第27話 ワニの予言を盗む者②
成城の高級住宅街に佇む霧島邸。その門をくぐった瞬間、空気の質が物理的な重みを伴って変化した。
霧島家は現在、来客用に執事一人を残して全員海外旅行中らしい。
出迎えたのは、今回の依頼の代理人であり、背筋を正した初老の執事だった。彼は律たちの姿を認めると、慇懃に頭を下げた。だが、律と視線がぶつかった瞬間、執事の足元がわずかに揺らいだ。
「……失礼ですが、お客様。以前、どこかでお会いしたことはございませんか?」
執事の視線は、律の顔の造作を、まるで手元の記憶のパズルに無理やり嵌め込もうとするような、必死の眼差しで彷徨っていた。
「いいえ。私はただの解呪師です。……以前のことは、覚えていませんよ」
律が眼鏡のない瞳で淡々と告げると、執事はハッとしたように表情を正した。
「……左様でございますか。申し訳ございません。私は先月、急病で引退した前任からこの職を引き継いだばかりでして。……あの方の面影に、あまりに似ていらしたもので。つい、無礼をいたしました」
「あの方?」
「失礼しました。私の個人的な話でございます」
執事が背を向け、奥へと案内を始める。その背中を見送りながら、累が律の袖をぐいと引き、歩きながら小声で囁いた。
「……おい。今のじいさん、オマエを見て驚いた顔をしてたぜい。普通あんなにビビるもんかよ?」
「……さあね。僕にそっくりな親戚でもいたんじゃないかな」
律は事もなげに答えたが、その視線は執事の背中に吸い寄せられたままだった。
累は「ふーん、そういうもんか」とすぐに興味を失い、鼻を鳴らして邸内の別の匂いを探り始めたが、律の脳内では執事の放った「あの方」という言葉が、鋭い棘となって刺さっていた。
それから──案内された霧島家の最奥、外光を拒絶した書庫の祭壇に、それは鎮座していた。
――『ワニの予言』。
重厚な革表紙を開いた律の瞳に、この世のものとは思えない密度の「文字」が飛び込んでくる。
律は、吸い込まれるようにページをめくった。そこには霧島家が歩むはずだった繁栄と、その代償として降りかかるはずだった絶望が、冷徹な筆致で綴られている。だが、律の指が、ある一ページで凍りついた。
巻末に近いその場所には、広大な「空白」があった。
汚れ一つないはずの紙面が、まるで鋭利な刃物で抉り取られたかのように、一行まるごと欠落している。不自然なほどに滑らかな、言葉の断絶。
それは予言が外れた証拠ではない。むしろ、何者かが「これから起こる結末」を、物理的にこの世から消し去ったかのような、悍ましいまでの不在。
この空白こそが、世界の理を壊す「継ぎ目」なのではないか――。
律がその思考の深淵に呑み込まれそうになった時、背後で累が低く唸った。
「……ひでぇ匂いだ。未来を盗まれたってのは、こういうことかよ」
隣を歩く累が、牙を剥き出しにして鼻を鳴らす。
黄金の瞳を細め、野性の本能で周囲を警戒する累。彼にとっては、この邸宅そのものが巨大な胃袋の中であるかのように感じられているのかもしれない。
「おや、よく分かったね。……眼鏡を外した君は、以前よりもずっと『真実』に近いよ」
洋館のテラスから、場違いなほど軽やかな声が降ってきた。
堂々 廻だった。彼は、薄手のサマーニットの袖を無造作に捲り上げると、手すりに背を預けて二人を見下ろした。その傍らには、飲みかけのアイスコーヒーが結露し、テラスのテーブルに小さな輪を作っている。夏の陽光を浴びながら冷たい飲み物を楽しむその姿は、凄惨な解体現場を前にした見物人としては、あまりに優雅すぎた。
「霧島家は、ワニの予言を独占して『不幸になるはずの運命』を回避し続けた。……でも、律くん。人間の歪んだ心が勝手に怪異(不幸)を生み出し、その贖罪として与えられた絶望(天罰)さえも帳消しにされてしまったら、僕ら怪異たちは何を糧に形を保てばいいと思う?」
堂々がグラスを揺らし、氷をカラリと鳴らして冷たく微笑む。
「かつて僕ら怪異は、言葉を守る『精霊』だった。人間が言葉に命を懸け、誓いを血で刻んでいた頃、僕らはその中で必死に生きていたんだ。そこには明確な定義と、揺るぎない存在の拠り所があった。……だが、今の人間はどうだ? 指先一つで投げ捨てられる無責任な嘘と、画面の向こうから放たれる矛盾だらけの誹謗中傷。インターネットという広大な下水道に、彼らが無造作に言葉を汚して捨て続けたせいで、僕らは精霊としての形を保てず、短命で醜悪な『怪異』へと成り果てたんだよ」
堂々は手すりから身を乗り出し、吸い込まれるような淀みのない瞳で律を見つめた。
「霧島家が『予言という名の嘘』で不当に隠した負債のシワ寄せは、全部僕ら怪異に来ている。彼らが逃れた絶望は、僕らを焼く毒に変わった。……だから組織は判断したんだ。霧島家を強制決済し、彼らが溜め込んだ絶望を街へ解放するとね。これは親に捨てられた子供が、親の肉体を奪い取って生き延びようとする、生存のための正当防衛だ。君なら、この論理の正しさが理解できるだろう?」
堂々がようやく律を正面から見据える。その瞳は夏の光を反射して透き通っているが、その奥には感情の温度が欠片も存在しない。ただ「正しい計算」だけを繰り返す、計算機のような眼差し。
「……システムの代行者として、人間を家畜のように扱う。それが君の仕事かい、堂々くん。そんな理屈、僕は認めないよ」
律は一歩踏み出し、激しい頭痛に耐えながら堂々を睨みつけた。
「そう。怪異が消滅しないためには、確定した『器』が必要だ。……それに比べて、律くん。君はどうだい?」
堂々の声が、極低温の刃となって律の鼓膜を打つ。
「君が今使っているその脳、その肺、その心臓。それは一体、誰の『合意』で手に入れたものかな? 僕らは被害者として、怪異界の決められた計画に沿って人間の器を請求しているが、君は違う。……僕らから見れば、君は不法に入手した死体に居座り、あろうことか『人間』のふりをして平穏を貪る、最も卑劣な『不法占拠者』だ。……累くんという、純粋な少年の願いを背負った『正当な継承者』の隣に立つ資格なんて、君には一分もありはしないんだよ」
累の体が、びくりと跳ねた。
「……おい。何言ってやがる、コイツ……。律が、不法……?」
累の困惑した視線が、律の細い背中に注がれる。律は拳を固く握りしめたまま、何も言い返せなかった。
眼鏡をかけていない今の律には、堂々の言葉が「正論」という名の呪いとなって、容赦なくその存在を削り取っていく。
【設定の補足:器と言霊】
組織の幹部たちは、本来不安定な「言霊」ですが、人間の「器(肉体)」を授かることで自我を安定させています。「テセウスの船」などのように矛盾に耐えきれず暴走する怪異とは異なり、彼らはその矛盾を「特殊能力」として制御下に置いています。累と律のバディは、その制御すら超えた「絆」という名の矛盾で対抗していくことになります。




