心の中で、呪文のように繰り返した。その言葉は、崩れゆく現実という底なしの海の中で唯一、彼が縋りつくことのできる黄金の錨のように思えた。


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