第28話 ワニの予言を盗む者③
「不法、占拠……? 律、コイツが言ってること、どういう意味だよ。オマエは、この体の持ち主じゃねぇのか?」
累の声が、湿り気を帯びた空気の中で震えていた。黄金の瞳には、かつてないほどの困惑と、得体の知れない恐怖が混じり合っている。
律は答えない。いや、答えられなかった。眼鏡というフィルターを失った剥き出しの脳には、霧島邸から漏れ出す「情報の悪臭」が直接突き刺さり、思考回路をズタズタに引き裂いている。
「ああ、君たちはまだ気付いていないんだね」
洋館のテラスで、堂々は愉快そうに首を傾げた。「霧島家は海外旅行中……なんて、あの老執事の言葉を真に受けたのかい? 律くん、君も焼きが回ったね。そんな子供騙しの『嘘』に、定義を上書きされるなんて」
堂々がパチンと指を鳴らした。
その瞬間、律たちを案内していた老執事の体が、糸の切れた人形のようにガクリと折れ曲がった。叫び声さえ上げず、その皮膚が紙のように薄く引き裂かれ、内側から溢れ出したのは血でも肉でもなかった。
『霧島家は海外旅行中です』。
そんな文字がびっしりと書き込まれた数万枚の付箋が、噴水のように執事の殻から溢れ出し、夏の風に舞う。執事という存在そのものが、堂々の植え付けた「嘘」だけで形を保っていた傀儡に過ぎなかったのだ。
「黙れ、堂々……! それ以上、喋るな……」
律は、血の混じった声を絞り出す。だが、堂々の言葉は、逃れられない真実となって空間を支配していく。
「累くん、君が今その少年の肉体を維持できているのは、律くんが自らの残された『器の寿命』をすべて君に譲渡したからだ。自分を定義する力を削り、君を『黒田累』という存在として固定するためのバッテリーになった。……それなのに彼は、そのボロボロの体を引きずって、解呪師を演じている。自分の家が内側から崩壊しているというのに、他人の家の埃を払って『救済』を気取っているんだ。滑稽だろ?」
その瞬間、邸宅の奥から獣の断末魔のような地鳴りが響き、窓ガラスが一斉に弾け飛んだ。ロスカットが実行されたのだ。
豪華なカーテンを突き破り、邸宅の中から溢れ出したのは、かつての霧島家の住人たち……だったモノだ。彼らは堂々によって監禁され、誰も「海外」などへは行っていなかった。ただ肉体を剥奪され、自分たちが吐き散らしてきた「予言という名の嘘」に押し潰され、どろどろとした黒い泥と化して、今この瞬間に外へと吐き出されたのだ。
「おい、律! 嘘だろ……。オマエ、死ぬのか? オレのせいで……!」
累が律の肩を掴む。律の体温は尋常ではなく下がり、瞳からは生命の光が遠のいていく。庭園の薔薇が泥に触れて文字の羅列へと崩れ落ち、世界の理が溶けていく。
「……累。逃げろ。ここはもう、正常な世界じゃない。ただの、『回収場』だ」
律のひび割れた声を、堂々の冷淡な宣告が塗りつぶす。
「逃げる場所なんてない。今から、無責任な言葉が牙を剥く。人間に愛されなかった僕ら言霊が、その肉体を喰らい尽くす『正当な餌場』に変わるんだ」
成城の空が、ネット上の罵詈雑言や空虚な嘘の影に覆われていく。律は崩れる膝を突き、絶望に染まる累の横顔を見た。
「……オレは、認めねぇ」
累の喉の奥から、地を這うような低い咆哮が漏れる。
「オマエの理屈も、律の自己満足も……全部、オレが食い殺してやる」
少年の姿をしたワニの神霊が、その真の姿を現そうと、大気を震わせ始めた。




