第25話 怪異の食卓③
食卓を囲む穏やかな時間は、雑炊の熱が腹の底を温める頃には、しっとりとした静寂に包まれていた。
先ほどまでの紫色の異臭は跡形もなく消え、代わりに事務所を支配しているのは、出汁の余韻と三つ葉の瑞々しい香りだ。累は最後の一滴まで器を空にすると、心底満足したのか、巨体を背もたれに預けて一つ、大きく息を吐いた。
「……ふん。まあ、合格点だ(=最高だった)。少しは元気が出たかよ、律」
「うん。おかげさまで、視界の隅にチラついていた三途の川の船頭さんも、愛想を尽かして帰ってくれたみたいだよ」
律は優雅にナプキンで口元を拭い、ふっと穏やかに息をついた。
境界線のない彼の瞳は、いつになく深く累を映し出している。そこには普段の知的で近寄りがたい「解呪師」の冷徹さはなく、ただ累という相棒を大切に想う、一人の青年としての温かな熱が宿っていた。
眼鏡を置いて過ごすこの数十分間だけは、彼を縛る「背反二 律」という役割からも解放されているのかもしれない。
「さて、食事の後は片付けだ。累、君が広げたこの戦場……僕も手伝おうか?」
「あ? オレがやるに決まってんだろ! オマエは、その……まだ左目が本調子じゃねえんだから、そこで座ってろ(=休んでろ)」
累は不器用な手つきで空の碗をまとめると、キッチンへ向かってのっそりと立ち上がった。その際、彼の尻尾がうっかり律の膝をかすめる。それは謝罪の代わりなのか、それとも、彼なりの不器用な照れ隠しの接触なのか。律はその感触を拒むことなく、ただ静かに微笑んで見送った。
キッチンから流れてくる、洗剤の泡の音と皿が重なり合う音を聞きながら、律はふと、事務所の隅に置かれた「紫色の混沌」の残骸を見やった。研究用という名目で残したが、実際のところ、あれは累が「律のために」と慣れない努力を尽くした結晶だ。
普段は強気なワニの怪異が、自分のために絆創膏を巻いてまでキッチンに立った。その事実が、律の凍てついた心を内側から溶かしていく。
(……この不自由な世界で、君という存在だけが、僕を物理的な崩壊から繋ぎ止めてくれる。君が吐く不器用な嘘と、真っ直ぐな本音に、僕はどれほど救われているんだろうね)
律はそっと、自らの左目の淵に指を這わせた。
左目の痣は、剥き出しの皮膚の上で、相変わらず微かな疼きを立てている。だが、その痛みさえも、累が振る舞ったあの「イチゴジャムとミミズの衝撃」に比べれば、どこか愛おしいもののように感じられた。死の淵を覗き込んだ後のこの疼きは、自分が今、確かにこの場所で、累と共に生きているという証左でもある。
視界が少し霞んでいるのは、左目のせいだけではないだろう。窓から差し込む月光と、事務所を満たす温かな空気が、すべてを優しく包み込んでいた。
「おい、律! 洗剤がねえぞ! どこに隠しやがった(=どこにあるんだ?)」
「隠したつもりはないんだけど……。シンクの下の、右側の棚にあるよ。左側は危ないものが入っているから、間違えて開けないようにね」
「へっ、分かってらぁ! ……ったく、世話の焼ける野郎だぜ」
蛇口から勢いよく水が出る音。累の背中越しに、律は小さく独白する。
「世話が焼けるのは、お互い様だよ、累」
嘘を吐かなければ生きていけない街で、本物の律という呪いと向き合い、視力を失いかけた代償。その先に待っていたのは、こうして「不味い飯」と「美味い飯」を分け合い、共に皿を洗うという、この上なく人間らしい、そして奇跡のような日常だった。
明日になれば、また「解呪師」としての仮面を被らなければならない。だが、今はまだ、この温もりに浸っていたい。律はゆっくりと立ち上がると、キッチンの累の隣に並び、乾いた布巾を手に取った。
「言っただろ、座ってろって!」
「ふふ、いいじゃないか。二人でやった方が、早く終わるでしょ?」
累の放つ野生の匂いと、洗剤の清潔な香りが混ざり合う。それはどんな高級なアールグレイよりも、律の心を安らげるものだった。
窓の外では、月が静かに銀色の光を注いでいる。
二人の影が、事務所の壁で一つに重なり、ゆっくりと揺れていた。
この「食卓」がある限り、どんな強大な怪異が訪れようとも、二律背反の二人が歩みを止めることはないだろう。
「……明日も、早いよ。累」
「ああ……。明日の朝飯は、オレがホットケーキ焼いてやるから覚悟してろよ!」
「……ふふ、それは楽しみだね。……でも、プロテインの粉末だけは、戸棚の奥に封印しておいてくれるかな。それと、ジャムも僕が選んだものを使ってほしいな」
「うっせえ! 味の好みにケチつけんじゃねえ!(=次はもっと上手くやる)」
二人の軽快な笑い声が、夜の帳へと溶けていった。




