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第7話 虚飾の記憶③

 事務所を支配していた重苦しい闇が、潮が引くように霧散していく。

 歪んでいた壁の絵画も、波打っていた床も、冷厳な物理法則の檻の中へと引き戻された。そこにあるのは、西日に照らされた静かな応接室と、使い古された安楽椅子に深く沈み込んだ一人の老人だけだった。


「……ぁ……あ、ぁあ……」

 老人が、ゆっくりと目を開けた。

 先ほどまでの「大学教授」としての傲慢なまでの威厳は、もうどこにもない。そこにあるのは、ただの老いさらばけた肉体の塊だ。レンズ越しに自分を見下ろす律の、一切の温度を排除した視線を受け、老人は震える手で自分の顔を覆った。


「タカシは……私の、愛しい孫は、どこへ行った……。あの子がいなければ、私は……」

「消えたよ。あんたが『私は正しい』と信じ込み、脳のバグで無理やりこの世界に繋ぎ止めていた虚像は、もうどこにも存在しない」


「そんな……馬鹿なことがあるものか。私は、あの子と確かにあそこで遊んだんだ。ケチャップの匂いも、無邪気な笑い声も、あの子が握った手の温もりも、あんなに鮮明だったのに! これが偽物だと言うのか!」

「そうだ。それこそが記憶の、そして言葉の恐ろしいところだ」

 律は椅子に座り直し、組んだ足の先を見つめた。

「人間の脳は、整合性の取れない現実に直面したとき、現実を捻じ曲げてでも自分を守ろうとする。あんたにとっての『孫』は、孤独という猛毒から自分を救うために処方した、自家製の麻薬だったんだよ」


「ケッ、その麻薬は、オレ様の胃袋が綺麗に片付けてやったぜい」

 累がソファにドサリと座り込み、不機嫌そうに口を開いた。怪異を喰らった直後特有の、喉の奥から立ち上がる泥のような不快な味を誤魔化すように、彼はテーブルにあったクッキーを乱暴に口に放り込む。

「……なぁ律、このじいさんの『嘘』、今までで一番不味かったぜい。寂しさと見栄が混ざり合って、吐き気がしやがる」


 老人は机に突っ伏し、獣のような声を上げて慟哭した。

 実は、彼には孫など最初からいなかった。息子夫婦とは数十年前に絶縁し、誰からも看取られずに死ぬのを待つだけの、空っぽな引退生活。その耐え難い現実を拒絶するために、彼の脳は「エピメニデスのパラドックス」の迷宮を自ら作り上げ、その中に閉じこもったのだ。


「あんたは『自分は正直者だ』という、安っぽいプライドを捨てられなかった。だから、自分の記憶が嘘であることを認められず、世界の方を『嘘つき』だと定義した。……滑稽だね。自分一人の正しさを守るために、この世界の論理すべてを敵に回すなんて、知的なあんたらしくて反吐が出る」

 律は、老人の前に一枚の白い請求書を、死刑宣告のように置いた。


「解呪は完了した。あんたの脳から『偽りの孫』というバグは消去され、代わりに冷厳な『孤独』という現実が戻ってきた。……さあ、報酬を頂こうか。あんたの全資産の三割だ」


 老人は力なく頷き、震える手で小切手にサインをした。ペン先が紙を削る音だけが、静かな室内に響く。彼は、自分が何を失ったのかをようやく理解し始めたようだった。守り抜こうとした「正しさ」も、愛した「孫」も、すべては自分がついた嘘の成れの果て。


 老人が、杖を突き、幽霊のような足取りで店を出て行った後、累はクッキーの屑を払いながら律を睨みつけた。

「……なぁ、律。あのじいさん、これからどうなるんだよ。孫もいねえ、金も三割奪われた。ただの孤独な死にぞこないに戻っただけじゃねえか。オマエ、少しは後味が悪いとか思わねえのかよ?」


「思わないな。俺は解呪師であって、福祉の専門家じゃない。救済とは、常に剥き出しの真実を突きつけることだ」

 律は小切手を光に透かして確認し、満足げに微笑んだ。

「あのじいさんは『嘘』という甘い夢で自分を騙していた。俺はそれを叩き起こした。……目覚めには苦痛が伴うものだ、累。それに、失ったのは三割の資産と偽りの孫だが、得たのは『正気』という地獄だ。公平な取引だろう?」


「ケッ、相変わらず理屈ばっかりの冷てえ野郎だぜい。オマエ、いつかバチが当たるぞ」


 律は眼鏡を外し、丁寧にクロスでレンズを拭き始めた。解呪師モードの「私」から、日常の「僕」へと戻る境界線。


「おや、感謝してほしいね。おかげで今日の夕飯は、三割増しで豪華にできる。最高級の合挽肉を買ってこよう。もちろん、累の健康のためにピーマンも山ほどね」


「……結局そこかよ! オレの戦い損じゃねえか! ピーマンなんか論理破綻してゴミ箱へ行け!」

 累の叫びが響く中、律は再び、素顔の穏やかな「背反二 律」に戻ってエプロンを締めた。


 窓の外では、街の灯りが一つ、また一つと灯り始めている。その光の数だけ、人々は自分に都合のいい記憶を抱き、自分自身に小さな嘘をついて、正気を保って生きている。

 『二律背反』の看板が、闇の中で静かに、しかし確かな支配力を持って揺れていた。




【虚飾の記憶:解説】

タダシの存在は、以下の有名なパラドックスで説明できます。

嘘つきのパラドックス(エピメニデスのパラドックス)

これは「この文は嘘である」という命題です。

• もしこの文が真実なら、「嘘である」という内容と矛盾します。

• もしこの文が嘘なら、「嘘である」という内容が偽りとなり、真実になってしまいます。


【本作への適用】

タカシの正体:幸せになると消える「嘘」


おじいさんの強すぎる記憶が生んだ怪異。彼は、以下の逃げられない矛盾に囚われています。


『真実になれば消え、嘘であれば救いにならない』


本物と認められれば消滅し、偽物のままでいれば孤独は癒えない。

この「詰んだ状態」こそが、怪異の呪いです。

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