第30話 回収官(コレクター)①
成城の高級住宅街を抜け、環状八号線へと辿り着いた二人が目にしたのは、すでに「世界の記述」が壊れ始めた光景だった。
空はどんよりとした鉛色に濁り、雲の切れ間からは雨の代わりに、無数の文字列が煤のように降り注いでいる。ネットの海に放流された罵詈雑言、誰にも届かなかった遺言、その場しのぎの空虚な広告。それらが物理的な質量を持って、アスファルトを黒く汚していた。
「……っ、ぐ……」
律は歩道に膝を突き、激しく嘔吐した。胃の中からせり上がってきたのは、胃酸ではなく、ドロドロとした墨のような粘液だ。眼鏡というフィルターを失ったその瞳には、行き交う車も、立ち並ぶビルも、すべてが崩壊した構文の残骸に見えていた。
一歩歩くたびに、累から分け与えられた「黄金のエネルギー」が律の体内で火花を散らし、崩れかけの細胞を無理やり焼き付けて繋ぎ止める。それは救済というより、砕けた陶器を溶けた鉄で接着するような、暴力的な修復だった。
「律! しっかりしろ! オレの肩を掴んでろって!」
累が必死に律の身体を支える。だが、その累の姿さえも、今の律にはバグった映像のように輪郭が二重、三重にブレて見えた。累自身の存在も、律を延命させるためにエネルギーを放出しすぎたせいで、輪郭が透け、足元はおぼつかない。
「……あ、ああ。……わかっている。……だが、うるさすぎるんだ、世界が……」
律は耳を塞ぎ、掠れた声で喘いだ。
パンデミックの真の恐怖は、器を奪われることだけではない。人間がこれまで「無意味な背景音」として処理してきた言葉のノイズが、すべて意味を持って脳内に流れ込んでくることだ。
ふと、環八の路上に立ち尽くす一人の男が目に入った。
営業職だろうか、安っぽいスーツを着た男は、スマートフォンの画面を狂ったように連打している。その指先から、ポロポロと何かが剥がれ落ちていた。
それは肉ではなく、「指」という概念を構成する論理だ。
「違う、俺はそんなこと言ってない、あれは誤解だ、俺は悪くない、俺は……」
男が吐き出す自己弁護の言葉が、実体を持って彼の喉に詰まり、首を異様に膨らませていく。やがて、男の頭部はグチャリと音を立てて弾け、そこから「言い訳」の文字で編まれた巨大なムカデのような怪異が這い出してきた。
「……器の剥奪だ。あいつは……自分自身の嘘に、中身を食い破られた……」
律は血走った瞳でその光景を凝視した。
これが堂々の言っていた地獄だ。言葉に責任を持たず、矛盾を放置し続けたツケが、今、全人類の肉体という現物で強制的に徴収され始めている。
「逃げるぞ、累。……ここも、すぐに『文字の泥』に沈む……」
律は震える足で立ち上がった。その時、黒い雪のようなノイズを切り裂いて、複数の人影が静かに二人の前に立ち塞がった。
それは、人間ではなかった。
全身を灰色のトレンチコートで包み、顔があるべき場所には、古びた活版印刷の「活字」がびっしりと埋め込まれた異形の集団。
組織が放った実力行使部隊――【回収官】だ。
「……ターゲットを確認。管理番号:零。不法占拠者、背反二律。および、その共犯者。……ただちに論理の修正を開始する」
中央の一体が、感情を排除した機械的な声で告げた。その声が響いた瞬間、周囲の空間が、巨大な辞書に挟み込まれたかのように「平面」へと圧縮され始める。
「へっ……。挨拶もなしに消去かよ。上等だ」
累が牙を剥き出しにし、律の前に躍り出た。
だが、今の累には、以前のような圧倒的な神霊の力は残っていない。律を生かすために寿命を垂れ流している今の彼は、言わば「ひび割れた水瓶」のような状態だ。
「累、待て……! まともに……打ち合うな。あいつらは、言葉の『定義』そのものを武器にしている……!」
律が叫ぶが、回収官たちの攻撃は速かった。
一体が虚空をなぞると、そこに「停止」という巨大な二文字が浮かび上がる。その文字に触れた累の動きが、物理法則を無視して完全に凍りついた。
「累!?」
「不法占拠者に告げる。……君の存在は、今の世界にとって『誤植』に等しい。……誤植は、消しゴムで消されるべきだ」
回収官が右手をかざす。その手掌には、「抹消」の文字が刻まれていた。
律は、意識の混濁の中で、自分の中に逆流してくる累の黄金の熱量を感じていた。
俺は不法占拠者だ。死体の脳を盗んだ、名もなきゴミだ。
だが。
このワニが、この馬鹿げた神霊が、俺を「律」だと定義したんだ。
だったら――その定義に、命を懸けて報いてやる。
律は、懐から銀縁の眼鏡……ではなく、店に置いてきたはずの「本質」を、自分の脳内に描き出した。眼鏡がなくても、俺は解呪師だ。世界が文字でできているというのなら、その文脈を書き換えてやる。
「……累。……俺の、指示に従え」
律は、自身の血管を流れる累のエネルギーを、あえて「激痛」として受け入れ、それを集中力へと変換した。
「回収官……お前たちの言う『法』は、一貫性に欠けている。……お前たちは『無責任な言葉を消す』と言いながら、今、自分たち自身が『抹消』という無責任な暴力を行使している……。それは自己言及のパラドックスだ!」
律の咆哮とともに、彼の右目からどす黒い文字の奔流が噴き出した。
「抹消」という定義を、律の「矛盾」という力が強引にねじ曲げる。
「累! 今だ! あいつらの論理が……一瞬、バグった!」
「停止」の呪縛から解き放たれた累が、地を這うような加速で回収官の懐に飛び込んだ。
「オマエらの難しい理屈なんて知らねぇよ! オレはただ、……律を連れて帰るだけだ!」
累の爪が、回収官の「活字の顔」を粉砕する。
砕け散った文字が、悲鳴のようなノイズを上げて宙に舞った。
だが、これはまだ序章に過ぎない。
霧島邸を起点としたパンデミックは、すでに東京全域へと波及し、新宿、渋谷、そして二人の拠点であるあの「店」をも飲み込もうとしていた。
雨脚が強くなる。
降り注ぐ言葉の雨に打たれながら、律は累の肩に縋り、崩壊していく新宿の街並みを見つめた。
「……帰ろう、累。……俺たちの、……矛盾だらけの店へ」
一歩、また一歩。
激痛と、絶望と、そして微かな「合意」を抱えて。
二人の本当の戦いが、今、幕を開けた。
■ 組織:執行部と強制力
【実力行使部隊】回収官
能力:強制回収
顔が活字に埋め尽くされた異形。不要と判断された「言葉」や「人間(器)」を物理的に解体し、組織の記録へと還元します。
強制力:B




