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第29話 ワニの予言を盗む者④

 少年の姿をした累の足元から、影が泥のように溶け出し、庭園の芝生を侵食していった。

 それは単なる影ではない。南米の湿地で数千年の時を重層的に積み上げてきた、巨大な捕食者の「概念」そのものだ。


「……オレは、認めねぇ」

 二度目の咆哮。それは空気の振動を超え、成城の高級住宅街を支える地盤そのものを揺らした。累の背後に、体長十メートルを超える巨大なワニの幻影が、陽炎のように立ち昇る。

 

 律の肩を掴んでいた累の指先が、鋭い鉤爪へと変質していく。少年の肌がひび割れ、その隙間から硬質な鱗が覗く。変身の余波で放たれる神霊としての神威オーラは、霧島邸から溢れ出していた「文字の泥」を一時的に押し留めるほどの圧力を放っていた。


「律、オマエ……。オレを正当にするために、自分が消える道を選んだってのか? ……笑わせんじゃねぇぞ! オレが欲しかったのは、オマエが横にいる『名前』であって、オマエを食いつぶして手に入れる『身分』じゃねぇんだよ!」


 累の黄金の瞳が、怒りと悲しみの混濁に燃える。

 律はその剣幕に圧され、崩れ落ちそうな膝を震わせながら、解呪師としての冷徹なペルソナをかろうじて維持していた。眼鏡は店に置いてきた。今、彼を外界のノイズから守る盾はどこにもない。視界はもはや半分がノイズに埋もれ、堂々の姿さえもバグった映像のように乱れている。それでも、律は口を開かなければならなかった。


「……累。俺が死ぬのは、計算……済みだ。不法占拠者が……正当な継承者に、場所を譲る。これ以上の……正しい論理ロジックは、ない……」


「そんなクソみたいなロジック、オレが噛み砕いてやる!」

 累が地を蹴った。

 少年の体躯とは思えぬ質量と速度で、テラスの堂々へと肉薄する。累の右腕はすでに完全にワニのそれへと化しており、その一撃は建物の外壁を紙細工のように粉砕した。


 だが、堂々は動かない。砕け散るコンクリートの破片の中でも、彼は結露したアイスコーヒーのグラスを手放さず、優雅に身をかわした。


「おやおや、野蛮だね。累くん。君が暴れれば暴れるほど、君という『名前』を維持するために、律くんの器はさらに削られていく。……君が今振るっているその暴力的なエネルギー、それはすべて律くんの命を燃料にして燃やされているんだよ? 自分のバディを文字通り燃やしながら戦う気分はどうだい?」


 堂々の言葉は、呪いよりも鋭く累の動きを止めた。

 累の腕が、空中で停止する。自らの力だと思っていたものが、律の命を削り取って絞り出したものだと突きつけられ、戦慄が全身を走った。


「……あ、……ぁ……」

 累の喉から、掠れた声が漏れる。

 

「酷い話だよね、律くんは。君に恩を売るふりをして、一生消えない負い目を刻みつけた。これは救済じゃない、残酷な『呪い』だ。……さぁ、累くん。そんな壊れたバッテリーは捨てて、僕らと一緒に来ないかい? 君なら、新しい世界の『神』の座を用意できる」


 堂々が優しく手を差し伸べる。

 その背後では、霧島邸の崩壊が臨界点に達していた。邸宅そのものが巨大な「言葉の墓場」へと変貌し、家主たちが吐き散らしてきた「嘘の予言」が、実体を持った怪物となって門扉を突き破る。

「助けて」「死にたくない」「明日も贅沢をさせてくれ」「あれは嘘だったんだ」

 無数の文字の塊が、醜悪な肉の塊と化して成城の路上へ這い出していく。パンデミックはもはや止まらない。


 律は、崩れ落ちる意識の淵で、累の背中を見つめていた。

 眼鏡のない瞳には、世界のすべてが歪んだ文字列に見える。累。すまない、と心の中で呟く。

 一年前、脳死したこの青年の肉体を見つけたとき、自分はただ消えたくない一心で潜り込んだ。だが、累という純粋な怪異に出会ってしまったとき、自分の中に決定的な「矛盾」が生じた。

 不法な自分を肯定したいのではない。

 この、少年の願いを背負って生きるワニの怪異に、この世界に存在する「正当な理由」を与えたかった。自分が「名付け」という支配を行ったのは、累を縛るためではない。自分が消えた後も、累が「黒田累」という存在として、誰にも奪われない肉体とアイデンティティを保てるように、論理の杭を打ち込みたかったのだ。

 それは、解呪士としての冷徹な計算ではなく、名もなき怪異としての、あまりに人間臭いエゴだった。


「……堂々。おまえの負けだ」

 律が、掠れた声で笑った。堂々の眉が、微かに動く。


「累は……俺が教えた通り、……正論なんて、……クソ食らえだと思っている……。こいつは、……お前が提示する『神の座』なんてものに、一ミリの価値も感じていない……」


 律の言葉に応えるように、累がゆっくりと立ち上がった。

 ワニの腕は、少年のそれへと戻っていく。だが、その瞳に宿る光は、先ほどまでの激情を超え、冷徹で静かな「決意」へと変貌していた。


「……堂々。オマエの言うことは、いちいちもっともだ。耳の裏が痒くなるほど正論だよ」

 累は律を振り返らず、一歩、また一歩と堂々の方へ歩みを進める。


「人間は勝手だ。言葉を汚し、オレたちをバケモノに変え、矛盾したまま笑ってやがる。……律だってそうだ。勝手にオレに名前をつけて、勝手に一人で消えようとして……。どいつもこいつも、自分のことばっかりだ」


