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第5話 虚飾の記憶①

「なぁ律。この本に書いてある『私は嘘つきであると主張する嘘つきは、正直者であるか?』って一文、さっきから三十分読んでるけど、意味がさっぱりわかんねえぜい」


 昼下がりの解呪屋『二律背反』。

 累はソファにひっくり返り、律の蔵書である難解な論理学の本を顔に乗せていた。少年の細い手足は行儀悪く投げ出され、時折、退屈そうに金色の瞳を本の間から覗かせている。彼にとっては、文字の羅列よりも、キッチンから漂ってくる午後の焼き菓子の匂いの方がよほど「真実」に近かった。


「累、それは読むものじゃなくて、思考の迷路を楽しむものだよ。……いいかい。いまから君にもわかるように教えてあげるよ」

 キッチンでハーブティーを淹れていた律が、素顔のまま穏やかに振り返る。彼はティースプーンを一本取り出すと、それを鏡のように累に向けた。

 「例えば、僕が君にこう言ったとする。『今から僕が言うことは、全部嘘だよ』と」


 累は本を顔からどかし、怪訝そうに眉を寄せた。

 「……それがどうしたんだよ」


「もし、今の僕の言葉が『本当』なら、僕は宣言通りに嘘をついていることになる。でも、僕が嘘をついているなら、『全部嘘だよ』という言葉自体が嘘……つまり、本当のことを言っていることになってしまう。……ほら、答えがどこにも辿り着けずに、永遠に自分自身を追いかけ回すだろう? これを自己言及の矛盾、通称『嘘つきのパラドックス』と呼ぶんだ」


 「あー、もういい! 脳みそがワニの形にひん曲がっちまう! 律、お前はもっとこう、肉とか金とか分かりやすい話はできねえのかよ!」

 累が本をクッション代わりに投げ出したのと同時に、店の重厚な扉が鳴った。

カラン、カラン。


 入ってきたのは、仕立てのいい三揃えのスーツを完璧に着こなした、気品のある老人だった。

 老人はどこか誇らしげに、まるで勲章を誇示するように胸を張り、しかしその瞳の奥には、底の見えない沼のような困惑を湛えていた。彼は律の前に座ると、手入れの行き届いた指先でテーブルを叩いた。


「先生。私の記憶力は、この街で一番正確だと自負しております。私はかつて大学で教鞭を執り、数字と事実にのみ生きてきました。……ですが、たった一つだけ。どうしても計算の合わない『真実』があるのです」


「正確な記憶、ですか。それはこの商売において、もっとも興味深い言葉の一つですね」

 律はエプロンを脱ぎ、ゆっくりとチェストの引き出しを開けた。

 そこには、一振りの凶器を取り出すかのような厳かさで、銀縁の眼鏡が収められている。

 律がそれを耳にかけ、中指でブリッジをカチリと押し上げた瞬間、彼の周囲の空気から「体温」が消失した。レンズの向こう側の瞳は、氷のような透明度を持つ「観察者」のそれに変わる。


「……私に、あんたの誇る『真実』とやらを説明してもらいましょうか」


 老人は震える手で、内ポケットから一枚の写真を取り出した。

「私の孫の、タカシです。七歳になります。私は毎日、彼と公園で遊び、一緒に夕飯を食べています。昨日の献立は彼の好物のオムライスでした。タカシはケチャップを鼻につけて笑っていた。その時、テレビでは明日の降水確率が二十パーセントだと言っていた。……その光景を、私は一分一秒違わず、完璧に覚えているんです」


「それが何か?」

 律は冷徹に先を促す。


「……周囲の人間が、私を狂人扱いするのです! 『あんたに孫なんていない。ずっと一人暮らしだろう』と! 息子夫婦に電話をしても、彼らは『子供なんて授かったことはない』と泣きながら訴える。役所へ行っても、戸籍にタカシの名は存在しない! 世界のすべてが、私に嘘をついている! でも私の記憶は正しい! 孫はいる! この写真が、私の正しさを証明している唯一の楔なんです!」


 律は差し出された写真を、指先で器用に摘み上げた。

「累。この写真、お前の目にはどう映る?」


 累が横からひょいと覗き込む。そして、鼻をひくつかせると、嫌悪感を剥き出しにして吐き捨てた。

「なんだこれ。じいさんの横、子供なんてどこにもいねえ。……ただの『真っ黒いモヤ』が、じいさんの肩を食い破ろうとしてるようにしか見えねえぜい。ヘドロみたいな匂いがしやがる」


 老人は凍りついた。彼に見えているはずの「愛らしい孫」が、累には「黒いモヤ」に見えている。


「あんたの言っていることは、論理学で言う『エピメニデスのパラドックス』そのものだ」

 律は写真を無造作に机へ放り捨てた。写真は老人の前で、不気味に歪んでいるように見えた。


「あんたは『自分は絶対に嘘を言わない(記憶は常に正しい)』という巨大な前提を置いた。だが、その正しいはずの記憶の中に、たった一つ、現実とは相容れない『存在しない孫』という嘘が紛れ込んでしまった。……『私は正直者だが、この記憶は嘘である』。その一文が成立した瞬間、あんたの脳は論理の自己崩壊を起こした。そのバグを埋めるために、あんたの脳は『世界の方が嘘をついている』というさらに巨大な嘘を、真実として固定してしまったんだ」


 老人の背後に、黒い影がゆらりと立ち上がった。孫の形を模した、しかし顔のない、影だけで構成された「記憶の怪異」が、老人の耳元で何かを囁いている。


「救いますと言いたいところだが。……あんた、自分の『正しさ』というプライドを守るために、一体どれだけの現実をゴミ箱に捨ててきた?」


 律の眼鏡が、室内のわずかな光を反射して白く光る。

 「あんたの記憶が正しいなら、世界が壊れている。世界が正しいなら、あんたの記憶はゴミだ。……どちらを解体するか、選ばせてやるよ。報酬は、あんたの全資産の三割。……そして、あんたがこれまで積み上げてきた『誇りある過去』のすべてだ」


 老人は、顔のない孫の影に抱きつかれながら、真っ白な目をして律を見つめていた。

 救済という名の、人格の解体が始まろうとしていた。


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