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第37話 二律背反の真実②

沈黙の司教が放つ「空白」の波は、新宿の地下で味わった物理的な痛みとは異なり、存在そのものを希釈していくような、根源的な恐怖だった。

律の足元からアスファルトの質感が失われ、色を失ったデッサン画のように平面的になっていく。累の体温さえもが、沈黙の霧に阻まれて遠のいていくようだった。


「……不法占拠者よ。抵抗を止めなさい」


司教の「記述」が、律の脳内に直接刻まれる。


「あなたが守ろうとしているその『自己』とは、盗んだ記憶と、他人の肉体によって構成された張りぼての物語に過ぎない。この空白こそが、あなたに相応しい唯一の居場所なのです。何も語らず、何も望まず、ただの一つの記号として、完全なる静寂の一部になりなさい」


律の指先が、白く透けていく。

意識の端々から、自分が誰であったか、何を目的としていたかという重要な情報が、砂が零れ落ちるように削られていった。


隣では、累が激しく喘いでいた。神霊である彼にとって、この「定義の消滅」は致命的な毒だ。黄金の光は今や風前の灯火となり、その瞳からさえも色が失われようとしていた。


(……律、……くそっ、言葉が……出てこねぇ……)


累の思考が途切れ途切れに流れ込んでくる。

律は、沈みゆく意識の中で、あえて自分の「痣」を逆流させた。

論理で勝てないなら、論理を壊す。

「沈黙」が空白だと言うなら、その空白を埋め尽くすほどの「嘘」をぶちまけてやる。


「……司教。あんたの言う『完全な静寂』は……ただの手抜き(編集)だ」


律は、震える声で言葉を紡いだ。

それは司教の領域に対する、明確な宣戦布告だった。


「語るべき言葉がないんじゃない。あんたたちは、……自分たちが管理できない複雑な感情ノイズを、……『沈黙』という名のゴミ箱に放り込んでいるだけだ」


「……黙りなさい。不純な文脈は、世界の完成を妨げるだけです」


司教が腕を振る。

空間そのものが歪み、律の言葉を物理的に「消去」しようと、巨大な虚無が襲いかかる。

だが、律は止まらなかった。彼は自分の首筋、累との共鳴で刻まれた「刻印」を強く押し潰した。


「……累! 思考を……俺に預けろ! 意味なんかなくていい! ただの叫びでも、……呪いでもいい! この空白を、俺たちの泥で汚してやるんだ!」


律の叫びに呼応し、累が最期の力を振り絞って律の背中に縋り付いた。

少年の姿をした神霊が、律の影と同化していく。

その瞬間、律の「痣」から溢れ出したのは、これまでの解呪で見てきた、無数の人々の「語られなかった言葉」だった。


行き場を失った遺言、誰にも届かなかった愛の告白、裏切られた友情の罵倒。

それらは司教が定義する『美しい静寂』の対極にある、醜く、汚く、しかし何よりも生命力に溢れた「ノイズの奔流」だった。


「――これが、あんたが捨てた世界の正体だ!」


律の手から、真っ黒なインクの嵐が放たれた。

それは司教の「空白」を一点の迷いもなく汚染し、モノクロだった世界に、どす黒い現実の色を塗り戻していく。

司教の胸に開いた空洞が、吸い込みきれないほどの「ノイズ」に悲鳴を上げた。


「……な、何ですか……この、不快な……無意味な情報の羅列は……! 正しくない、こんなものは……記述に値しない……!」


司教の法衣が、黒い言葉の泥に染まっていく。

律は、累から流れ込んでくる膨大なエネルギーを燃料に変え、さらに深く司教の深層へと論理の楔を打ち込んだ。


「正しくなくていい! 意味なんてなくていいんだ! 俺たちは、……この不完全な言葉のゴミ溜めの中で、……もがきながら生きているんだよ!」


ドォォォォン!!


衝撃波が走り、司教の巨大な身体が大きく傾いた。

空白の領域にヒビが入り、霧の向こうから、かつての灰色の街並みが、傷だらけの姿で再び現れ始める。


だが、代償は律の器を確実に破壊していた。

律の瞳からは血が滴り、首筋の刻印は今にも肉を突き破りそうなほど膨れ上がっている。

累の存在もまた、律を支えるために限界を超えて引き伸ばされ、その輪郭は今や律の影と判別がつかないほどに混濁していた。


「……ハァ、ハァ……。……まだ、だ。……司教の核は、……まだ壊れていない」

律は、ぼやける視界の先で、再び態勢を立て直そうとする白の巨像を見据えた。

司教の胸の空洞から、今度は「沈黙」ではなく、この世のすべての音を反転させたような、殺人的な超音波が響き始めた。


「……傲慢ですね、不法占拠者。……ならば、あなた自身の『言葉の根源』から、……その魂を根絶やしにしましょう」


司教の頭上に、巨大な「白紙タブー」が展開される。

それは、律の脳内に眠る『ワニの予言』そのものを標的にした、組織の最終術式。


『……偽りの王、沈黙の果て、彼は真実の淵を歩む。その名は――』


律は、自分の内側にある「盗んだ記憶」が、司教の手によって強制的に開示されようとしているのを感じた。


「……あ、あ、がぁぁ!!」


脳を直接焼かれるような激痛。

律が今まで必死に隠してきた、彼自身の「正体」に関わる断片が、司教の光に照らし出されていく。

それは、累さえもまだ知らない、背反二律という器を占拠した「何か」の始まりの記憶だった。


(……俺は、あの時……)


白紙の海の中に、映像が浮かび上がる。

一年前、事故の直後。

本来なら死んでいるはずだった「背反二律」という器を、自分がどうやって手に入れたのか。

誰からその「予言」を託され、誰の声を無視して立ち上がったのか。


「律……! 負けるな! 律!!」


累の叫びが、遠い海の底から聞こえるような気がした。

だが、律の意識は、司教が広げた「白紙」の海へと沈んでいく。


その光景の中で、律は見ていた。

自分がなぜ「不法占拠者」として生きることを選んだのかという、残酷な真実の断片を。


(……そうだ。俺があいつを盗んだ理由……)


律の唇が、震えながら言葉を漏らした。

その真実が開示された瞬間、律の周囲に展開されていた「沈黙」が、今までとは異なる不気味な色に染まり始めた。



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