第6話 虚飾の記憶②
「……ぁ、ああ……タカシ、どこだ、タカシ……おじいちゃんはここだよ……」
老人の瞳が急速に混濁し、焦点が現実から完全に剥離していく。老人の背後に取り憑いた「黒いモヤ」――孫の形をした怪異が、老人の耳元でじゅるりと不快な音を立てて何かを囁いた。その瞬間、老人の周囲の空間が、水面に落とした墨汁のように、どろりと黒く歪み始めた。事務所の壁に飾られた絵画が溶け落ち、床が底なしの沼のように波打つ。
「不味いな。老人の脳が、客観的現実よりも『偽りの記憶』を上位の真実として優先し始めた。このままだと彼の精神は、存在しない孫と永遠にオムライスを食べるだけの、閉じられた地獄のループに引きずり込まれる」
律は冷徹に言い放つと、銀縁の眼鏡のブリッジを中指で強く押し込んだ。レンズの奥で、彼の知性が鋭い光を放つ。
「累、出番だ。お前の特性で、あの記憶のバグを引きずり出せ。……いいか、一ミリの慈悲も残すなよ」
「へっ、合点承知だぜい! あのおぞましいヘドロ野郎を、胃袋ごとぶちのめせばいいんだろ?」
累が床を強く蹴ると、彼の影が生き物のように蠢き、巨大なワニの顎へと変貌する。律が空中で指をパチンと弾くと、事務所の壁一面に並んだ蔵書がガタガタと悲鳴を上げて震え、老人の記憶の世界への「道」が強引にこじ開けられた。
「定義を上書きする。これより、この事務所は『老人の意識下』と接続される。累、お前が観測するまで、あいつの正体は確定しない。……死ぬなよ、お前が消えたら日々の不満をぶつける相手がいなくなるからな」
視界が激しく反転した。
気がつくと、累は夕焼けに染まった見覚えのない公園の砂場に立っていた。
そこは、老人が語った「タカシと遊んだ公園」の記憶の再構築だ。だが、何かが決定的に壊れている。空には歪んだ太陽が二つ並び、無風のはずなのにブランコは物理法則を無視して横に激しく揺れている。ジャングルジムは巨大な肋骨のように天を突き刺し、すべてが老人の願望と現実の矛盾が混ざり合った「嘘」の風景だった。
「……見つけたぜい。吐き気のする匂いがプンプンしやがる」
砂場の中央に、一人の少年が座っていた。
七歳くらいの、愛らしい少年の姿。だが、近づくとその異様さが際立つ。その顔には目も鼻も口もない。真っ平らなのっぺらぼうの顔面の中央に、ただ一つ、「私は正直者だ」という歪な文字が赤黒く刻まれている。
『お兄ちゃん、だれ? ぼく、おじいちゃんと遊んでるの。邪魔しないでよ』
少年の声が、直接脳に直接響く。それは子供らしい無邪気さを装いながらも、その奥に潜む怪異のドロドロとした執着を隠しきれていなかった。
『ぼくはここにいる。おじいちゃんがそう言ったんだ。ぼくはおじいちゃんの真実なの。だから、ぼくは絶対に存在するんだ!』
「あいにくだな。オマエを定義してる『じいさんの記憶』自体が、自分の嘘を食って膨らんだ致命的なバグなんだよ」
累は獰猛に笑い、右手を突き出した。影から伸びた漆黒のワニの爪が、少年の形をしたモヤを切り裂こうとする。しかし、攻撃は霧を払うように空を切り、少年の姿は霞のように消えて累の背後に音もなく現れた。
『ぼくは嘘つきじゃない! ぼくは本当の孫だ! ぼくが「ぼくはここにいる」って言ってるんだから、それは本当のことなんだ!』
少年の叫びに呼応して、公園の風景が凄まじい勢いで崩壊し始める。砂場の砂が小さな牙を持った無数の虫に変わり、夕焼けがドロドロとした血液のような粘液に変色して空から降り注ぐ。
「くそっ、しぶといガキだぜい……! 存在自体が矛盾してるくせに、なんで消えねえんだ!」
累が苛立ちを見せたその時、現実世界に残っている律の声が、天から響く雷鳴のように届いた。
『累、力任せに壊そうとするな。そいつの武器は「私は正しい」という論理だ。ならば、その論理の刃を自分自身に向けさせればいい。……いいか、エピメニデスの問いをぶつけろ。逃げ場のない矛盾で、その怪異を自滅させるんだ』
「……ケッ、結局それかよ、律! めんどくせえなあ!」
累は空中で身を翻して着地すると、逃げ回る「孫」を見据えて不敵に笑った。
「おい、ニセモノ。オマエは自分のことを『本当』だって言い張るんだな? 自分の言葉に嘘はないって、そう誓えるか?」
『そうだよ! ぼくは、おじいちゃんの最高の真実だ!』
「ならよぉ、この問いに答えてみろ。……『オマエがいまから言うことは、全部嘘なんだろ?』」
その瞬間、偽りの孫の動きが、まるで時間が止まったかのようにピタリと停止した。
もし怪異が「はい」と答えれば、その答え自体が嘘になり、彼は本当のことを言っている矛盾に陥る。
もし「いいえ」と答えれば、自分は本当のことを言っているはずなのに、自分の言葉(全部嘘という定義)を否定することになる。
どちらを選んでも、存在の根拠が崩れ去る。
「嘘つきのパラドックス」の無限ループ。
怪異の顔面に刻まれた文字が、ショートした機械のように激しく明滅し、バチバチと黒い火花を散らす。
『ぼくは……ぼく、は……う、そ……ほん……と……あ、が……あああああああああ!』
少年の姿がデジタルノイズのように乱れ、真っ黒なヘドロとなって溶け出した。自分自身が「真実であるか、嘘であるか」を論理的に定義できなくなった怪異は、存在の法を失い、霧散していく。
「あばよ。オマエの席は、じいさんの脳みその中にも、この世界のどこにもねえんだよ」
累がそのヘドロの塊を、巨大な影の顎で一息に飲み込んだ。それは、老人が長年溜め込んできた「嘘の味」がした。
次の瞬間、累の視界は再び事務所の冷たい空気に包まれた。
目の前には、糸が切れた人形のように椅子に深く沈み込む老人の姿があった。
老人の顔からは「自信」という名の仮面が剥がれ落ち、そこにはただの、孤独な老いさらばけた人間が残されていた。