 累は、目の前でうごめく「文字の泥」を、無造作に掴み取った。

 本来なら触れるだけで存在を蝕むはずのその澱みが、累の手の中でパチパチと弾け、消滅していく。


「でもな……。オレは、その『勝手』が好きなんだよ。律がオレにくれた名前が、たとえ呪いだったとしても。オマエらが決めた『正しい怪異のあり方』より、百万倍マシだ。……律が消えるのが正論だってんなら、オレはその正論を一生飲み込んで、吐き戻してやる」


 累の体から、黄金の光が溢れ出す。それは「少年との合意」によって得た、この世界で唯一の、清浄で正当な生命エネルギー。

 累は、そのエネルギーを自分自身の維持に使うのではなく、逆流させるようにして、背後の律へと流し込み始めた。


「なっ……! 累くん、正気か!? それは君自身の器を破壊する行為だぞ! 不法占拠者に正当なエネルギーを分け与えるなんて、論理崩壊を起こして二人とも消滅する!」

 堂々が初めて、余裕の笑みを消して叫んだ。


「崩壊すりゃいいだろ! 矛盾したまま生きていくのが、この世界の『人間』のやり方なんだろ? だったら、オレたちもそうしてやるよ!」


 累の黄金の光が、律の死体へと無理やり注ぎ込まれる。

 だが、それは福音ではなかった。律の「器」はすでに限界を超えており、累の強すぎる正当なエネルギーを受け入れるたびに、律の肉体は内側から悲鳴を上げ、パキパキと音を立ててさらにひび割れていく。


「……が、ぁ……あ……っ!」

 律の絶叫。救われているのではない。累の命を「削り取って」、無理やりこの世に縫い付けられているという、耐え難い拒絶反応と激痛。


「……面白い。だが、それは延命ですらない。ただの『残酷な執着』だ」

 堂々が、冷めた目でその光景を見下ろしていた。


「累くん。君が彼に与えたエネルギーは、彼の器を修復するのではなく、崩壊の速度を『固定』しただけだ。……彼はこれから、一歩歩くたびに、呼吸をするたびに、君の命を削り、全身を引き裂かれる激痛に苛まれながら生きることになる。それが君の選んだ『共生』かい?」


 光が収まったとき、庭園に立っていたのは、幽霊のように青白い顔をした律だった。首筋の痣は消えるどころか、血管のように脈打ち、どす黒く変質している。


「……律。……大丈夫か?」

 累が駆け寄るが、その体も先ほどの無理なエネルギー譲渡で、子供の姿を保てないほど半透明に透けていた。


 律は、眼鏡のない剥き出しの瞳で、世界を直視した。

 そこに見えるのは、以前のような「冷徹な図式」ではない。累の悲痛な表情と、霧島邸から噴き出し、成城の街を呑み込み始めた黒い嵐が混ざり合った、最悪の地獄絵図だった。視界を遮るフィルターがない今、人々の恐怖と、言葉の残骸が物理的な重みとなって律にのしかかる。


「……ああ。……最悪だ、累。お前のせいで、……僕 俺は死ぬことさえ、許されなくなった……」

 律の言葉は、感謝ではなく、呪いのような響きを持っていた。だが、その指先は、震えながらも累の肩をしっかりと掴んでいた。


「くすっ、あはははは! 傑作だよ、二人とも! 互いの命を食い合いながら、泥沼の中で手を繋ぎ続けるなんて。……これこそが、僕たちを怪異に変えた人間たちの姿そのものじゃないか!」


 堂々はアイスコーヒーのグラスを放り投げると、背後のノイズの中に溶けるように消えていった。

「せいぜい足掻いてよ。崩壊していくこの世界で。……僕らの『回収官コレクター』たちは、もう、そこら中に放たれているからね」


 二人の頭上、成城の空は完全に「文字の雲」に覆われた。

 SNSの罵倒、根も葉もない噂、身勝手な嘘。それらが黒い雨となって降り注ぎ、街のあちこちで「器」を剥奪された人間たちの絶叫が、夜の帳を切り裂き始めた。


「……行くぞ、累。……俺たちは、……まだ生きている」


 律は、眼鏡のない赤い瞳を爛々と輝かせ、パンデミックに呑まれる街へと一歩を踏み出した。

 それは、救済のためではなく、ただ「矛盾したまま生きる」という地獄の始まりだった。



【ワニの予言を盗む者:解説】

「未来を知ったせいで、その不幸が現実になる」呪いです。


• 霧島家の自滅: 予言で不幸を避けようと「ズル(嘘)」をしたせいで、逆に最悪の終わりを招きました。


• 核心: 未来を知った瞬間に、もう逃げられない運命の罠にハマるという皮肉な物語です。


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