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第9話 鏡のパラドックス②

 ミウの自宅は、閑静な住宅街にある立派な一軒家だった。

 だが、その門を潜った瞬間、累は鼻を強く押さえて顔を顰めた。

「……おい、律。なんだこの匂い。花の香水の裏側で、何かが凍りついたまま腐ってるみたいな匂いがしやがるぜい」

「鼻がいいのも考えものだな、累。静かに。……お邪魔するよ」


 出迎えたのは、上品だが血色の悪い、ミウの母親だった。彼女は律と累を「ミウのピアノの家庭教師候補」として招き入れた。彼女の視線は常にミウに向けられているが、そこにあるのは慈しみではなく、完成度をチェックする職人のような、冷ややかな観察眼だった。


「先生。この子は少し、集中力が足りないのです。鏡を見て、自分の指の動きを完璧にトレースするように言い聞かせているのですが……時折、妹・サナの邪魔が入ると言って、手を止めてしまう。困った子でしょう?」


 母親の言葉に、ミウは肩を震わせ、黙ってうつむいた。

 家の中は、どこを見ても鏡だらけだった。廊下、リビング、ピアノの部屋。すべての鏡が、ミウを四方八方から監視するように配置されている。


「……奥様。一つ、お伺いしても?」

 律はピアノ室に置かれた大きなグランドピアノを眺めながら、独り言のように呟いた。

「このピアノ、随分と長い間、調律がなされていないようですが。ミウちゃんが弾くには、少々重すぎるのではないですか?」


「何を仰るんですか。毎日、あの子が……サナが弾いているのですよ。サナの音は完璧です。ミウには、その残響をなぞらせているだけですから」


 母親は虚空を見つめ、うっとりと微笑んだ。累はその様子を見て、ゾッと背筋を凍らせる。累の目には、ピアノの椅子にはミウしか座っていないように見える。だが、母親とミウの間には、決定的な認識のズレがあった。


「累。……お前はあっちの部屋の鏡を見てこい」

 律に促され、累はリビングにある大きな姿見を覗き込んだ。


「……っ、なんだこれ!」

 累は思わず後ずさった。

 鏡の中に、ミウが二人映っていた。一人は現実のミウと同じように怯えている。だが、もう一人の少女――ミウにそっくりなサナは、鏡の中でピアノを弾く仕草をしながら、「完全に後ろを向いて」いたのだ。 


「鏡の中のガキ、後ろを向いてやがる! つまり鏡の世界じゃ、あいつは『こっち(鏡の表面)』へ背を向けて、部屋の奥へ歩いていこうとしてるってことか!? なのに、こっちの世界には誰もいねえ!」


「……そうか。ようやく座標が繋がったな」

 律は眼鏡を指先で叩き、冷徹なの声を響かせた。


「ミウちゃん。お母さんの言う『サナちゃん』は、今どこでピアノを弾いているんだい?」

「あそこに……ピアノの椅子に座ってるよ。私、サナちゃんをどかしちゃいけないから、いつも端っこに座るの」


 ミウは、誰もいないはずのピアノの椅子の、半分だけ空いたスペースを指差した。律はその光景を見つめ、ゆっくりと母親の前へ歩み寄る。


「奥様。あんたが鏡の中に作り上げた『完璧な娘』の定義は、既に物理法則を逸脱している。……ミウちゃん、残酷だが、私が鏡の裏側の真実を見せてあげよう」


 律は一歩踏み出し、ミウの手鏡を姿見に叩きつけるようにかざした。

「鏡が『前後』を入れ替えるというなら、鏡の中でサナが後ろを向いている理由は一つしかない。サナは、君の背後から現れたんじゃない。……あの子は、君の影に飲み込まれて、もうずっと前から『向こう側』へ逝ってしまったんだ」


「え……?」

 ミウの時間が止まった。母親の顔から、生きた人間としての表情が消え、能面のような怒りが湧き上がる。


「先生、何を言っているんですか……! サナはそこにいますよ! 私の目の前でほら、こんなに綺麗に笑っていますし!」


「いいえ。あんたが見ているのは、鏡が反転させた『過去』の残像だ。……ミウちゃん、よく聞くんだ。サナちゃんが死んだ日から、君の脳は、その『欠落』を認められなかった。いや、認めさせてもらえなかったんだ」


 律の言葉が、部屋の空気を切り裂く。


「サナちゃんは、もういないんだよ、ミウちゃん。彼女は亡くなっているんだ」


 その瞬間、家中の鏡が一斉にヒビを立てて鳴り響いた。ミウは頭を抱え、獣のような悲鳴を上げた。

「うそだ……うそだよ! サナちゃんは、お部屋にいるって、お母さんが……!」


「いいえ、ミウちゃん。君のお母さんが毎日ピアノを弾かせ、綺麗に着飾らせているのは、君の記憶を継ぎ接ぎして作った『人形』に過ぎない。君が鏡に見ているのは妹じゃない。君のお母さんが妹を死なせてしまったという絶望から逃げるために、君を使って作り出した、左右も前後も逆転した『偽物の真実』だ」


 鏡の中から、後ろを向いていたはずの「サナ」が、ゆっくりとこちらを振り向こうとしていた。その顔には、目も鼻も口もない。ただ、ミウと同じピアノの痣だけが赤黒く浮かび上がっていた。


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