第8話 鏡のパラドックス①
「……鏡の中にね、私の妹・サナがいるの。あの子、私よりもずっと上手にピアノが弾けるんだよ」
昼下がりの解呪屋『二律背反』。
西日が埃を金色の粒に変えて躍らせる応接室で、ポツリと漏らされたその言葉は、あまりに場にそぐわない冷たさを孕んでいた。
そこに座っていたのは、小学校に上がったばかりの幼い少女、ミウだった。
膝の上で握りしめられた小さな手には、あちこちに絆創膏が貼られている。ピアノの練習で無理に指を広げ、鍵盤に叩きつけすぎたのだろうか。彼女の瞳は、過酷な期待に晒され続けた子供特有の、深く沈んだ濁った光を湛えていた。
「ピアノ、ですか。それは素晴らしい。私もバッハは嫌いじゃないですよ」
律は膝をつき、ミウの目線に合わせて腰を落とした。その手には、湯気の立つミルクが握られている。愛用の眼鏡をかけ、完璧なビジネスモードを纏った彼は、これまで見せたことのないような、柔らかな兄のような顔で微笑んでいた。
「でも、お母さんはサナの方が好きなの。サナが弾くと、お母さんはニコニコするの。でも、私が弾くと……お母さん、悲しい顔をするの。……なんで私じゃ、ダメなのかな」
律はミルクを差し出しながら、ふと動きを止めた。その視線が、ミウの背後に漂う「何か」を一瞬だけ捉える。だが、彼は表情を崩さず、静かに問いかけた。
「サナちゃん……妹さんは、今日は一緒じゃないのかい?」
「いまはお家。ピアノを練習してるよ。サナちゃんは頑張り屋さんだし」
ミウの無邪気な言葉を聞いた瞬間、律の瞳の奥で、鋭い理性の光が火花を散らすように明滅した。彼はミウの背後の、誰もいない空間を数秒間凝視し、それから彼女が持ってきた古めかしい手鏡を、手袋をはめた指で慎重に受け取った。
「……律、どうしたんだぜい? 妙に慎重じゃねえか」
ソファで欠伸をしていた累が、怪訝そうに首を傾げた。累は鼻をひくつかせるが、不思議そうな顔をする。
「おかしいな。ヘドロの匂いも呪いの気配もしねえ。その手鏡、オレにはただの古いゴミにしか見えねえぜい」
だが律は、鏡の表面に映るミウの像を、まるで精密機械を検分するような冷徹な目で見つめていた。その像は、一見すると何の変哲もない。しかし、律の知性は、そこに潜む「致命的な矛盾」を既に計算し尽くしていた。
「累。お前には、この鏡の中の彼女が『右左』違っているように見えるか?」
「はぁ? 何言ってんだよ。鏡なんだから左右が逆なのは当たり前だろ。ガキの右手が、鏡の中じゃ左手になって映る。それが鏡ってもんだぜい」
「……そうだ。当たり前だ。だが、その『当たり前』こそが、最大の錯覚なんだよ」
律はそれ以上語らず、椅子を引いて立ち上がった。彼は事務所の壁に備え付けられた巨大な姿見の前にミウを立たせ、彼女の手鏡をその横に並べた。
「ミウちゃん。君が鏡の中にサナちゃんを見てしまうのは、魔法のせいじゃない。鏡像のパラドックスという、脳の『錯覚』が原因だ」
律は長い指先で、鏡の表面を冷たく叩いた。
「いいかい。世の中の多くの人間は、鏡は右と左を入れ替えるものだと思い込んでいる。だが、物理的に言えばそれは間違いだ。鏡は右左なんて変えていない。実は『前後』を反転させているだけなんだ。私が鏡に向かって北を指せば、鏡の中の私は南を指す。ただの直進と反射の繰り返しに過ぎない。……それなのに、なぜ人間は、自分たちが左右逆になったと思い込むのか。それはね、私たちが無意識に、鏡の中の自分は『回れ右をして、こちらを向いている』と勝手に定義して、左右の座標軸を脳内で入れ替えてしまうからだ。事実(前後反転)を、脳が都合のいい物語(左右反転)へ書き換えてしまう」
「え、どういうこと?」
小学一年生の女の子には理解が難しかったからだろう。律は鏡の向こう側の、誰もいない空間を指差した。
「結論だけ言う。ミウちゃん、今の君は鏡を見たとき、なんとなく『回れ右』をして、君が背中に感じている他人のイメージを、君自身の姿に上書きしてしまっている。
鏡は『前と後』を逆にする。だから普通は鏡の中で君の『真後ろ』になるはずの君の姿が、鏡の中の君の『真正面』に現れてしまう。
だけど、今の君の場合は、君が背中に感じている他人・妹さんのイメージが……見えてしまっているんだ」
「嘘! サナちゃんが……私の、前にいるの?」
「……今は、そう見えるんだろう。君の脳が、そして誰かの強い意志が、そう望んでいるからだ」
律の声は、どこか悼むような響きを含んでいた。彼は累の方を向き、短く、しかし拒絶を許さないトーンで命じた。
「累。今回の相手は、鏡そのものじゃない。彼女が必死に守り、そして鏡が映し出してしまった『致命的な欠落』だ。……報酬については、今回は後回しにする。俺が定義を終えるまで、お前はこの子の『背後』を一分一秒たりとも離さず監視していろ。いいな」
「ケッ、よくわかんねえけど、じいさんの時より不気味な空気なのはわかるぜい。……おい、ミウ。サナってのは、いま本当に家にいるんだな?」
累の問いに、ミウはこっくりと深く頷いた。
「うん……」
律の眼鏡が、西日を反射して、冷たく、そして鋭く光った。
鏡の表と裏。
ミウの言う「妹の存在」と、律が確信した「鏡の向こう側の真実」。
歪んだ家族の輪郭が、少しずつ、しかし逃れようのない確かさで剥き出しになろうとしていた。




