第26話 ワニの予言を盗む者①
穏やかな朝食の時間は、一本の奇妙な電話によって破られた。
解呪屋・二律背反の店舗兼事務所に、鋭く、それでいてどこか湿り気を帯びたベルの音が響き渡る。律はトーストを口に運ぼうとしていた手を止め、細長い指先で受話器を取った。
隣では、累が約束通り「プロテイン抜きの」ホットケーキを豪快に頬張っている。律が優しく教え込んだ甲斐あって、表面は狐色に、中はしっとりと焼き上げられたそれは、湯気と共にメープルシロップの甘い香りを漂わせていた。
「……はい、二律背反です。――ええ、ええ。左様ですか。それは……また、随分と『理不尽』な盗難ですね」
律の声は穏やかだったが、その双眸はわずかに細められた。
電話の主は、都内でも有数の資産家として知られる老紳士、霧島氏お抱えの老執事だった。彼が訴えたのは、金銀財宝や名画の類ではない。屋敷に代々伝わる『ワニの予言』を盗まれた、という奇妙極まりない告白だった。
「予言を、盗む?」
ホットケーキを飲み込んだ累が、不思議そうに首を傾げる。
「紙に書いてあった予言を盗まれたってのか? そんなの、また書き直せば済む話だろ。泥棒も物好きだなぁ」
「いや、累。どうやらそう単純な話ではないらしいんだ」
律は受話器を置き、まだ眼鏡をかけていないままの、少し焦点の合わない瞳で累を見つめた。
「盗まれたのは記録された『結果』じゃなくて、予言という『現象』そのもの……。正確に言えば、その屋敷の主に備わっていた『未来を視る権利』が奪われたそうなんだ。霧島家の人々は、代々ある条件下で未来の断片を視ることができた。だけど昨夜、その力が根こそぎ消失したんだって」
未来を視る力、あるいはその権利を物理的な重みを持って奪う。
それは通常の人間やコソ泥にできる芸当ではない。明白な「怪異」の関与。それも、他者の運命の糸を物理的に手繰り寄せ、断ち切ることができるほど強力な存在だ。
「……っ、げほっ、ごほっ……!」
説明を続けようとした律が、突然、椅子に手をついて激しく咳き込んだ。
喉の奥からせり上がるのは、錆びた鉄の味が混じった不快な熱。そして、一瞬だけ視界が「反転」した。天井が床に、温かな光が凍てつく闇に。それどころか、目の前にいる累の姿が、一瞬だけ「知らない誰か」の輪郭に重なって見えた。
「おい、律! 大丈夫かよ!」
累が皿を置き、慌てて身を乗り出して律の肩を支える。その冷たく小さな掌が、律の意識を強引に現世へと引き戻した。
「……ああ。ごめん、累。少し……立ちくらみがしただけだよ。嘘つきの街の毒が、まだ少し残っているのかもしれないね」
律は累を安心させるように、いつもの温厚で柔らかな微笑を浮かべた。
だが、律自身は気づいていた。
この「揺らぎ」は、毒のせいなどではない。自分の肉体――「死体の脳を借り、嘘を重ねて生きる」という、この世に繋ぎ止められた矛盾の賞味期限が、確実に終わりへと近づいている。内側から、別の誰かが……眠っていた「本物の律」の自我が、扉を内側から爪で引っ掻くような、鈍く重い鼓動を刻み始めているのだ。
「累。……今度の依頼は、君にとっても他人事ではないかもしれない」
「あ? なんでだよ。オレは予言なんて興味ねえぞ」
「盗まれた予言の依代……。それは、かつて南米の未開の部族から略奪されたという、巨大な『黒いワニの剥製』だそうなんだ。その剥製の口が開く時、未来が語られる。君の同族……あるいは、君という怪異が生まれたルーツに関わるものかもしれないんだ」
累の顔つきが、一瞬で「怪異」のそれへと鋭さを増した。
ワニの予言を盗む者。そして、律の肉体に訪れる静かなる崩壊。
「……その泥棒、ワニを盗んだってのか」
「正確には、ワニに宿る『未来の記憶』をだね」
二人は、依頼人の待つ成城の豪邸へと足を運ぶことに決めた。
初春の冷たい風が、事務所の窓をガタガタと揺らす。律は、かつては自分を世界から守るための盾としていた眼鏡を、あえて手に取らなかった。剥き出しの左目の痣が、時折ピリピリと空気に触れて痛む。だが、その痛みこそが、今自分が「背反二 律」として存在している唯一の証明のように思えた。
「行きましょう、累。……僕が僕であるうちに、この『嘘』を本当の物語にするために」
律の足取りは、いつになく微かな震えを孕んでいた。
玄関を出る際、律はふと、鏡に映った自分の顔を見た。
そこに映っていたのは、穏やかに微笑む自分か。それとも、自分を喰らおうと目を光らせている「本物の律」の影か。
成城の高級住宅街。その一角に佇む、高く厚い塀に囲まれた霧島邸。
そこには、未来を失った一族の絶望と、それを嘲笑うような「泥棒」の残滓が、黒い霧となって漂っていた。
律は、崩れゆく身体を精神の糸で繋ぎ止めながら、重い門扉を押し開いた。




