序章:高天原の静寂と大神樹の息吹
そこは、時間という概念が黄金の砂のようにゆっくりと、かつ重厚に流れる場所であった。 天界の至高の領域、高天原。その空は地上のそれとは異なり、深い瑠璃色から透き通るような白銀、さらには真珠母色の輝きへと、一刻一刻、意思を持つかのように移ろい続けていた。雲は千切れた絹のようにたなびき、太陽の光をプリズムのように分散させては、庭園に虹の粒子を降らせている。この光は単なる物理現象ではなく、高次元の意識が物質化した「情報の雨」であり、肌に触れれば温かな知恵と安らぎが細胞の隅々まで染み込んでくるような、甘美な錯覚を伴っていた。
中心にそびえ立つのは、生命の大神樹ユグドラシル。その幹は宇宙の柱そのものであり、樹皮の一筋一筋には、失われた古代文明の叙事詩や、未だ来ぬ未来の設計図がルーン文字のような青白い光の筋として絶え間なく明滅している。無数に広がる枝葉の一枚一枚は、単なる植物の部位ではない。それは、どこか遠い次元の銀河、名もなき誰かの平穏な午後、あるいは高度な論理演算の集合体を内包した「観測の窓」である。風が吹くたびに葉が触れ合う音は、何千もの魂が互いの存在を確かめ合い、祝福し合う聖歌のように響き、空間の密度を心地よく震わせていた。
この完璧な静寂に包まれた楽園で、一人の男が歩を止めた。水龍天帝エンキの侍従長、アダパーである。彼は、この世界の理を誰よりも深く理解し、秩序の微細な揺らぎさえも逃さない「世界の管理者」であった。しかし、彼の研ぎ澄まされた知性という名の鏡には、最近、拭い去ることのできない「不気味な歪み」が、深海の濁りのように映り込み始めていた。




