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第31話 回収官(コレクター)②

 環状八号線の境界線上で、世界は「音」を失った。

 回収官コレクターの一体が累の爪によって粉砕された瞬間、その死体から溢れ出したのは、数千、数万という「文字」の残骸だった。意味を失った活字が、砕けたガラスのようにアスファルトに突き刺さり、周囲の空間を物理的に書き換えていく。


「……ハァ、ハァ……。律、今ので最後か?」

 累が荒い息をつきながら、半透明になった拳を握り直す。

 足元には、トレンチコートを着た異形たちの残骸が転がっていた。だが、一体倒すごとに、累の輪郭は陽炎のように薄れ、逆に律の首筋を這う痣は、まるで生き物のように脈打ちを強めていく。


「……いや、終わって……いない。これは、……始まりに過ぎない……」

 律は、壁に背を預けてずるずると崩れ落ちた。

 眼鏡のない視界。そこには、絶望的な光景が広がっていた。新宿方面の空は、巨大な文字の竜巻に飲み込まれ、街そのものが「物語」の体をなさなくなっている。ビルの壁面は広告の文字列が剥がれ落ちて文字の滝となり、逃げ惑う人々の叫び声は、空中で黒い文字列となって地面に叩きつけられていた。


「霧島邸で……堂々が言った通りだ。……言葉の怪異たちが、人間の器を……『正当に』回収し始めている……」


 ふと、律の耳に、聞き覚えのある声が届いた。

「……背反二、さん? そこに、いるの……?」

 

 ノイズの雨の向こうから現れたのは、かつての依頼人、霧島邸の生き残りである娘だった。彼女は豪奢なドレスを泥に汚し、裸足で彷徨っていた。

 だが、その姿はもはや人間ではなかった。彼女の口からは常に「嘘だったの」「お父様」「予言が」という文字が泡のように溢れ出し、彼女の肌は薄い紙のように変質し、内側の血管の代わりにインクの筋が透けて見えている。


「助けて……。私、……消えちゃう……」

 彼女が律に手を伸ばす。その指先が律の服に触れた瞬間、律の肩の痣が激しく反応し、火を噴くような痛みが走った。


「……来るな!」

 律は思わず彼女の手を振り払った。

「……今の俺に、……あんたを救う『論理』はない。……あんたを構成していた『言葉の器』は、もう……回収されたんだ……」


 娘の姿は、律の目の前で一枚の「死亡記事」のような紙片へと変わり、夜の風に攫われて消えていった。


「律……。オマエ、冷てぇこと言うなよ……!」

 累が叫ぶが、律は血の混じった涙を流しながら、自らの左胸を強く掻きむしった。

 

「……冷たい? そうさ、累。……これが、俺たちの選んだ『矛盾』だ。……他人を救う余裕なんて、今の俺たちには一ミリもありはしない。……俺は、お前の命を吸って生きている……。俺が一人救おうとするたびに、……お前の存在が、数年分、削れていくんだぞ!」


 律の咆哮が、雨音を切り裂いた。

 累は息を飲み、言葉を失った。律が自分を突き放すような物言いをし続けていた理由。それは、己の「延命」が累の「削り出し」と同義であるという、あまりに残酷な共依存の構造を理解してしまったからだ。


「……俺は、最低の密航者だ。……死体の脳を盗んで生き延び、……今度は、一番近くにいる神霊の命を燃料にしている……。……こんな俺に、……誰かを解呪する資格があると思うか?」


 律は、片方の赤い瞳で累を睨みつけた。

 だが、累は怯まなかった。彼は透けかかった体で律の胸ぐらを掴み、その額に自分の額を強くぶつけた。


「……資格なんて、最初からねぇって言ってんだろ、このバカ律!」

 累の黄金の瞳が、律の暗い視界を照らし出す。

「オレが、オマエに命を注ぐって決めたんだ。……オマエが最低の占拠者なら、オレは最低の共犯者だ。……誰かを救えねぇんなら、それでいい。……ただ、二人で地獄を歩き切るぞ。……その途中で、……オマエを『正当』にする答えを見つけりゃいいんだ……!」


 累の言葉が、律の体内で暴れていた「矛盾」の熱を、微かに鎮めた。

 

 二人の背後。霧島邸の跡地から放たれた文字の奔流が、ついに成城の街を完全に飲み込み、巨大な「意味の墓標」へと変貌させた。

 

 律は、震える手で累の腕を掴み返した。

「……ああ。……わかったよ、累。……俺の計算は、……最初からお前という変数で狂っていたんだ……」


 律は立ち上がり、壊れかけの視界の先に、自分たちの帰るべき場所――新宿の、あの薄暗い解呪屋『二律背反アンチノミー』の方向を見据えた。

 

 そこには、新たな執行官たちが待ち構えているだろう。

 世界中で、器を奪われた人間たちが怪異へと変質し、かつての「精霊」たちが、生存を懸けた略奪を繰り広げている。

 現代人が言葉に責任を持たなくなった代償として始まった、この「大回収パンデミック」。

 その最前線に、不法占拠者と、正当な継承者が、肩を並べて立っている。


「……帰るぞ。……眼鏡も、……ハンバーグの材料も、……全部店に置いたままだ」


 律の言葉に、累が初めて、悪戯っぽい笑みを浮かべた。

「……ああ。……明日の朝飯は、オレが焼いてやる。……不法な味、させてやるよ」


 降りしきるノイズの雨の中、二人は一歩を踏み出した。

 

 それは、世界を救う英雄の旅路ではない。

 ただ、自分たちの「存在」を、世界という巨大な法に対して証明するための、反逆の物語の始まり。

 

 ワニの予言を盗む者――その解呪依頼の結末は、二人の絆という名の、新たな「二律背反」の誕生によって幕を閉じた。


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